四旬節第1主日(2月26日)人はパンのみに生きるにあらず
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」 マタイによる福音書4:1~4
【説教要旨】「人はパンのみに生きるにあらず」
今年も灰の水曜日の礼拝を守ることが出来ました。イースターを起点として主日を除いた40日をさかのぼることによってレントの最初の日である「灰の水曜日」から四旬節に入りました。
四旬節のこの期間に私たちは、十字架の苦しみを偲びつつ、十字架の恵みを信仰において受け入れていきたいのです。苦しみの中で、私たちは、十字架の恵みから離されていく誘惑があります。今日の聖書の箇所は、イエスさまが悪魔に誘惑を受けたという物語です。
「イエスは聖霊によって荒野に導かれた」と記されています。イエスさまが誘惑に合うというとき、イエスさまに神は、戦いに備えてあらゆる力と武器とをみ子にあたえたと始まるのでなく、「40日40夜、断食をし、そののち空腹になられた」とあるように、誰もいない孤独の荒野に導き、空腹にし、イエスさまを弱らせ、危機の内においたのです。
新型コロナウィルス感染が治まらず、世界の秩序が壊れるようなロシアのウクライナ侵攻というが出来事が起こり、民主主義、気候変動、戦争から世界の破滅の可能性の危機の時代を生き、私たちは弱っています。危機であり、試練であり、誘惑が私たちの内にあります。「突然、しかも理由なしに人間に襲いかかって、絶望に追いやる試練を克服する道は、人間には不可能であっても、そこには神が授けたもう可能性、つまり聖霊のわざによる神的可能性があって、それが信仰により把捉される。」(「ルターの知的遺産」金子晴勇 知泉書院)
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突然、しかも理由なしに人間に襲いかかって、絶望に追いやる試練が、私たちの時代にある。そして、私たちは狂いそうになるほど苦しみ、弱り切っています。
しかし、私たちはここで確信したいのです。今と言うこのときも神のみ子であるイエスさまも同様であるということです。イエスさまに突然、しかも理由なしに人間に襲いかかって、絶望に追いやる試練は、「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」とあるように、危機であり、試練であり、誘惑ある時、この場所は、神の御心で貫かれ、神の導きでここにあるということです。ここにイエスさまはおられるのです。ルターは、「このような深いところの窮迫と苦悩とをみたもう御顧みは、ただ神のなしたもうところであって、神は底深いところにいる者の近くにいます。」と言います。「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」ということは、人間には不可能であっても、そこには近くに神がおられ、神が授けたもう可能性があるということを神は、イエスさまの試練を通して私たちに示されているのではないでしょうか。
「人はパンのみに生きるにあらず、神の口より出る一つ一つの言葉で生きるのである」と言われます。
高校生の時代、長い闘病生活がありました。まだ、働き盛り第二次大戦に従軍された方たちが入院されていて、病室の電気が消されると、それぞれの戦争体験が話され始めます。フィリピン戦線で戦われた方の話は今でもなまなましく思い出されます。逃避行は飢えとの戦いです。パンがなくなったとき、人は狂気に変わるということを教えられました。飢えで死ぬよりもアメリカ兵に殺された方が良いとアメリカ軍に向かっていくのです。命を投げ出すのです。銃火の中で撃たれ、気づいた時は手術台の上だったというのです。突然、しかも理由なしに人間に襲いかかって、絶望に追いやられることはある。私たちはウクライナからの悲惨な出来事の報道から絶望に追いやられます。
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しかし、人間には不可能であっても、そこには神が授けたもう可能性、つまり聖霊のわざによる神的可能性があることを信じるのが私たちです。
「聖霊は神の言葉を内的にわたしたちに教え、わたしたちを神に向け変える神の力である」と金子先生は続けます。
「人はパンのみに生きるにあらず、神の口より出る一つ一つの言葉で生きるのである」とイエスさまは生きる姿勢を示されました。神の言葉に信頼し、立つ。ここに人間には不可能であっても、そこには神が授けたもう可能性があるのです。
「1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。・・・・・2:1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。 2:2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。 2:3 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。 2:4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。 2:5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」とパウロは告白します。民主主義、気候変動、戦争から世界の破滅の可能性の危機、突然、しかも理由なしに人間に襲いかかって、絶望に追いやる試練の時代を生き苦しんでいます。しかし、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれたというイエスさまの出来事に導かれ、生かされ、聖霊において、不可能を可能に、絶望を希望にかえる神の力が働いています。人はパンのみに生きるにあらず、神の口より出る一つ一つの言葉で生きるのです。
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牧師室の小窓からのぞいてみると
