四旬節第2主日(3月5日)「愛されて生きる」
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。・・・・・・・アブラムは、主の言葉に従って旅立った。創世記12:1―4
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 ヨハネによる福音書3:16
【説教要旨】 愛されて生きる
ヨハネ福音書を書いたヨハネは、「愛」について語った人です。ヨハネの研究家であった日本ルーテル神学大学の学長を努められた間垣洋助牧師が、16節について次のように記しています。「16節は、全聖書の中心的メッセージを示している。神は自己の恩恵の意志によって、そのひとり子を賜った。『賜う』とは、単にひとり子をつかわして誕生せしめるということではなく、イエスを『死に渡す』ことであり、『十字架につけて』殺すことである。イエスの受肉は、十字架を目標としており、彼は十字架を目指して進んでいった。・・・神の愛は、抽象的でなく、そのひとり子を人類のために十字架につけるという具合的事実の上に立っている。十字架の上にあげられたイエスを見上げること(信じること)によってのみ救いはくる。そしてその救いは世界的福音の救いでひとりも滅びることがない。神の愛は、無限に広く、無条件的である。ヨハネは、神の愛を最高度に説き、福音が世界的であることを重視する。」
そして、先生は、「神の愛は、抽象的でなく、そのひとり子を人類のために十字架につけるという具合的事実の上に立っている。」ということを自分のものとして生きた人です。
-1-
十字架の具体的事実を自分の具体的事実に繋ぎ取っていきました。生きることに困難さを感じつつもこの苦しみの具体的事実を主の神の具体的な十字架の神の愛の中に受けとめて生きました。
間垣先生から娘さんの墓前礼拝に奥様のお供をするように頼まれることがあり、奥様からよく先生の牧師人生のお話を聞く機会がありました。戦争中は食べ物が十分に配給されずにいました。「私は主人に一生涯、頭があがりません。戦争中、最後に残ったこんにゃくをひもじくて、ひもじくて、主人が工場に行っているときに食べてしまったんです。主人が帰って来たときに夕食に出すものがありませんでした。そんなとき、工場から帰ってきて、『食事は』と、『何もありません』と言ったんです。でも『そう』と一言を言って、寝てくれました」
ここに愛があると思います。古語の「悲しい」という言葉には、現代の悲しいという意味と愛おしいという意味があります。食事を出せない時代の悲しみ、またひもじくて食べてしまった悲しみがある。しかし、その時代に生きる人の悲しみを自分の苦しみと受けとめつつ、時代を責めることも、奥さんを責めることもなく愛おし、愛する心へと動かされたのは、神の愛は、抽象的でなく、具体的、今ここにあると信じた信仰があったからではないでしょうか。時代の悲しさ、そして個々人の悲しみを神は負ってくださった。私たちを救うために十字架に自分の子を架けるという具体的事実に立って、腸痛む悲しみをもたれ、この悲しみは、私たちを愛おしと思う神の心としてくださったのです。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。これが神のみ心で、この神の愛によって、私たちは生かされているのです。神の愛を知りかつ信じることこそが、悲しみが愛へと変わる具体的な行為となっていくのです。私の今日、今、神は、その独り子をお与えになったほどに、私を愛されています。神に愛されたことを知り、信じたパウロはローマの人に次のように伝えています。
では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。
-2-
もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。 ローマ人への手紙8:31~39
生き辛さに満ちた悲しい世界を私たちは生きています。そこで私たちはなぜ生きていかなければならないのかと壁まで追い詰められています。神は生き辛さに満ちた私たちの悲しみに居て下さり、私たちを愛おしく思ってくださっている神の愛が私たちの内に満ち満ち、誰も神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。アブラハムのように行くところ知らずして、神の言葉を信じて旅立ったように、この生き辛さに満ちた時代を生きる私たちも神の言葉、神の愛を信じて、一歩を踏み出し、私たちの人生の旅路を歩みだしましょう。
生き辛く悲しみに満ちても「そう」と言ってすべての悲しみを負って寝床について、悲しみを愛おしむ心に変えて明日へと準備出来るのが神に愛された私たちです。
-3-
牧師室の小窓からのぞいてみると
地球の地殻変動期に入っていると言われている。今回のトルコ・シリア大地震も地球地殻変動期の起こりうべきして起きたものであるか。東日本大震災から12年目が近づいている。そして、神戸・淡路大震災から28年、私たち人間ではどうしようも出来ない世界があるということに謙虚に聞いたはずだが、歳月とともに忘れ去れていき、その時はその時とばかりにたとえば原発再開が議論も十分になされず再開されるということはいかなることかと思う。私たちはもっと謙虚になり、自然に聞くことが求められているとつづくと感じている。
