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四旬節第4主日(3月19日)「私の目の前に」

「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」    エフェソ信徒への手紙5:15

1さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 2弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」                                   ヨハネによる福音書9:1-3

 

【説教要旨】         私の目の前に

それぞれが教会に来られ、出会った牧師によって影響を与えられ、イエス・キリストへと導かれ、洗礼を受けたのではないでしょうか。そして、みなさんがここにいるのではないでしょうか。

私が出合った牧師は内野重人牧師です。奥様は「内野の説教を聞かなければ一週間が始まった気持ちにならない」と言われていました。説教を大切にされていたことを覚えています。そして、今日の聖書日課の盲人の癒しの記事の「イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」」というみ言葉を説教されたことは覚えていますが、内容は覚えていません。そして、私が出会ったとき、まだ社会福祉、特に知的障がい者の児童の施設が北九州市にはなく、知的障がい児のために心血を注いでいました。ですから、先生にとって、今日のみ言葉は自分を支えるものだったようで、特に視覚障害を持ったことについて、「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」というみ言葉を日頃、よく私に話され、特に「神の業がこの人に現れるためである。」というみ言葉を語られていました。幼稚園の一室を知的障がい児のために母子学級として開放し、後に迫られて知的障がい児施設を作っていく姿を高校生のとき傍でみながら、なぜ、この人はここまでいくのだろうかと感じていました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。」当時、まだ「親の因果が子に報う」という日本の世界にあって、違うと受け止めたのです。違うと言うとき、それは自分の目の前にいる人が、知的障がいを持っていようと、健常者であろうとそれぞれの生が神の前においては同じだということをイエス・キリストは私たちに言われているのではないでしょうか。私たち一人一人の生は、「神の業がこの人に現れるためである。」ということです。

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しかし、現実は厳しいものです。神の業がこの人に現れるどころか、座って物乞いをし、両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからであると記されているように親からは保護されていない、あなたがたは、以前には暗闇でした、闇が視覚障がいをもった人にはありました。どこに神の業がこの人に現れがあるのでしょうか。この現実に押しつぶされ、ただ座し物乞いしてその日をつないでいくしかなかった。しかし、聖書は私たちにもう一つの事実を示される。さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

通りすがりにとあるように、何の変哲もない通りすがりの日常にイエスは、来られるということです。ただ、そこにはいつものような景色があり、見過ごされていくのではなく、生まれつき目の見えない人を見かけられたとあるように闇の中で苦しんでいる人を見られるのです。闇の中にイエスは入ってこられるという事実があります。

こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 7そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来たという出来事を起こしてくださいます。

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内野牧師を傍で見ていたら、この神の事実を先生は指していた。その事実に常に立てないことで苦しんでいました。されど、知的障がい児を見、今、通り過ぎることも出来ないところまで追い込まれていくのです。

この視覚障がいをもった人の前に立ったのはイエス・キリストです。先生の前に立たれたのもイエス・キリストです。先生は大きな障がいの前に、いつも「神さの御心なら実現してくださる」と言われていました。だからパウロの「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」と言う言葉を信じ、眠りについている自分に起きよと、死者の中から立ち上がれと自分に語りかけキリストに照らされ知的障がい者児童の施設を作ります。その施設の理念を「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。エフェソ5:8」としたのです。ホームぺーに「聖書・エフェソの信徒への手紙5章8節『光の子として歩みなさい』を法人の理念とし、障礙のある者も、ない者も、共に神様に愛され生かされていることを心に留めながら、互いに認め合い、赦し合い、支え合い、感謝し合い、喜び合う光の子として、園児、利用者、保護者、職員が手を携え歩みを進めています。」とあります。私たちは光の子として歩む者です。光の子と歩む光はキリストが照らしてくださるからです。この視覚障害をもった人は闇の中にキリストに照らされ、彼は行って洗い、目が見えるようになったという奇跡を体験するのです。私の目の前で、神の業が彼に現れるのです。眠りから起き、死者の中から立ち上がられるのです。神の業が現れるために私たち一人一人の人生があることを信じて、あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みましょう。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

東日本大震災から12年。まだ比較的放射線の量の高い地域に住む子どもたちとお母さんを対象に、心身のリフレッシュを目的に、「福島のこども支援」を行っている東京YWCAの活動のために今年もチャリティーコンサートを開催した。教会は、この活動を20年間支援をするということを決めたが、あと、8年で20年となる。月日の流れの早さを感じる。

2022年のロシアのウクライナ侵略から、石油関連、とりわけ電力のエネルギーの課題が出てきた。そこで、原子力発電について見直し、非原発に向かっていたが、ここに来て、原発の再稼働、そして、マスコミなどがそちらに誘導しているように感じられる。仮置き場にある原発の廃棄物を最終処分場に持って行くにはどうするかという課題が残っており、まだ、比較的放射線の量が高い場所があることも現実もある。12年過ぎたところでまた新たな課題に直面していることも私たちは忘れてはいけないと感じる。こういう課題を覚えつつ、これから後8年、東京YWCAの活動、「福島のこども支援」を続けられればと決意した東日本大震災追悼、復興の礼拝であり、チャリティーコンサートであった。

