四旬節第3主日(3月12日)「愛されて生きる」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 ヨハネによる福音書4:13-14
【説教要旨】 愛されて生きる
この頃、水を水道から飲むことなく、ペットボトルの水を購入して飲むことが普通になりました。水の飲み方の変化はおきていますが、水が生命を支えるということは変わりません。生命を支えるために必死に求めているサマリアの女の行動が伝わってきます。まずシカルの町には良い水源があり、人はわざわざヤコブの井戸から水を汲むことがなかったと言われています。この井戸は深かったということで困難な作業があったということです。さらにサマリアの女は、普通ならに汲みに来ない暑い正午ごろの日中の時間に水を汲みに来ているのです。それを毎日、毎日、汲みに来なければならなかったのです。サマリアの女には何か人目を避けなければならないことがあったのでしょうが、だからといって、命の糧の水を汲みにこないというわけにはいかなかったのです。サマリアの女の必死さが伝わってきます。
この命を水を求めてくる毎日、毎日に疲れを覚えていたのではないでしょうか。その疲れを覚えている女性のところにイエスさまは来られるのです。
4:4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。 4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことであるとあります。「サマリアを通らねばならなかった。」とは、わざわざイエスさまが来てくださったということです。そこは、命の水を求めて必死に毎日毎日生きている女性がいる。ここにイエスさまが来てくださったのです。
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ヨハネは、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。1:14」と記しています。言葉、イエス・キリストが私たちの只中に宿を取られたということです。
「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。」と人となったイエスは旅に疲れていたということです。サマリアの女が毎日毎日、命の水を汲むために疲れていた疲れをイエスは、自分自身のものとされたということです。
ブラジルで旅行鞄をもって、1300㎞、1200㎞、帰りは650㎞を夜行バスに乗り、日本人のいる開拓地、街を月1回、訪ねていました。バスを降りると靴に足が入らないというほど疲れを覚えました。4:3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた足で歩いたイエスは旅に疲れたという言葉に、自分の旅にイエスがおられたという実感と恵に感謝しています。
命の糧を求めて、毎日、毎日の人生の旅に、疲れを感じている私と同じようにイエスも疲れた。いや、私の旅の疲れの中に、肉となり、イエスは宿って下さったということです。私の疲れは、私だけの疲れではないということです。それが、イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられたという言葉です。
4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
なくてはならない自分を支える命の水がイエスにもなく、「水を飲ませてください」と求められたのです。これは、私たちたち自身の日々の在り方です。私たちの日々の歩みは、どう自分を支える命の水を得るかということの繰り返しです。ここにイエスはおられるのです。イエスは、ここにおられて私たちを愛される、私たちは愛されて生きているのです。
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私たちは、毎日、毎日、繰り返し命の水を求め、汲みにこなければならない。 まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。 一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。コヘレト2:22-23という壁まで追い詰められています。空しさに4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かないと。太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦しているサマリアの女にとって、苦労から解放してくれる不思議な水に心奪われ、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と真剣に「主よ」という祈りとなっていき、イエス・キリストに向かうのです。それは同時にイエス・キリストも労苦多い私たちにも向かってくださっています。
スカルの井戸辺のレンブラントの2枚の絵があります「二番目の油絵では、イエスの視線はサマリアの女に向けられているのでなく、この絵を見ている者-私たちの方に真直ぐに注がれています。私たち見ている者を、直接的に、この出来事の中に引き込みます。私たちは、イエスがそのみ言葉を私たちに語られている事実に直面させられます。」と宮田光雄先生の話のように私たちに向かい合い、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出るといつもイエス・キリストは共におられ、向かい合い、み言葉を私たちに語られる。この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かないと。この水、命の水は神の愛です。命の水を求めて労苦する日々。一生、人の務めは痛みと悩み、夜も心は休まらない日々は続くでしょう。しかし、ここにあっても具体的な水を命とするのでなく、神の愛が命となる。神に愛されて生き、信じる者は、人の内に泉となり、労苦の空しさを越えていく永遠の命の愛によって、生かされます。イエスは真直ぐ私たちを見てくださり、「わたしを信じなさい」と語りかけ、支えてくださいます。
