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主の洗礼日(1月8日)「洗礼」

傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。イザヤ書42:3

16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。  マタイによる福音書3:16~17

【説教要旨】        洗礼

2023年が始まりました。しかし、新型コロナの感染は治まらず、地球温暖化などによる台風、地震多発の天災、経済の混乱と貧富の差の二極化、急激な技術革新、特にネット環境の革新と益々、複雑してく社会を歩む一歩を始め、その上、先が見えないと日が続きそうな年の初めです。マタイ福音書は、イエスさまの物語は誕生に絡む話はあっても、幼少、子供、成人という時代を飛ばして、いっきに公生涯の30歳から物語が新たに展開していきます。福音記者マタイにとって、記者が書きとめるほどのことがないと思ったのかもしれませんが、この沈黙に深い意味が隠されているように思えてならないのです。私たちの時代が混迷しているようにイエスさまの時代も社会が混迷していました。個々人は、混迷した中にあって、ドラマにならないドラマ、物語を作っているように、イエスさまはまったく私たちと同じようにドラマにならないドラマを、物語を生きられたということです。「神の子を固守することなく」とありますように人の子として徹底的に生きられたということです。私たちと同じところにイエスさまは生きているということです。くだらないと思うような人生であってもここにやはりイエスさまは生きて一緒に歩んでいてくださっていることではないでしょうか。

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繰り返しますが、イエスさまがドラマにならない私たちのドラマ、物語に近づいてきてくださる。そして歩みを一緒にしてくださるということです。 マタイ福音書のメッセージ「インマヌエル-神は我々と共におられる」ということです。

混迷する社会にあって、ドラマにならないドラマ、物語の私たちのごく普通の人生において、私たちなりに困難、試練を受けています。時には神がどこにいるかというような状況におかれる場合があります。しかし、神が近づいてきてくださる、一緒に歩んでいてくださるということがイエスさまを通して私たちに告げてられています。

今日ヨルダン川に洗礼者ヨハネの洗礼を受けるためにイエスさまはやってきます。「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」とありますように多くの罪を告白する人の群れの中にイエスさまは来られたのです。罪人の列の中に入られたのです。「罪びとに数えられた」と聖書にあるように罪の底に沈まれ、限りなく低みへと下ってくださいました。私たちの持つ罪、弱さ、貧しさへの限りない理解と共感、憐れみがあります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

洗礼者ヨハネはイエスの洗礼を止めようとされます。「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』 しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。」

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「僕の身分になり、人と同じ者になられました」とあるように私たちの罪をご自分の罪として、私たちの悔い改めをご自分の悔い改めとされたのです。限りなく低み下ってきてくださるという愛を示されました。その愛に貫かれた人生がイエスさまの人生でした。そして今を生きる私たちにもこのイエスさまの愛が貫かれているのです。このイエスさまの洗礼を受けるという行いこそ、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われた天の父なる神さまの声が、私たちにも与えられる声です。イエスさまの愛に沈められ、聖霊の働きによってイエスさまとともに天の父に愛され、そのみ心に適う者とされているのです。私たちが洗礼を受けるとは、この恵みを生きるものとして、私たちの日々の物語が綴られていくということです。

いつもルターの後ろにいてひかえめな宗教改革者メランヒトンは、彼はルターについてこのように言います。「私が福音を学んだのはあの人からです。」、そしてその内容を何度も繰り返し口にしていたのは、「キリストを知るということは、キリストの恵みのわざを知ることである」と言っています。

2023年もドラマにならないドラマ、物語を綴る私たちであっても社会の混迷によって、今年も大きな試練を受けつつ、ストレスな日々を過ごすでしょう。

しかし、洗礼をとして与えられたメランヒトンが繰り返し口にしていた「キリストの恵みのわざ」、がいつも私たちに起こされ、圧倒的なキリストの恵みて生かされている日々が続いていることに信頼しましょう。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われた天の父なる神さまの声が私たちに届きます。イエスさまの洗礼の出来事は私たちの洗礼においても起きています。

傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。イザヤ書42:3

私たちの歩みは、神の愛、洗礼において確かなものとされます。安心して一歩を踏み出す日々が今年もあります。

参考本:「還暦からの人生設計」 佐藤優 青春出版

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牧師室の小窓からのぞいてみると

2023年度は、少子化対策にどう向かい合っていくかということから政治は動き出した。小池都知事は月5000円を18歳以下の子供に支援するという。岸田首相は、「異次元の少子化対策」と方針を打ち出した。どちらにしても堅実に取りくんでほしいと思う。

第一次ベビーブーム(1949年)は出生数、約270万人(4.32人)、第二次ベビーブーム(1973年)約210万人(2.14人)となり、子ども4人が2人しか生まなくなったとなり問題化したこの時、このままのペースでいけば、2020年代に1人になると問題になったが、政治は一歩も動かなかった。結果は2022年度約77万人になり、一人っ子となった。

まさに「異次元の少子化対策」が必要であり、支援金だけでなく、社会構造そのものを変えていかないと少子化はおさまらないだろう。

分かっていても出来ない、やらないという精神構造は、明日は終わりという終末観の欠落かもしれない。

 

