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受難節第2主日(2月25日)「世を生きず」

「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。               ローマの信徒への手紙4:17-20

イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」     マルコによる福音書8:33

 【説教要旨】

私たちは、世を生きています。そして時間の一こま一こまは私たちの手で作っていると感じ、思っています。特に若い時はそうではないでしょうか。

老いたルターが、時代の大きな変化の中で、その時代を動かした自分自身の生涯を今日の聖書の日課の出てくるアブラハムなどの族長と重ねて、自分の生涯は、自分がどうこうしたというのでなく、自分の人生の一こま一こまに神が関わり、神ご自身の働きの中にあったと言います。老いたルターは創世記講義をしながら、一つ一つの物語ごとに、物語の背後に働く神のみ手を感じていたと言われています。「かつて族長の時代に、その族長の生涯や、族長たちにまつわる歴史の一こま、一こまに関わりを持たれた神ご自身が、今の生涯の終わりを迎えている私の生涯の一こま、一こまに生きて関わっておられる方であるということ。・・・・・・・・・・そのように、人間の歴史の一こま、一こまに神ご自身の働きの手があって、神ご自身が歴史の中で働くことによってのみ人間の歴史が神の歴史として営まれ整えられていくこと。(『マルチン・ルターー生涯と信仰』徳善義和 教文館)」①

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世にあって自分自身の人生を紡いでいきますが、実は自分自身で紡いでいた人生は、神ご自身が人生の中で働くことによってのみ私たち一人一人の人生が紡がれていたのです。ルターが老いてこのことを感じたように、老いてこそ分かって来る真実のように思います。世を生きつつ、世を生きない。世を生きつつ、神の働きの中を生かされているということが信仰です。

「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」とイエスさまがペテロをったこの言葉は、よく見なさい、私たちが歩んできた今まで、人間の世界であったが、この世界は神が働かれていた世界であったではないかと思い起そうとされていたのではないでしょうか。

これからも決して順風満帆の世界ではないだろう。「34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』」と言われように自分の十字架を背負っていく世界でしょう。しかし、この一瞬、一瞬も神は働かれているのです。今、時代の劇的変化で、否応なしに私たちは時代の重荷、十字架を背負っています。

本日の詩篇交読の22篇の前半に有名な言葉があります。「22:2 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわ たしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く 離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」という私たちの世の日々があります。しかし、ここにも神は働かれています。真実です。

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「〈個人の嘆きの歌〉にふさわしく、作品は神への呼びかけで始まる。祈り手は、『わが神、わが神』と繰り返す。これは、神から捨てられているという、まったくの苦悩の暗闇のなかから発せられる言葉である。ここに大きなパラドックスが横たわっている。祈り手は、繰り返し神の呼びかけるのに、神はお答えにはならない。(3節)。神と祈り手の関係は、断絶している。この神に見捨てられた状態を祈り手は、ただ『なぜ』という疑問符をつけてのみ承認することが出来るのである。しかし、このような窮状においてもなお、彼の神は『わたしの神』であり続ける(「詩篇」 勝村弘也 日本基督教団出版局)」のです。それゆえに「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」という事実をおこしてくださるのです。

世を生きつつ、神の働きを生きるとは信仰です。私たちは何よりもまず信仰を生きているということから自分の人生をみていくのです。どんな窮状においてもなお、私の神は『わたしの神』であり続け、死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させてくださいます。この世界を私は生きるのです。世を生きないのです。だから十字架を負い、死しか見えない世界であっても希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて一こまを紡げるのです。世を生きないということはルターが「十字架を通ることです。この訓練を通して、私たちの信仰は深められ、強められます。そして魂のうちに、よりいっそう深く、救い主を引き寄せます。・・・十字架をまぬかれるよりも、十字架を与えられるほうが益となるのですから、だれもこれに直面して、たじろいだり恐れたりしてはなりません。その中に慰めを得る、すばらしく強い約束を与えられているではありませんか。私たちが喜んで苦しみ、十字架を負うときのみ、福音は私たちを通して前進します。」ということです。

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日毎の糧

聖書: 王権は主にあり、主は国々を治められます。                     詩篇22:29

ルターの言葉から   

 神は太陽と月、星と諸々の要素、全被造物と身体、生命、 すべての有用な物、これに加えてご自身をも与えてくださった。神はこれによって何を得たのであろうか。罵られ、み子とその使徒たちが殺されるしかなかった。したがって、神はわたしたちのために無報酬で創造し、無報酬でわたしたちを養い、無報酬で守ってくださったのである。              『卓上語録』M.ルター著、植田兼義訳、教文館

 

王権は主

 詩篇22:2は、十字架上のイエスを描くにふさわしい神学的な枠組みとして用いられたキリスト者にとって、誰も知っている十字架上のイエスの言葉である。

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、 わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。マルコによる福音書15:3315:34