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牧師室の小窓からのぞいてみると
東日本大震災から12年。幼稚園園児の帰宅から十数分後、大きく揺れて外に飛び出した。その時、それが大変深刻な事が起きたということを正直まだ自覚していなかった。危機感にかけていた。しかし時間がたつにそれが厳しい、深刻な困難状況が起きたと分かってきた。帰宅困難で、保護者が迎えにこられず、園に残された園児、帰宅が出来ない職員が出てきた。残された最後の園児を保護者に引き渡したのが3月11日を越えて、12日になっていた。卒園式も近く、何が起きるか分からず先生方は泊り込みで準備をした。さらに時間がたつにつれてこの地震がいかに深刻なものであるかを知っていった。
神戸・淡路大震災から十分に学んでいなかったことが分かった。震災後12年、私たちはもう一度、気を引き締め地震への備えを忘れてはいけないと心から思う。
園長・瞑想?迷走記
朝礼に「日々の聖句(ローズンゲン)」を読み、短いメッセ―ジを加え、一日の予定、注意事項を確認して、祈り、職員は掃除、準備に散っていく。ローズンゲンを使い始めたのは、羽村幼稚園と関わり、羽村幼稚園が朝礼で使用していたからである。
今、東教区にある7園はよく集まり、情報交換、新制度への移行、学校法人への移行、幼稚園の運営など助け合うようになった。そして、関わることにより、それぞれの園が刺激を受けて改善してきた。
み言葉から始まるということに気づかされ、それも朝礼という短い時間で、どう具体的になしていくかという方向を違う園と関わることによって、分かった恵だと思う。
同じ信仰を理念とする幼稚園が知り合い、刺激し合い、助け合っていくことは、子どもたちの教育、保育にとっても良いことだと思っている。大岡山、蒲田、田園調布、雪谷、羽村、飯田、大森のルーテル系の幼稚園が子どもに寄り添いながら、より良い教育・保育をするという道筋は整ったと思っている。
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日毎の糧
聖書:深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。 ・・・・・・・わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。 わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。 主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。 詩編130:1、5-8
ルターの言葉から
自分たちが助けてもらいたいときだけ、神に向かってその目的を言い、時と方法を指摘し、具体的にどう助けてほしいかを述べる人がいます。そして物事が思い通りに運ばなければ、失望して、できればほかに助けを求めようとします。
そういう人は神を待ち望みません。むしろ神が自分を待っていて、こちらの計画通りにすぐ助けられるようにしていなければならないと考えるのです。
しかし、まことに神の恵みを待ち望む人は、神が助けてくださる手段と場所と方法を、みこころにゆだねています。助けを得られないからといって、失望することはありません。しかも時や場所について指定するということは、いっさいしません。どんなに遅れても、神にその手段、方法、時、場所をゆだねるのです。助けを指定する人はそれが得られません。待ち望み、神の計画とみこころと時の満ちることを信じて、耐え忍ぶことができないからです。 (四つの慰めに満ちた詩篇講解)
『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社)
主を待ち望む
私たちは人生の旅にしばしば問題をかかえ、答えを得たいと願います。答えが出ないとき私たちは焦り、失望をします。その時こそ、今一度、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」というパウロの言葉を口に飲み込みましょう。
祈り:神の愛を信じ、主を待ち望む力を与えてください。
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大森通信
「引退の準備」 伝道45年 総会資料Ⅶ 「牧会」
社会が大変化し、今までの価値観では通じないところにいる。 しかし、なかなか難しい状況にあるからこそ、複雑な社会に苦しんでいる方々と寄り添いながら歩み、励ましていく牧会は続けていかなくてはいけない。私たちが出来ることは、ほんの僅かであるという自覚を持ちながらも、具体的なことに出合いながら、今まで良かったことも決して良いことではないことを常に自己反省しながら、具体的にどう隣人と生き、励ましていくかということの道筋をつけていかなくてはいけない。難しいことであるが、時代が一番、求めていることかもしれない。 牧会は、牧師一人ですることは限界があるということもつくづく感じている。「自分一人ではできない」という自覚が必要だと思う。 洗礼を受けた者が、皆、たまものを受け、苦しんでいる方々と寄り添いながら歩み、励ましていく奉仕の務めへと招かれているということを牧師、信徒が共有できるなら、奉仕の務めは考えられないほど幅が出てきて、質の高い影響を与えることが出来ると思う。しかし、こういう教育や養成を受けていなかった私たちは、これが困難なことだということは予想される。しかも、社会が大変化し、今までの価値観が通じない時代に世に、苦しんでいる方々と寄り添いながら歩み、励ましていくことに牧師も、信徒も共同して牧会に就くことは大切ではないだろうか。 |
(大森日記)土)幼稚園などの付属施設をもっていると、出来る時に準備をしておかないと回らない。役員会の議事、式文の一ヶ月分の作成。日)年長組担任が教会学校出席を呼び掛けていたので50人を越す人が出席くださる。先週、「幼稚園の出席率はコロナ以前を回復できない」という訴えは聞かれた。月)病気療養中のかたのために祈る。2018年以来の対面での地域牧師会。新役員も決まり、やっと会長職をおりられる。火)体操最終日。年長の体操に付き合う。水)誕生会、午後からH幼稚園へスッタフ会議。長時間の乗車でも足の痛みはやわらぐ。木)花壇の手入れ、交流会、「聖書の学び」。金)今年最後の幼稚園の礼拝。感謝。