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四旬節第3主日「愚かさに真」

あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす。ヨハネによる福音書2:17

【説教要旨】

先週の讃美歌第2編184番の改定版は、「第4節は適切さを欠いたことばがあり削除しました」と日本基督教教団・讃美歌委員会は判断し改定版より削除しているとの指摘がありました。

かくまでゆかしき 神の愛に なお感ぜぬものは ひとにあらじ。

この歌詞、これほどすばらしい神の愛に、心揺るがされないのは「人にあらじ」という信仰の激しい言葉です。この歌詞は1906年に出来て、1967年に讃美歌2編に掲載されました。「人にあらじ」とは、信仰者の独り善がりだと、「第4節は適切さを欠いたことばがあり削除しました」と。良い、適切な判断だと思います。

私たちが今まで良かったと思って生きてきた価値判断さえ、時代はその価値判断を強く、根本的に問い出しました。特に宗教というものが問われ、激しい、厳しい状況にあり、信仰生活を続けるということも、厄介で、しんどいものはありません。

今日の聖書日課は激しいイエスさまのお姿の「宮清め」という出来事を通して、私たちはみ言葉に聴いていきましょう。

過ぎ越しの祭りは大きな祭りです。国内外から神殿にお参りにくるのです。そのためその人たちに神殿にささげる動物が必要となり、献金は外国のお金であってはいけませんので、献金のための両替が必要でありました。

イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。

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神殿礼拝にとって、必要な両替という行為をイエスは、否定したのです。「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と言われたのは、外国の貨幣は穢れていているのでユダヤ貨幣に両替しなさいという規則はおかしいということでなく、もっと根本的なことです。「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。ホセア書6:6」とあるように、神の礼拝に必要ないけにえではないのです。

私たちに必要なものはなにかということです。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」といわれたように十字

架と三日目の復活による救いの力でした。神殿という目で見える形でなく、目に見えない救いの業、神の愛、神を知ることです、目に見えない救いの業、神の愛、神を知ることこそが必要なのです。 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのです。この後、30年後ヘロデ大王が作った第3神殿は崩されて、今日にいたるのです。目に見えるものは人がどんなに熱意をもって努力しても消え去ります。しかし、神さまがくださる救いの業、神の愛は消え去りません。神を知ることです。

私たちは目に見えることに奪われがちになる。そして目に見えることを整えていこうと熱心になる。それは神の名を被って行為を正当化していくことがしばしばあります。人の熱意、熱心さは尊いものです。だからこそ、熱意、熱心であるということは注意すべきことです。「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という言葉を私たちは心に刻んで、すべてを行う時に気をつけなければなりません。

私たちの熱意、熱心さは、「神様のため、イエスさまのために」と私たちは口にするが、それはどこまでいっても人間のわざによる救いであるあるということです。

確かに犠牲の鳩を売る人も、神殿にささげるために外国のお金を両替する人も、人のために役立っている仕事です。第3神殿を63年もかけて再建したヘロデ大王の熱意も貴いものですが決して人を救うものではありません。

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近代以来、私たちは人間の力で何事も開いていけるのだという「神は死んだ」という人間至上主義の中で価値観は形成されていきました。さらに急激な科学技術発達時代、コンピューター、インターネット、AIG(人工汎用知能-人間と同等の知能を持った人工知能)と。AIGは、人間至上主義さえ取って代わろうとしているのです。人間が不必要な時代が来る。

ハラリ氏は、「新たな形で考えて行動するのは容易ではない。なぜなら私たちの思考や行動はたいてい、今日のイデオロギーや社会制度の制約をうけているからだ」というように激変する時代に今度はどんな熱意、熱心さをもってしても、新たな形で考えて行動するのは容易ではない時代を生きているのです。さらに「私たちは21世紀にはこれまでのどんな時代にも見られなかったほど強力な虚構と全体主義的な宗教を生み出すだろう。そうした宗教はバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの助けを借り、私たちの生活を絶え間なく支配するだけでなく、私たちの体や脳や心を形作ったり、天国も地獄も備わったバーチャル世界をそっくり創造したりすることもできるようになるだろう。したがって、虚構と現実、宗教と科学を区別するのはいよいよ難しくなるが、その能力はかってないほど重要である。」

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。Ⅰコリント1;18」イエスさまの十字架の贖いなしでは私たちは存在できないものであり、この神の救いの業に自分があり、神の救いの力に頼らざるをえないものであるということ、まずここから出発して人の熱意を去り、いや人の熱意さえ通じない時代にあっても、愚かと言われようと神の愛に委ねていくことこそ、虚構と現実、宗教と科学を区別するのはいよいよ難しくなるが、その能力はかってないほど重要である。愚かという宮清めです。

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日毎の糧

聖書:主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。  詩篇19:8

 

ルターの言葉から   

 聖書は、人の理性や知恵からわき出した書物ではない。法 律学や詩学は、人の知性に源を発しており、また知性によって理解され、把握され得る。   しかし、モーセや預言者の教えは、人の理性や知恵に由来していない。・・・・・・・・・・それゆえに、聖書を理解し把握する者は、愚かにならねばならないはずである。ここで利口者になろうとし、どのようにそれを合わせ、うまくやろうかと人の知恵ではかろうとして迷い込んでしまった者は、無能な生徒のままで居続けるのである。      『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』湯川郁子訳 徳善義和監修  教文館