ロシアがウクライナを侵略して一年となる。そして、世界は平和を強く願いながら、平和から遠のき、生活が徐々苦しくなってきている。無気力感さえ感じている。一方、「皆、つるぎをとり、戦いをよくし、おのおの腰に剣を帯びて、夜の危険に備えている。雅歌」とあるように日本も含め「戦いをよくし」という方向に向かわざるをえないことを容認し始めた。自分の心にも正直、この肯定はある。
しかし、一方、「4:3 彼は多くの民の間をさばき、遠い所まで強い国々のために仲裁される。そこで彼らはつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかってつるぎをあげず、再び戦いのことを学ばない。ミカ書
」という実現を望む強い思いがある。自分の中に二つの心がある。それは矛盾した二つの心が、ロシアの侵略によって、明らかになりどう進んで良いか私たちを答えのないところの壁まで追い詰め疲れさせている。
「いまこそ公的な領域で哲学が必要とされる時だ。僕らがどこに立ち、これらが何を意味するのかという哲学的な内省する時だ。」と哲学者マルクス・ガブリエル氏は言い。「じゃあ、何が出来るのか」と思うかもしれないが、「僕らは、今こそ、本当の事実を見つけ出すため、人類全体として力を合わせ始めなければならない」と言う。
私たちはどこに立つのか。「平和を作り出す人は、幸いである」というイエスのみ言葉に疲れて、自己矛盾を起こしていても、このみ言葉に聞き、再び戦いのことを学ばないという終末が来ることに希望をもって、今日を生きる、今を生きる者でありたい。
園長・瞑想?迷走記
今、子どもらが抱えている課題、幼稚園の運営など疲れるほど自分の心にあり、迷走している。こういうときこそ瞑想する時間を取らなければならないとひしひしと感じている学年末である。これも園長。
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日毎の糧
聖書: 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 詩編95:7
ルターの言葉から
私はあなたの被造物であり、あなたのお望みのように私をなさってください。これは、私はまことにあなたのものです。ということと同じようであることを、私は知っている。もしあなたがお望みなら、私はいま、このときに死ぬことも、何か大きな災難にあうことにも、私は心から喜んで耐えることができましょう。私は自分の命も名誉も、財貨も、私の持っているものすべてを、あなたの意志よりも高く尊いものとみなしません。あなたの意志も、私の生きている限りいつも私を喜ばせます。「教会標準説教集・夏季」 『ルターの言葉 信仰と思索のために』W.シュパルン編 湯川郁子訳 教文館)
神のもの
歴史に働く神ということが、イスラエルの信仰にあります。歴史を通して神の意思を聞くのです。これが聖書的信仰です。詩篇95篇は出エジプトの荒野時代のイスラエルの神への背きを記します。
あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。95:8-9
神から離れ、背いていく私たちがいます。こういう私たちですが、同時に私たちの神は、私たちを神の民、養われる群れ、神のみ手のうちにある羊です。罪人にして同時に義人として私たちは今を生かされています。今、民主主義、気候変動、戦争から世界の破滅の可能性の危機の時代を生きています。そこで、私たちは何を聞き、神の意志はどこにあるのかということです。力のなさ、やり場のなさ、自暴自棄になってはいけません。私は知っている。もしあなたがお望みなら、私はいま、このときに死ぬことも、何か大きな災難にあうことにも、私は心から喜んで耐えることができます。
祈り:神の民としてみ言葉に聞きつつ望みを以て歩めますように。
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大森通信
「引退の準備」 伝道45年 総会資料Ⅶ 原点 総会資料を作るということは、自分の足元を問うということであると思っている。どう、自分が牧師としてこの一年を生き、次の一年を生きるかということであり、同時に教会がこの一年をどう生き、次の一年を生きるかということでもあると私は思っている。だから、牧師の責任は重いと思っている。その重さに引退前に耐えきれなくなって、一年持つのかと思う日々である。 自分の牧師としての生き方と教会、具体的には信徒の一人一人との生き方が重なり合い、共に伝道に向かうということが理想であるが、これはなかなか難しいものである。これを祭司的働きというと思っている。 一方、み言葉に立って生きるのも牧師であり、み言葉にいつも聞いていくことであるが、時には、それは、教会が今まで生きてきた生き方に否ということを突き付け、信徒と対立するときもある。これは預言的働きだと思う。 社会が平和の内に動いている時は、祭司的働きが大切になるが、社会が大きく変化するとき、モーセが、エリヤが民を引き連れ、あるいは民と対立しでもリードしなくてはならない預言的働きが大切になる。 ひとりの牧師の中にも、祭司的、預言的なものがあり、これをどう整えていくかと言うことになる。祭司的過ぎると良い牧師、どうでも良い牧師になるし、預言的過ぎると霊性に欠け独善的になる。それゆえ、総会資料作成は牧師自身を見直す大切な作業であると思う。 |
(大森日記)土)日吉教会の牧師に代わり、日吉の方の葬儀。日)女性会に行くが聖書の学びは終了。申し訳ない。久しぶりに神学生と「キリスト者の自由」を読む。月)病院に行った後、常議員会。夜は共に夕食。火)常議員会。水)誕生会、午後からH幼稚園の聖研へ。夜は「灰の水曜日」の礼拝。カトリックの方も久しぶりに来て下さる。木)休日。週報など教会事務。夕方は「土を喰らう」の映画を見に。金)H幼稚園の労務についての処理を伝え、大森幼稚園の礼拝を2回。2024年の引退が分かっていて今後どうされるのか心配の電話をいただく。有難い。