園長・瞑想?迷走記
私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。イエスさまのお言葉 ―卒園、進級のとき
三月は、卒園のとき、進級のときです。
卒園式では、子どもたちのマスクを付けなくても良いと通達がくるというところまでやっと新型コロナの感染増大が落ち着いてきたようです。しかし、新型コロナウィルス感染の間に根本から急速に社会は変化しました。民主主義、気候変動、貧富の格差、ロシアのウクライナ侵略に代表される世界の破滅の可能性などの危機に直面しています。この変化の社会に生きる私たちがどうすればよいかという新しい生き方を支える思想、哲学が追いついていけずに、社会は羅針盤を持たずにいます。
しかし、たとえ、羅針盤がなく行く方向が分からなくても、イエスさまは、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」との約束を私たちにされ、私たちが進むべきところへ導いてくださいます。この危機の中で、神の前で、守られ、生かされています。
卒園していく子どもたちが、危機の中にあって神の前に神によって、一人一人が守られ、生かされていくことを信じて、きっと大変化していく危機的世界で生きていく力を与え続けられると信じています。いつもイエスさまと共にいます。安心してさあ、ここから出発しましょう。いつでも幼稚園に帰ってきてください。(3月園だより)
-4-
日毎の糧
聖書:命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 詩編23:6
ルターの言葉から
悪魔は信仰者を、内的には恐怖を与えることによって、外的には偽りの教師による策略や、圧制による暴力などによって苦しめることを決してやめないで、ダビデはここで最後に、この宝(福音)を与えて下さった神が、また彼を終わりまで傍らで守ってくださるように熱心に願い、「ああ、愛する神が、恵みといつくしみは命のある限りいつも私を追う、という恵みをお与えくださるように」と言う。また同時に、彼は、「恵みといつくしみ」によって意味しているもの、すなわち、「主の家に永久にとどまることができること」をここで示している。 『ルターの言葉 信仰と思索のために』W.シュパルン編 湯川郁子訳 教文館)
恵みと慈しみはいつもわたしを追う
「善き力にわれかこまれて」という讃美歌21 469番、ディートリッヒ・ボンフェッファー牧師の詩があります。これを宮田光雄先生は次のように訳しています。
良き力に不思議に守られて、何が来ようとも、私たちは、心安らかにそれを待ちます。朝に夕に、神は私たちの傍らに居て下さいます。そして新しいどの日にも、まったく変わることなしに。
私たちの歩みは、人が思うような良いことばかりでなく、苦しく悲しく、自分では負いきれないものです。ボンフェッファー牧師は、獄から恋人にあてた手紙で、「あなたは僕が惨めな境遇を嘆いているなどと思ってはいけませんよ。そもそも、幸福とか不幸とか言ったところで、いったい、それは何なのでしょうか」と話し、私の境遇を嘆くのでなく、「目には見えないが〈良き力〉によって朝に夕に守られている」ことに目を注ごうという励ましの言葉に耳を傾けて、今日を、今を、希望をもって共に歩んでいきましょう。
祈り:神の恵みと慈しみの日々であると感謝できますように。
-5-
大森通信
「引退の準備」 伝道45年 総会資料Ⅶ 原点2 いつも羽村幼稚園に行く往復3時間の間に本を読むことを習慣づけている。 総会資料に「主に信頼して、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りをもって、敢えて行い、貫き通し、これを慣習化していく『敢貫慣』の精神をもって、社会の劇的早い変化の中にあって、神と人とに仕え、弛まず宣教に励んでいく。時代の変化に応えつつ、宣教に励み、努力をしていく。」といつも私は記している。 『敢貫慣』の精神をもって行うことの原点は、「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」パウロがいう「福音を告げ知らせる」ということです。福音を告げ知らせるために敢えて行い、貫き通し、これを慣習化していくのです。 福音とは、「神は愛である」ということです。「神は愛である」ということを伝えるために敢えて行い、貫き通し、これを慣習化していくということが私の伝道の原点です。だから神は愛であるということを伝えるためにいつも学ぶためにどんな時間でも逃さずに学びたいので電車の読書です。パウロがどうにか上に召してくれる賞与を得るために走るというように最後まで走れればと祈っています。 |
(大森日記)土)パンジーの花が大きくなっている春近し。日)教会学校にいつもより多い子どもたちが来ているが幼稚園の出席率はコロナ以前を回復できないと考えられるだけでも環境は改善してきたのだろうか。月)幼稚園の施設評価委員会、保護者役員会。H市幼稚園園長会を忘れていた。急いで出かける。水)午後からH幼稚園の聖研へ。回復が遅く足の痛みが長時間の乗車で増す。木)「聖書の学び」、今回の詩編は、受け取り方によって本文と違ってくるおもしろい詩篇。金)子どもの礼拝、「試みに合わせず」と話す。これからの試練を乗り越えいくことができますように。讃美歌21の155、469と良い讃美歌に出合う。