苦難と問いつつ、「わが神、 わが神」と詩人は祈りを神に向ける。そして、ここに今、起きている苦難を「なぜ」と、神に同時に自分自身に問う。自分は正しさ、自分の王権を打ち砕く一歩である。「わが神、 わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というイエスさまの十字架の号呼の言葉は、見捨てるのは自分であり、ここに貫かれているのはたとえ最低の死であっても無であっても、「王権は主にあり、主は国々を治められます。」という神の支配です。十字架の無から神はわたしたちのために無報酬で創造し、無報酬でわたしたちを養い、無報酬で守ってくださったのであると真実が生まれます。

祈り)自分が打ち砕かれ、神の支配を見ることが出来ますように。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

 同郷の中尾みえさんが、「中尾は松本の裁判について聞かれると『私はあんまり詳しくないですけど』とした上で、『そんなことよりも、男の人が《若気の至りで》って言えなくなっちゃった時代が。世の中全てが』とコメント。『今の若い子たちは《今だけ楽しんでりゃいい》とか言ってたら、何年たってもそういうの(スキャンダル)が出てくるんだから。行動に気をつけなきゃいけない時代』と私見を述べた。」とあった。何の変哲もない言葉に見えるが、日本が今まで持っていた価値観がひっくりかえったということだけでなく、さらに世界が持っていた価値観が一瞬にして変化したということである。《若気の至りで》って言えない、行動に気をつけなきゃいけない時代の感受性の深い若者は、精神的圧迫を強く感じる社会の出現で、多くの精神的な重荷を負ってくるだろうと思う。俳優の大沢さんがいうように厄介な生き辛い時代となった。

でも、十字架を負われた主がこの苦しみを負っておられる。「大丈夫、神はあなたを見棄てない」という変わらない神の愛を伝えていくことが教会の使命ではないかと思っている。

 園長・瞑想?迷走記                

15年間の園長の職を引退する。保護者が感謝の気持ちでサプライズを用意して下さったことはこころから嬉しい。15年を振り返り、子どもに、保護者に感謝しても、感謝されることはないと思っている。園長の仕事は園運営である。それは教育保育の指針、実行する予算決算、労務、営繕管理と多岐に渡る。どれをとっても子どもに、保護者にとって何が大切で何が必要か考える。しかし、ここには子どもがいて、保護者がいてこそ出来ることであり、ここが軸で園運営は廻っている。引退、去るにあたり心から思うことは、園児、保護者、職員にどんなに感謝しても感謝し足りないと心から思っている。ただ、もっとうまく出来ただろうという悔いはある。残りの日をなすべきことをなしていけたらと願っている。

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大森通信

17.日々

「聖書の学び」の最初は、伝道の書であったと思う。あるとき、Tさんがやって来て、「先生イスラエルに行かれたことがありますか」と聞かれた。「いや、まだ」というと「定期が満期になりました。このお金で行ってらっしゃい。聖書の話をされるのですから」と言われイスラエルに行った。その時の絵葉書、パンフレットが引越しの片付けの時に出てきた。それから45年、最後は第二回目の「詩篇」である。第一回目と違うのは、詩編についての注解書が充実したということ、インターネットから情報を簡単に手に入れられること、zoomのおかげで自宅、遠方から参加出来るということである。変わらないのは出席者が少ないということである。(笑)

大森教会では、宗教改革500年でルターのローマ書の聖書講解を数年に渡り読み、2名の洗礼者が導かれた。

今日も74回目の聖書の学びが終わった。後一回で大森教会の聖書の学びは終わる。出席者は聖書に肥えた方々でこちらが新しい発見をしている。こういう充実した聖書の学びの機会は滅多にないと思う。学ばされ次へと押し出される。もうこういうことはないだろう。

私は思う。聖書の学びを通して、説教と結び付けられていく。聖書の学びは神の言葉を伝えていく整えのときであると。さぼり癖のある私にとっては一生涯、学んでいける場だと思っている。76回目の詩篇も用意していきたい。

大森日記)教区代議員、牧師会。Zoom。沈黙する。)普通のように時は過ぎ、夕礼拝までくる。)一日中、Zoomによる常議員会に出席。最後の仕事。ただ何も語らず。インターネットの回線状況が悪く、肝心なことを聞けず。)引き継ぎの書類を作り、PCのデター整理をする。15年ぶりの作業は疲れる。)頭も体も疲れて聖書の学びの準備が遅れて、やっとzoom招待を終える。印刷物の整理、廃棄をする。木)保護者総会。印刷物の発送、礼拝、職員会議、夜は聖書の学び。)休み。冷たい雨、主日の準備。卒園生がお別れの花をもってきてくださる。