          園長・瞑想?迷走記

昔、いつも綺麗に整備された園舎を見ながら保育園の園長をしていた江口夫人と話した時である。先生は、「竹田さん、毎年、毎年手入れをしていると、今、計算すると建て替えが出来たかもしれない。しかし、その時は纏まったお金がない。だから手入れはかかせないということになる。大きなお金がかかる前にいつも手入れをしておきなさい」と言われたことを思い出す。それをいつも心に刻み着任する教会、施設の保修をしてきた。毎日の保修、掃除、大きな保修と繰り返してきた。今年は、年中組の床の張替えをした。実に明るくなった。見ていても気持ちが良い。2023年は、建って10年を越す打ちっぱなしの外壁の大補修が必要になる。こういうことが園長のごく普通の仕事であることをいつも忘れずに最後まで続けていきたい。

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日毎の糧

聖書:32:8 わたしはあなたを目覚めさせ/行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。詩編32:8

 

ルターの言葉から

見よ。 これは十字架の道である。これをあなたは見いだすことができない。しかしわたしは、目のみえないあなたを導く。だからあなた自身によってではなく、人間あるいは被造物によってでもなく、わたしのことばと御霊によって、あなたの歩むべき道を教える。あなたは自分の選んだ仕事に従事せよ。苦しみは、あなたがた意図したものではなく、あなたの選択、思い、計画に反してくるものである。わたしがあなたを召すのはその所である。そこでは、あなたは聖徒でなければならない。それには時がある。あなたの主は、そこであなたのもとを訪れる。               (七つの悔い改めの詩篇)

 『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

行くべき道を教えられる

私たちはこの2023年の日々でいろいろな出来事に出合うでしょう。決して順調ばかりでなく、うまくいかない場合もあるでしょう。それは私たちが意図したものではないかもしれません。しかし、ここにこそ、神のみ心が隠されています。詩人は、「わたしはあなたを目覚めさせ」と神の言葉を私たちに伝えます。ルターは、「あなたの主は、そこであなたのもとを訪れる。」と言います。

上手く行かない時こそ、私たちは目覚めさせ、行くべき道を教え、勧めを与えられます。苦しむ私たちを一人にさせません。神さまは、目を注いでいてくださいます。

あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって/わたしを囲んでくださる方詩篇32:7と讃美します。私たちの日々にみ言葉が注ぎ意図を超えて神が働かれ、讃美へと導いてくださいます。安心して日々の仕事に従事いたしましょう。

祈り:日々が神のよって行くべき道を教えられていきますように。

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大森通信

「引退の準備」

伝道45年  総会資料Ⅰ 自立を目指して

牧師たちは、総会資料を作りに苦労する時期である。また後悔と希望の時期でもある。

アメリカの教会からの経済的援助を断り、経済的自立宣言を1969年にしたアスマラ宣言から十年後に牧師になった。教会は経済的自立を目標で進んでいた真最中に、私は、最初の総会資料作り、報告、年目標を作成していった。信徒を増やすこと-「教会成長」、そして「献身献財」の呼びかけであった。地方教会では経済的自立は難しかったが、高度成長期にあり、会員層も所得もあがった壮年が中心で献金をささげてくださった。不足分は牧師の塾などのアルバイトが出来て補っていた。時代がそういう時代であった。

ブラジルから帰国した1989年、20年経っても「教会の経済自立」と「教会成長」ということが目標にあり、特に「教会の活性化」ということと「教会にくれば献金、献金という声しかない」という「自立の疲れ」という言葉が教会にあった。牧師が夜間の車代行をしたり、奥さんが働き過ぎて倒れ、亡くなったりした。こういう20年間で見えてきたのは、自ら自立するための必要な課題と社会にどう応えていくかという事であった。「教会成長」に「教会形成」という言葉が加えられた。帰国時の着任の教会は、補助教会で、2年で自立させるようにということであった。今まで出来なかた自立を2年とはご無体な思いつつ、「教会の自立」と「教会形成」について取り組み、1年で自立した。総会資料を作りながらこういう経験を後輩にはさせたくないと思った。幸い信徒にも恵まれ一緒に宣教計画が練られ実行され、総会資料作りも楽しかった。息子らとトラクトを1000枚毎月配った。何も勧めたことはないが、長男は私よりも立派な思慮深い牧師になった。次男は幼稚園の先生となり、私の代わりをしてくれている。

(大森日記))静かなゆっくりと一日が過ぎ、除夜の礼拝となっていった。遠くから除夜の鐘。)新年礼拝、流石に少ない。伝道途上の日本の教会ではしかたのないこと。)総会資料の作成を始める。)次年度の説教題、讃美歌作成を始める。)ブラジル伝道した者としての集まり。)冬季預かり開始。礼拝から。子どもたちの声で、命が吹き込まれた学期初めである。)学期の初めの保育内容をめぐっての職員会会議。怠ることなく、常に内容を問い直し、深めていきたい。