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光照らされる   5月22日礼拝

4御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。 5もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。                                                                                     ヨハネ黙示録22:4~5

6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日                  は安息日であった。          ヨハネによる福音書5:7―9

【説教要旨】 光照らされる

「ベトサダの池の病気の癒し」の物語です。私が聖地巡礼をした時、ここだけは尋ねたいと思って尋ねました。なぜかと言いますと「ベトサダの池の病気の癒し」いう物語が、今は指定難病であるネフローゼ腎炎になり、入退院を繰り返していた高校生のとき、私を支えてくれた聖書物語だったからです。

5:6 イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。(口語訳聖書)という物語の一節はいつも自分にかけられた言葉でした。「横になっているのを見、また長い間わずらっていた」とは、まさに難病となった私の将来の時をさし、「5:5 さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。」、これから38年間、病気に悩むのかと深い闇が自分を覆っていました。

そんな時、詠んだ俳句が「病室の隅に疲れし椅子も枯れ木」でした。ここには、夜の闇と命が枯れている姿しかありませんでした。一日、終わり夜となり眠りに入るとき、「良くなりたいか」というイエスさまのお言葉が聞こえてきました。

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夜と命枯れた日々の中に、病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」という治るには壁があったように難病と言う壁がありました。壁の前に一人たたずむ自分を病室の隅に疲れし椅子も枯れ木というしかなかったのです。しかし、病室の隅に疲れし椅子も枯れ木という私は一人ではないのです。「イエスは、その人が横たわっているのを見」とあるようにイエスさまは、見て下さっています。

今日の福音書の日課は、もう一つあります。ヨハネによる福音書14章23~29節です。その一節に「27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」とあります。イエスさまが天に帰られ、地上に残されていく弟子、私たちに語られたみ言葉です。

平和という言葉を口語訳聖書は平安と訳しています。平安の反対、それは不安であり恐れであります。わたしたちは不安に陥った時に、不安の状態が取り除かれて、再び静かな落ちつきを取り戻した時に平安、平和になったと言います。これが世が与える平安、平和です。

しかし、イエスさまのいう平安、平和は、どうも私たちが思っているような平和、平安ではないようです。口語訳聖書は世が与えるようなものとは異なると訳しています。パウロの手紙をみますと「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」あるいは、「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」という言葉があります。平和、平安は、イエス・キリストからくるということです。イエスさまは十字架において、平和を与えてくださいました。十字架は、最も平和と程遠いものです。イエスさまは平和と最も程遠いところを生き、死にました。イエスさまが歩まれた道は、私たちを苦しめ、脅かすあらゆるものがありました。しかし、イエスさまはあらゆる不安や恐れを越えて、築かれた平和であり、それを私たちに与えるというのです。「どん底のきわみにあって二度とゆらぐことのない平和です。・・・・イエスが弟子たちに与える平和は『イエスの平和』といわれます。それは、イエスが生涯持ち続けた平和です。つまりどんなに苦しい試練にあおうが、天の父の力と愛に結ばれているという確信からくる平和です。」(「神のやさしの中で」森一弘補佐司教、女子パウロ会)①」、「8 イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』」という、現実に圧倒され、悩み、苦しむ病人に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と光を与え、立ち上がらさせるイエスさまの力、「 5:6 イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に『なおりたいのか』と言われた。」という私たちと共にいてくださるイエスさまの愛に結びついている平和、この世が与えるような平和ではないのです。 「イエスの平和」は、現実に圧倒され、悩み、迷い、倒れている私たちを、床を担いで歩きだしたというように立ち直らせる、激励していきます。

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病室の隅に疲れし椅子も枯れ木と自分を投影している私をイエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。・・・・・イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだしたとしてくださり、わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。と「イエスの平和」をくださいました。平和の光に照らされている私が私なのです。

4御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。 5もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。                                         ヨハネ黙示録22:4~5

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牧師室の小窓からのぞいてみると

フィンランドでは、SNSなどの情報が本当に正しいどうか、自分にとって有益か有害かというメディアリテラシー教育をして、読み解く、活用する、コミュニケーション能力を子どもの時からしているという。自分で考え、情報を収集していく、これが技術立国フィンランドを作り、そして、若い首相が世界の大変化の中で、今までの大方針を変化させNATO加盟へと舵をとった。ルター派をかつて国教としていたこの国は「我、ここに立つ」 と言って、中世から近世へと導いたルターのDNAを継承しているのかもしれない。

