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四旬節第5主日(3月26日)「わたしは復活であり、命である。」

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」                ヨハネ11:25-26

【説教要旨】 「わたしは復活であり、命である。」

55歳の若さで天に召された牧師さんの葬儀に出ました。期待されていた現役の若い牧師で、惜しい方であったということで、多くの参列者が来られていました。「神はなぜ、命を取られたか」という問いが満ち溢れていたように感じました。会堂の天井を見ながら死を前にして、何もなすことが出来ない存在として私たちはいると感じました。また、先日、孫が私の赤ちゃんのときに似ている写真を見ました。この子は自分と重ねてどうなっていくのだろうかと思い、もう少し死を延ばしてくれないだろうかと思ってしまいました。叶わぬことです。

「墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』と言った。」

彼女らは死を前にして、何も出来ずに、諦めています。その彼女らの傍によりそうイエスさまが描かれています。

イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。

イエスさまは、人の苦しみや悲しみを、どこか高い所から見下ろしておられません。激しく心を動かし、平静に冷静に振舞っていません。「心に憤りを覚え、興奮して、」とあります。そして、「イエスは涙を流された。」とあります。マルタ、マリヤの悲しみを共に一つとされ、泣いてくださった。

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ロシアのウクライナ侵略で、多くの命が奪われ続けています。何度も言いますが、死を前にして人は何も出来ずに、嘆き悲しむしかないという現実を見せつけられています。愛するものを亡くした者にとって死の現実を分かり切っていても納得がいかない。どうしてと叫びたくなる。しかし、聖書は語ります。愛するものを亡くした者の悲しみを共にされ、彼らと共に涙を流してくださるイエスさま。「心に憤りを覚え」とあるように、私たちを苦しめている死という敵に、最大の敵に対して、憤りをもって、共に戦ってくださっておられるイエスさま。

「わたしは復活であり、命である。」イエスは、死そのものである十字架の死を超えて、甦り、命として私たちに現れました。死を飲み込み、勝利された方として私たちの前に立ってくださいます。イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

「『わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。』。この言葉は、同じ一つの事柄を表からと裏から言ったものだと、理解することが出来るかと思います。つまり、イエスを信じるもの(信仰によって今すでにイエス・キリストに在る者)-そういう人ももちろんやがては死を迎えなければならない。しかし、そのような人の中にもすでに自ら甦りであり命であり給うイエスにある新しい命が宿っているとすれば、そのような人がやがて迎える肉体的な死というのは、一体何だろうか。その場合には、死はもうその恐ろしい力を失っている。その死からは、私たちを苦しめる棘は抜かれてしまっている。その場合には、肉体的な死の時と言うのは、もはや命から新しい死の世界に入る暗い入り口ではなく、命の一つの在り方から別の在り方への転換のときにすぎない。通過点にすぎない。そのことを、これらのみ言葉は語っていると思います。ですから裏から言えば、『たとい死んでも生きる』と言うことができますし、表から言えば、『いつまでも死なない』ということができるわけであります。

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私は、ボンフェッファのことを思い出します。・・・・(処刑)彼を引っ立てるために部屋に入って来た民兵を前にして、『これが最後です。しかし私にとっては、生命の始まりです』というチチェスターの主教ベルに宛てたメッセージを同囚の友に託したということです。これは感動的な言葉ですが、しかしこの言葉は、私たち信仰者すべての者が地上の生涯の最後の日に語ることを許されている言葉だということを、私たちはお互いに銘記したいと思います。」と井上良雄先生は言われます。

確かに人は死を前にして無力です。しかし、ここにイエス・キリストが立たれるとき、肉体的な死の時と言うのは、もはや命から新しい死の世界に入る暗い入り口ではなく、命の一つの在り方から別の在り方への転換のときにすぎないのです。

もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。                                                                             ローマ信徒の手紙8:11

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牧師室の小窓からのぞいてみると

昔、中学だったか、高校だったか忘れたが、アテネの民政が、民衆に迎合した迎合主義者によって滅びに導かれた政治を衆愚政治と学んだ。このごろの世界の政治の動きをみているとアメリカ大統領だったトランプ氏を代表するような私には迎合主義者としか思えない人が支持される。一方、独裁者、プーチン・ロシア大統領がいる。そういう政治家が人々を発達した通信技術、インターネットを利用、支配して人類は滅んでいくという方向に煽っているとしか思えない。

イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」・・ 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。 そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。 そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。