 

      園長・瞑想?迷走記

3月に入り、卒園式が行われ、春休みにはいるが、同時に園長は、2023年度保育方針、運営、予算、諸規則改正と、理事会、運営委員会の準備をしなければならなくなる。社会が複雑になればなるほど複雑になる。しかし、零細企業の幼稚園はその社会の複雑さに追いつくのにあっぷあっぷしているのが、現実である。これを園長が今まで一人でやっていた。これがまた問題であると思う。園長は、卒園式見ながら、このことに取り組んでいる。2月から3月まで、園長は休まる暇もない。幸い大森は、複雑な事務処理を出来る事務担当がいるために動いている。これをこれからもどう堅持していくか。

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日毎の糧

聖書: あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。主に寄り頼むはもろもろの君にたよるよりも良い。                    詩編23:5

ルターの言葉から

 神の言葉は全能であり、信仰と霊は、常に熱心に休みなく戦場で働かなければならない。だから、神の言葉は、弱者ならぬ最強の敵をもたねばならないが、彼ら(肉、この世、死、悪魔の四者)に対して、み言葉自身の強い力によって名誉を得ることができる。キリストが、戦って、私たちと共に戦場にいてくださる「万軍の主なる神」と言われるのはそのためです。        『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館

キリストが、戦って、私たちと共に戦場にいてくださる

 「もろもろの君にたよる」という言葉を実感する日々が私たちの生活だと思う。もろもろの君である権力、知識、お金があるかどうかは私たちの日々の生活を左右することを私たちは実感しているのではないだろうか。もろもろの君は、自分の権力、知識、お金をさらに得るために容赦なく自分たちの都合の良いように行動してくる。弱者の私たちに太刀打ちできるようなものではない。しかし、こういう現実にあって、私たちが社会の課題と真剣に向かい合えば向かい合うほど、権力、知識、お金があればと呟いている。本気に思っている。それがわたしの敵である。私たちがどこに立つかと言うことを問われている試練であり、戦場である。「神の言葉は全能であり、信仰と霊は、常に熱心に休みなく戦場で働かなければならない。

わたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれるキリストが、戦って、私たちと共に戦場にいてくださるのです。私たちは日々の現実の中で、この方、キリストをみていきましょう。

祈り:キリストを信じ、キリストにまなざしを向けていけますように。

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大森通信

「引退の準備」

伝道45年  総会資料Ⅷ 「牧会Ⅱ」

社会の価値観の多様性、自我の強さの中で、牧会は不可能になりつつある。神の言葉をとりつぐ牧師が、神の言葉を語って、牧会(人を導く、人と共に歩みケアー)をしても、自分の答えをもっている自我にはとても通じないことになる。それも多様で、これと向いあっていくことは深い闇に落とされる。まだ、牧師の言う言葉に耳を傾てくれた時代を経験した私たちは、決定的に信徒と対立することはなかったので、どうにか牧会に夢をもてる。

しかし、今の若い牧師が精神的に病気をもち、また辞めていくのはなぜかと思うと、自分自身に強い自我あり、決して自分を換えようとしない自分がいて、一方、自我をもったすでに答えをもっている信徒がいる。優しい真面目な牧師は信徒と一つになれないところで自分を自分自身で攻めていく。また、権利意識の強い社会、SNSの発達した社会で生き辛さがさらに増す。近代的人物として、夏目漱石は自我に苦しみ胃に穴が開き亡くなったように、病気で苦しむことになる。夢がもてなくなっている。信仰、召命感がないということだけでおさまらない時代が今だと思う。従来の牧会はなりたたない状況にある。

では、どう牧会(人を導く、人と共に歩みケアー)するか、一つは祈る教会となること、祈りに参加すること。自我意識の強い個人、多様化した中で、牧師一人が牧会するのは不可能である。それぞれのタレントを活かし合い相互牧会へ教会として向かうことだと感じている。

大森日記)3・11の追悼、復興の礼拝。その前に神学生と木の剪定、感謝。)小学1年の同窓会の教会学校、3・11の追悼、復興、チャリティーコンサート。)残り一年は、小坊主に戻って出来るだけ早朝の掃除をすることにした。葬儀へでかける。)次年度保育方針の打ち合わせ。子どもたちが幸せになりますように。)多くの施設を生み出した母体キリスト道友会の総会。母はこのため先細りをする。)卒園式、「聖書の学び」。)羽村の卒園式、管理者委員会。働き方を改めていくのは大きな課題がある。しかし、取り組むしかない。