1. HOME
  2. 風のように
  3. 受難節第1主日(2月18日)「愛の支配」

受難節第1主日(2月18日)「愛の支配」

受難節第1主日           2024年2月18日

たしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。 創世記9:15

キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。      Ⅰペテロへの手紙3:18

それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。                      マルコによる福音書1:12~1:13

 【説教要旨】

マルコの福音書のイエスさまが誘惑を受ける記事は他の福音書と比べると実に簡潔です。

「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」という言葉に注目したいと思います。荒野、そこはまさに荒れた地で、命がない、荒んだ世界です。そいう意味で、どこまで行っても不幸しか感じられない、どこまでいっても真実さを見出せない、どこまで行っても命を感じられないどん底の世界です。私たちが生きている今の激変する世界にあって、「荒野」ということを実感するのではないでしょうか。人生、歴史において、こういう世界がその時々にあって、口を開けています。

 今、イエスさまは霊に送り出されとあります。それは、私たちの世界に送り出されたということではないでしょうか。荒んだとき、場所にイエスさまはやってこられます。そこには人の思いを遥かに越える神の出来事と導きがあるのです。

-1-

 「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」とあるように、人の命を襲うものと守るものが一緒におられる。まさにクリスマスのメッセージがある。

狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。

命を襲う獣と共にいて、平和がある。イエスの荒野とはまさにこのような平和の世界です。

しかし、私たちはなぜ、平和の世界に感じられないのだろうか。ここに悪魔の働き、誘惑がある。しかし、悪魔が勝利しなかったように、私たちの荒ぶ世界も主が共にいてくださる。荒野を命の始まるところに変えてくださいます。

 「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」とあります。イエスさまの共におられるところにも誘惑があるというのです。誘惑とは何でしょうか。

 荒ぶ世界にも神がおられるということを疑うことです。私たちが神に向かわずに、神を信頼できなくなるという誘惑です。「わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。創世記9:15」ということを心に留めることが出来なくなる誘惑です。私たちは人生、歴史の歩みの中で、行き詰り、挫折、失望ということに出会うでしょう。人間の不真実さ、罪の中にある私たちと共にいてくださるのです。「わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。」と神は真実な方としてここにおられるのです。

 だから、今の時代だからこそ、「あなたは(イエス)わたしの愛する子、わたしの心に適う者」、イエス・キリストに私たちを向けることです。それが、「悔い改めて福音を信じなさい」という「悔い改め」です。

―2-

イエス・キリストに自分を向ける、ここには「福音」があります。「時は満ち、神の国は近づいた。」とあるように私たちの時は、満ちた時、神の支配にあるときとなっているということを感じとることの出来る時となっているのです。

世界を作られる神がいる。試練の時の40日40夜とは、ノアの洪水の日々であり、40年のモーセに引き連れられていった荒野の旅です。時において、歴史において試練の時でした。しかし、試練の時の後、聖書は新しい世界が生み出されたことを記しています。

マルコは他の福音書から比べれば短いイエスへの誘惑の記事しか記していないが、彼が伝えたいことは荒野こそ主にあって平和の、命への世界であり、「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」というイエスの世界に他ならないということを伝えているのです。神に支配された世界、神の愛の支配の世界です。ルターは、次のように言っています。「だが、天使たちが彼に仕えたなら、彼らは私たちにもまた仕えることができる。私は、自分のためにあらゆる権力と暴力に備えた24人の皇帝よりも、一人の天使を欲しいものである。たとえ彼らが10万の鉄砲をそれぞれ持っていたとしても、一人の天使に比べればまったく無に等しい。『そこで、天使たちが来て彼に仕えた』。それは姿をもって来たにちがいない。彼らは目に見える形で現れ、食べ物や飲み物を彼に運び、食事やその他あらゆる用を足して仕えたのである。」

 人生の、歴史の真只中で、荒野のような世界に出合う。しかし、イエスは私たちと共にいて、新しい世界を創造されています。激動する世界にあって、私たちは荒野がいたるところに、あらゆるときにある。しかし、荒野は荒野でなく、霊に主が導かれた所であるということを見つめつつ、主に確実に結びつけられている愛の支配がここにあることを信じ、今の時代の試練にあっても希望をもって神と共に歩んでいきましょう。

-3-

日毎の糧

聖書:25:4 主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください 25:5הあなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています 25:6 主よ、思い起こしてください/あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。           詩篇25:4~6

ルターの言葉から   

 キリストの受難を見ないで(なぜなら、もうその受難のわざはなしとげられ、あなたを戦慄させたから)、そこを突き抜けて、あなたに対して愛に満ちたやさしいキリストの心を見るように、あなたを向けることができる。こうしてあなたの心はキリストに対してなごみ、信仰の確信が強められるのである。・・・・キリストの心を通して神の心に高められ・・・キリストを通して父のもとに引き寄せられる。」(「キリストの聖なる受難について省察についての説教」 金子晴勇訳)