      園長・瞑想?迷走記

 探しなさい。そうすれば見つかる。    マタイによる福音書7:7

子どもたちは、雨の中でも元気にいろいろな遊びを発見して、楽しく自分の世界を作り、成長していくでしょう。

マタイという人は、イエスさまのメッセージを「ともにあるイエスさま」ととらえました。いつも困った人を心配して、イエスさまは言われるのです。「探しなさい。そうすれば見つかる。」、雨で、困った子どもたちとイエスさまは一緒におられて、心配して、君たちが遊びに困っているなら探しなさい、きっと楽しい遊びが発見できるよとイエスさまは子どもたちの心に語っています。

イエスさまのお言葉に出会い、子どもたちの希望と生み出し、子どもたちは雨にもかかわらず、遊びを発見し、遊びを通して、子どもたちの日々の成長が始まるのではないでしょうか。

子どもたちは、大きく価値観が変わり、変化していく時代を生きていきます。不安な時代を生きます。しかし、「ともにあるイエスさま」は、「探しなさい。そうすれば見つかる。」と子どもたちに約束されています。子どもたち一人一人はきっと、雨にも負けずに希望をもって遊びを見つけ出したように、新しい時代に新しい価値を見出すでしょう。さて、何の遊びを発見するのでしょうか。

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日毎の糧

聖書:イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。            ルカによる福音書24:50-53

 

ルターの言葉から

    主なるキリストの昇天とみ国は、罪が捕らえられ、永遠の死が私たちを縛り付け、その中に引き留めておくことがないために働いてくださるのである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・このようにして、私は正しい道に留まり、罪に支配されてしまう人々のように、右側で怠惰にだらけることもなく、左側で絶望する人々のようにためらうこともなく、中道を適確にとらえる。そして、まだ、ときには罪が私たちを捕えることがあても、私たちは、王である私たちの主イエス・キリストに頼る。主は捕らえるものを捕えて進まれ、ご自分の勝利を私たちに与えてくださった。父と聖霊と共に、この永遠の王に讃美と感謝がとこしえにありますように。アーメン

『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館

神は祝福の手をひろげていてくださる。

 イエス・キリストが天にお帰りなるということは、私たちの内に何が起こるかということです。

私たちの人生が、祝福に覆われているということです。たとえ、私たちが不幸で、喜びを感じることが出来ない、祝福の外にあるような日々を送っていても、天に上げられたイエスさまは、手を上げて祝福され、祝福しながらここにおられるのです。

私たちは、王である私たちの主イエス・キリストに頼る。主は捕えるものを捕えて進まれ、ご自分の勝利を私たちに与えてくださった。 この出来事が昇天日におきたのです。ともに昇天日の礼拝において、主の勝利の祝福をうけましょう。

祈り:主の祝福のうちに、主に望みをおいていけますように。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」21

ひとつになる-多様性

日本福音ルーテル教会の土台となる神学を構築するために、それぞれのルーテル教会は、母国の大学、神学校に若き牧師を派遣して学ばせた。 リーフ(フィンランド福音ルーテル教会)は、塩原久牧師、前田貞一牧師、他牧師を受け入れた。旧日本福音―テル教会は三浦豕牧師など、また戦後、シカゴ、フィラデルフィア神学校他に石居正己牧師など多くの若い牧師が留学をした。教派を超えてニューヨークのユニオン神学校に留学したのが岡田晧吉牧師、清重尚弘牧師で二人とも旧約聖書であった。アウガスタナ派は、藤井浩牧師が信徒として、保険の勉強のために留学させたが、のちに献身し、アウガスタナ神学校に勉強をした。東海福音ルーテル教会も岸井敏牧師などをアメリカに留学させた。スオミミッションの大森教会は残念なことに教会も若く、献身もなく、アメリカ・スオミ大学に留学させることは出来なかった。                                  信徒の青年らも留学する機会を与えられた。

ドイツには、ドイツ留学を約束し、他教派から引き抜いた佐藤繁彦牧師がチュービンゲン、ベルリン大学に留学し、日本にルター神学の基礎を作った。徳善義和牧師などが続いた。ルーテル諸派の母国への若い牧師を留学させたことはルーテル教会に多様性と国際性をもたせ、ルター神学を構築した。

ルーテル諸派合同後も、アメリカ、ドイツ、フィンランドの教会は留学生を受け入れたが、豊かになった日本に対して、奨学金制度の適用が厳しくなり留学は激減した。グローバルな人間を作っていくためにも日本の教会が自前で若い牧師を留学させることが必要ではないだろうか。多様性、グローバルをもたらせるために。

(参照:日本福音ルーテル教会百年史」、to-morrow 日本福音ルーテル東教区 )

(大森日記))礼拝のYouTube配信を用意して終わる。)両幼稚園の事務処理。)羽村幼稚園のオンラインでの経営委員会。場所を離れていても協議できる恵みを感謝。)聖書の学びを通して、神の平和の祈り強さを感じる。)早朝から主日の準備。今日も暑くなりそうだ。