      園長・瞑想?迷走記

春休みの長期預かり保育が始まる。利用定員88名中40名を超す子どもたちがやってくる。私が着任した15年前は桜の木の下には数名の子だけであった。社会が大きく変化していることが分かる。政府が保育園入園条件を緩やかにしようとするとき、ますます、こういう傾向は増えてくるのだろう。

この傾向は幼稚園にとって大きく変化していくことを差し迫られている。子どもの成長を考えながら、預かり保育の教育・保育の内容を考え直し、その充実化にさらに努めなければならない。

内部研修で、通常保育と預かり保育の連続性ということを具体的に勉強した。こういう地道な取り組みを継続してこそ子どもたちの成長に必要なことと思う。

学ぶということを大切にしていく幼稚園運営をこの一年も続けたい。今の時代だからこそ。

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                日毎の糧

聖書:わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。       詩編118:21

              ルターの言葉から

これは喜びにあふれた聖句です。純粋な喜びをもって、歌い踊ります。あなたは私たちを、驚くべく、また恵み深く統べ治めら

れる、驚くべき尊い神ではないでしょうか。

 あなたは私たちを最もへりくだるとき、最も高くあげてくださいます。

私たち罪人であることを示すときに、義としてくださいます。私たちをよみに下らせるとき、天に導いてくださいます。私たちを降伏させるとき、勝利を与えてくださいます。私たちを死に渡すとき、生命を与えてくださいます。私たちに悲しみを与えるとき、慰めを下さいます。嘆き悲しみを与えるとき、喜びにあふれさせてくださいます。泣くことを許すとき歌を与えてくださいます。私たちが苦しむとき、強くしてくださいます。貧しくするとき、富める者にしてくださいます。私たちに仕えることを許すとき、主(あるじ)にしてくださいます。

 こうしてこの一句の中に、数えきれないほどの驚くべきことが含まれています。これらのすべてに対して、キリスト者は短い感謝のことばをささげます。「わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。」と。

『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

確かなこと

詩篇121は、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」と問いました。詩篇118は、「あなたは答え、救いを与えてくださった。」と答えます。「あなた」、神です。ルターが「私たちを死に渡すとき、生命を与えてくださいます。」と、死と言う答えのないとき、生命を与えると答える神がおられることを知っています。私たちは人生の歩みで事実を見るのでなく、神の真実を信じることこそ、感謝が私たちに湧き出てくるのです。わたしはあなたに感謝をささげると。神の真実を信じていきましょう。

祈り:神の救いの真実を信じていけますように。

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大森通信

「引退の準備」

伝道45年  総会資料Ⅷ 「牧会Ⅲ」

 

信徒と牧師による相互牧会といえども、牧師も罪人であり、牧師自身も牧会を受けるものであり、信徒は癒やしを求めてきて、やはり牧会を受けるものです。牧会は教会にとって必要不可欠ですが、人はすべて牧会を受けるものであれば、牧会を担う人がいなくなります。いないのである。それは事実です。

「主は私の牧者とあります」とあるように、信徒も、牧師も等しく神の牧会を受けるものであります。まず、このことを押さえておきたいのです。私たちが牧会をしない。神がなさることを、これに意外と気づいていません。

では、牧会は神がなさるものであるという基本を押さえつつ、同時に牧会は牧師、信徒がするのです。絶対矛盾がある。どうすべきでしょうか。霊性です。具体的には、み言葉に傾聴すること、祈ることです。牧会はここから始まります。礼拝(み言葉)と祈りです。私たちの教会は礼拝を3回、聖書の学び・祈祷会、み言葉に傾聴するのです。礼拝後の祈りの会、聖書の学び・祈祷会で、それぞれが祈りの課題を出し、祈ります。これこそ、主は、私の牧者というみ言葉への応答の姿勢です。祈りを聞かれる主がここにおられるのです。ここから牧会の物語は始まるのです。主は祈りを通して、私たちを牧会者として招かれるのです。祈りをともにする者は、ここでは牧師も信徒も等しくあるのです。ルターのいう万人祭司ということが展開されるのです。相互牧会が成り立つのです。私たちは牧会されるものと同時に牧会するという存在です。絶対矛盾こそ神の奥義であります。

大森日記)教会学校も春休みに入り、静かな主日。何かものたりない。)春休み長期預かり、40名を越す子どもたちの声。時代は変化した。)教区総会。Zoomでしょうか議論がない。)月曜日に続いて羽村。そのあと錦糸町の菊川保育園で幼保役員会。)庭掃除と草取、信徒さんとイースターカードの準備。)本部へ負担金を納めにいく。