とこしえの憐れみと慈しみ

 「詩篇25は、・・・『敵』の虐げに苦しむ信仰者の祈りとして編まれている。祈り手は『わが神』ヤハウェへの信頼の中で、自己を見つめつつ、その歩むべき『道』の教示と苦難から解放することを懇願する。」(詩編の思想と信仰Ⅰ 月本照男  新教出版)とあるように、神への信頼は、いたずらに苦しめられることに絶望の叫びとなるので、静かに「主よ、דあなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。 25:5ה あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください」という祈りになる。苦しみの中で見るのは、「あなたのとこしえの憐れみと慈しみ」である。ルターは、「あなたに対して愛に満ちたやさしいキリストの心を見るように、あなたを向ける」という出来事を味わい、神の愛によってまったく新しい人となるのです。

祈り)ひたすら神の愛へ信頼していく者となりますように。

-5-

牧師室の小窓からのぞいてみると      

 夏の花、日日草、サルビアが枯れずに一部が残っている。どこまで冬に耐えられるか観察してみようと思った。

 明らかにこれは地球の温暖化だと思っている。実際に花を通して体験してみようと思った。

 桂離宮では、苔が枯れるという状況が起きているという。信徒さんの庭では今夏、苔に水を撒いてどうにか苔を守ったという。身近なところで温暖化の実例をいくつでも挙げられるところまできている。これは人間の努力でどうにかなるはずである。

 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」創世記1:26という言葉の「支配させよう。」とは、責任をもちなさいということではないだろうか。もっと真剣に足元から出来ることから実行していきたい。

  園長・瞑想?迷走記                 

榎本眞実先生が、朝日新聞の「私の視点」で「『受け止められる』体験」で次のような文章があった。

「『役に立つ喜び』のある一方、『役に立たない』つらさや自信のなさを感じる若い世代がいる。このことが自己肯定感の低さにつながるとも言われる。まずは子どもと関わる大人が「一人一人がかけがえのない存在であること」をしっかり心に刻みたい。そしてこのメッセージを子どもたちに折に触れ、伝えていく。・・・・・自身の存在や行為を相手に受け止められるという小さな体験を幼い頃からたくさん積み重ねる。これが、揺らぐことのない『役に立つ喜び』につながっていくのではないだろうか。」

 大森幼稚園は、園児、保護者、教諭、職員を含め、今まで自己肯定感を強めていくことを心がけている。一人一人がかけがえのない存在であること折に触れ伝え、色々な場面で実行していくというのが基督教の園の基本理念である。

                     -4-

大森通信

16.日々   

 「日本庭園」について番組があり、足立美術館、桂離宮を中心として庭師さんの働きについて、放映された。それぞれが夫々の自然物、人工物に合わせ木々の剪定、管理を季節ごとにしていくことにしている細かい配慮、仕事をしている。あくまで裏方に徹することを旨としているという。

 毎週、木曜日、大森教会でも信徒さんと一緒に庭のお世話をし、季節に合わせて剪定、花壇の手入れしてきた。四季折々に木を通して、緑の深さと影、落葉し、陽が庭に落ちて来るようにし、また、季節ごとに庭に実がなるようにし、冬は金柑、春は桜ん坊、アーモンドの実、夏、秋はビワの実、オリーブの実、桑の実、ミョウガ、ナス、トマト、ゴウヤ・・・・と。今、イチジクを植えた。

 同じ番組で、アメリカで活躍されている癒しの庭としての日本庭園を設計している庭師さんが紹介された。刑務所に庭園を造り、受刑者が世話することによって、心のケアーがされていること、心に悩みをもっている人が庭園を見ることでやはり心がケアーされていくことが紹介された。

 私たちも心のケアーを願い、庭の手入れをしている。教会へ来られる方、園児、保護者が普通に見る光景が、時にはふと気づき、心が温まればと思っている。聖灰の水曜日に出席くださったカトリックの信徒さんが帰り際に玄関の前にある三色スミレの花壇を見て、「綺麗」と一言。「手入れがいきとどいていますね」。労いの言葉。庭を掃除、手入れをしていくとは、愛を伝えていくことだと思っている。

大森日記)三教会説教交換で他の先生が来ても困らないように準備をする。)蒲田教会で教会学校、説教、昼食の交わりをいただく。大森はI牧師にしていただく。)長男に手伝ってもらい引越しの準備。お別れ会に招かれる。)引き継ぎのPCのデター整理をする。)灰の水曜日の礼拝。最後だということで家族全員で出席くださる。)春に後任を牧師を迎えられるように玄関の庭木の剪定。)お別れ遠足。最初で最後の上野動物園。帰りに本部に寄り、書類と負担金をだす。