宇宙の秩序

 詩篇19は、前半は創造讃歌、後半は律法讃歌である。どうして創造讃歌と律法讃歌が結びついたのだろうか。

「創造讃歌に後半の律法讃歌が加えられたのは、天から全地に響き渡る『調べ』とヤハウェを畏れる者の心に響く『律法』とが重ね合わせられたからである。それによって『律法』は創造の神の『言葉』として、天地の運行法則にも似た、より普遍性な地位を獲得することになる」①

宇宙は神の秩序によってなっている。その秩序は具体的には自然の営みであり、神から与えられた律法、すなわち神の言葉である。しかし、賢くなった人は、宇宙の秩序は人が作ると思うようになるところまできた。しかし、それは、人間のエゴを産みだし、宇宙の秩序を壊しだした。人の理性や知恵から抜け出し、愚かにならねばならないとルターがいうように私たちは

謙虚になるべき時代がきた。

祈り)自分が打ち砕かれ、神の支配を見ることが出来ますように。

①詩編の思想と信仰Ⅰ     月本照男   新教出版

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牧師室の小窓からのぞいてみると

「厚生労働省が27日に発表した人口動態統計の速報値(外国人らを含む)によると、2023年に生まれた赤ちゃんの数(出生数)は過去最少の75万8631人だった。初めて80万人を割った22年から5・1%減り、少子化が一段と進んだ。今後発表する日本人だけの出生数は70万人台前半への落ち込みが確実な情勢だ。婚姻数も90年ぶりに50万組を割った。死亡数は過去最多の159万503人となり、出生数を引いた人口の自然減は83万1872人と最大の減少幅になった。(東京新聞web)」と報道されました。確実に日本の社会は、確実に弱っていくということになる。それは避けられない現実である。

しかし、弱っていくということが自分らにとって、具体的にどういうことが起きるのか想像が出来ないのも事実であり、不安でしかたがないかもしれないが、コヘレトに「すべてに時がある」というようにこの時に座してみると否定的なことだけでなく、こういう時だから見えてくるものがあるのではないだろうか。自分を見つめる時ではないだろうか。

 

 園長・瞑想?迷走記 

今、幼稚園は「施設評価」、「自己評価」と自分を見つめ直し、次年度へ向けて準備の時に入った。評価の良い時もあり、悪い時もある。評価の良し悪しでなく、評価の内容とその内容にどう自分たちが向きあい、改善していくかということが大切である。

ルーテル幼稚園は、一年の保育を振り返り、振り返りを土台として研修し、次年度の教育・保育の内容を決めていく。この

1ケ月余りの作業は、新たな一歩を踏み出すウキウキする時でもある。今年もそんな月となった。そして今年は特別の年で、踏み出した歩みを一緒に出来ない寂しさがある。

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大森通信

18.日々  

日々 引退まで説教をあと、15回(一日3回×5) である。45年間で何回、説教したのだろうか。 単純に朝夕の説教2回、一年に56回、そして 45 年となると5040回となる。それ以上の説教をしているの ではないかと思う。よくここまで出来たと我ながら感心して いる。説教するというのは、恐ろしく、自分が圧倒され、壊れされそうになるからである。 先日、中堅の若い牧師の葬儀説教を聞き、大変に学ぶところがあった。説教の出だしは、自分と召天された方との深い つながりを語り、ここで聖書のみ言葉などありきたりの言葉 では語り切れないと「内からの言葉」を語り、「とわいっても」といって、真実に慰めるのは神の言葉でしかないと言い 切って実にオーソドックスな説教をされた。 そのとき、加藤常昭牧師の「説教者を問う」という本を思 い出し、そこに語られていたルターの「外からの言葉」という言葉の話である。引越しで片付いている本棚で最後に片づける本、そして引越し先で最初に開ける本にとしてまだ棚に あると思い、探し、読み直した。「神の言葉が『外からの言 葉』『上からの言葉』である。」というのが説教者であり、 「『外からの言葉』を聴き、取り次ぐことにこそ、私どもの 課題がある・・・・キリストを通じて与えられる聖なる霊 は、またこの外からの言葉を聴くことを必ず求めます」 「説教者を問う」とあるように問い続けていくのが召命を 受けた者の営みとまた引退を前にして思った。

(大森日記)土)週報など近所の方々に届けに出かける。日)教会学校 の礼拝にいつも親子で出席くださる方がいる。おののきつつ説教をして いる。月)7時30分、園児を待つ。9時40分ぐらいに終了。一週間が始ま った。火)幼稚園の評価を受け、改善していく示唆を受ける施設評価委 員会。水)区の園長会を忘れ、教会の仕事。木)現役最後の聖書の学び。 いつもより多くの方が出席くださった。最後のイースターカードの準備。 金)インフルエンザ流行で直撃を受け園も先生も休みがあり、てんやわ んやの中、「説教者を問う」という自分の足元を問い返された。