1. HOME
  2. 風のように
  3. 三位一体主日(6月4日)「世の終わりまで、共に」

三位一体主日(6月4日)「世の終わりまで、共に」

1:1 初めに、神は天地を創造された。 1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 1:4 神は光を見て、良しとされた。                                                    創世記1:1~4

13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。                       第二コリント13:13

28:19彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。                                                       マタイによる福音書28:19~20

【説教要旨】

教会暦という独特な暦を持つ伝統的教会である私たちやカトリック教会、聖公会は三位一体主日を境に教会の暦が後半に入ります。次週からは聖壇の布が緑に変わります。それは緑の色が示すように命の力です。私たちが力強く生かされて生きるということです。その支えが今日の三位一体ということが示す父なる神、子なる神、聖霊なる神が一つとなっているということです。三位一体なる神が私たちを支えるのです。三位一体なる神の恵みによって私たちが力強く歩みだすことができるのです。私たちが私たちの力によって命を躍動させて生きていくということではありません。

釜ヶ崎で釜ヶ崎の人と共に生活されているいる新約学者の本田哲郎神父は、「洗礼」を「身を沈める」と訳しています。洗礼について説明し、洗礼を受ける意味について語っています。「イエスは『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが身を沈める(沈め式-洗礼式-で、あなたがたは身を沈める覚悟はあるのか。マルコ10:38』と聞く。そのときに言われた洗礼式(沈め式)とは何のことだったのか。それは、さかずきを飲むということと同じ意味、すなわち、過越しの秘義をさしていたのです。『自分に死んで神の復活の命によって生きる』ことが洗礼なのだということです。」

-1-

洗礼を受けるとは、水を受けて、あるいは水に身を沈めるということであり、これは死を意味します。自分が死ぬということです。それは自分に死んで神の復活の命によって生きるということです。江口再起牧師は、ルーテル教会の教理と信条の解説をした「真理を求めて」という中で、洗礼について、「洗礼はその人が神にゆるされるための儀式ですから、それがキリスト教の入信の儀式となります。そこでしばしば洗礼が人の入信の決意のしるしと考えられたりもするのです。しかし、本来は、より根本的に言えば、洗礼は神の恵み(のしるし)です。」と言われています。『自分に死んで神の復活の命によって生きる』つまり神の恵みにいきるということです。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われる神が、イエスさまが、共に生きて支えてくださるその恵みを受けていきるということです。私の力によって生きようとする私が殺され、新たな命、復活の命をいただき、私たちと世の終わりまで。自分が自分で生きているのでなく、神によって存在、それも大いなる神の恵によって自分があるということを深く受け止めていくことが出来るように導かれているのです。

江口牧師は、洗礼を入信式の儀式だと言いつつ、しかし、本来は、より根本的に言えば、洗礼は神の恵み(のしるし)です。と言って、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」ということを「彼らに父と子と聖霊の名によって神の恵み(洗礼)を授け、」と言いなおしているのではないでしょうか。これが教会の使命であって、洗礼を授けることによって自己保存を図ることではないのです。パウロが、「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである。1コリント1:17」という神の恵み、福音を告げることです。『自分に死んで神の復活の命によって生きる』という洗礼を受けた人を本田神父は、「キリストと同じ力-人を励ます力、悲しんでいる人に喜びを喚び覚ます力があるのです」と言い切ります。私たち教会が伝えるのは洗礼と言う神の恵みであり、福音、キリストと同じ力-人を励ます力、悲しんでいる人に喜びを喚び覚ます力が与えられるということを伝えることです。

-2-

激変していく難しい路があり、社会の流れに、私たちはどう生き、どう生きていったらよいか悩み、自分の体が不安でたまらなくなっている。寝つかれない自分がいるかもしれません。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのです。そのあなた、神は、あなたがたは、自分に死んで神の復活の命によって生き、キリストと同じ力-人を励ます力、悲しんでいる人に喜びを喚び覚ます力があると私たちを支えて下さいます。地は混沌であって、闇が深淵の面にある私たちの日々がある。しかし、神の霊が水の面を動いていたとあるように混沌と闇の中でも神は働いておられます。神の働きを見るのです。それは自分に死ぬことです。神の霊が水の面を動いていたと言われる復活の命を見、ここにこそ私たちの命の復活があることを信じることです。神は天地を創造された。混沌とし、闇があっても新しい命の創造が起きます。さあ、神がいつもわたしたちとおられます。安心して生きていきましょうとキリストと同じ力-人を励ます力、悲しんでいる人に喜びを喚び覚ます力を私たちにあると伝えていきましょう。今の激変する時代を共に生きて、友を励まし、悲しんでいる人に喜びを喚び覚ますことこそ真実な洗礼を授けることとなります。神が共に。

-3-

牧師室の小窓からのぞいてみると

今、必死でマイナンバーを国は広げようとしている。それは国が個人のデーターを持つことにより、個人を管理しようとすることだ。確かにデータをもつことによりこれを効率よく使い、私たちに幸せをもたらすようになるだろが、しかし、膨大のデータ-を管理するためにコンピューターが使われ、人間では手におえなくなり、AIが管理始めると人間がAIに支配され、人間は片隅に追いやられ、人間の幸福を求めたデーターの集約は、結局、人間を不幸に追いやることが見える。

バベルの塔のように、技術を得て、天に届ける力をもったが、結局、塔は壊され、人々は散っていった。今、第二2のバベルの塔が出来そうになっていると思う。

 園長・瞑想?迷走記

 「月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人(たびびと)なり。」と、人生は旅だと言われている。今は最後の旅をしている。これまでの旅で、子どもたちの目に入る小さな幼稚園の空間で自然、季節を感じていくことがどんなに大切かということを思って旅をしてきた。

今は梅雨入り前の旅である。玄関に入るとすぐに目に入るように聖壇の花鉢のアジサイを飾り終えれば、植えてきた。数年かけて10種類ぐらいのアジサイを植えてきた。花が今、育ち、咲いている。

幼稚園の祖であるフレーベルが、遊びを通して、神のお創りになった子どもたちが作られていくために遊びの道具を作り、花壇、菜園、果樹を備えた園庭を必ず備えるように主張をしたという。私はフレーベルを知っていたわけではなく、自然から学ぶ姿勢、四季を感じることを大切にする日本人の感性から園庭に花を植え続けた。また実のなる木を大切にしてきた。玄関にびわの実、裏庭にサクランボの木、園庭に桑の木、アーモンド、そしてオリーブの木を植えた。最後はイチジクの樹を植えたが、その成果をみることはない。これが旅だと思う。

-4-

日毎の糧

聖書:3知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。5 主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。    詩編100:3,5

 

ルターの言葉から

 わたしたちの救いと生のすべては神の哀れみのうちに置かれ、 包まれている。わたしたちが現にあり、生きているのはただ恩恵によるのである。『卓上語録』M.ルター著、植田兼義訳、教文館

常套句

 100篇の5節は、神がどのよう方であるかを簡潔にあらわす常套句である。つい常套句は、その意味を失い歌い文句に聞こえてくる。

しかし、しかし、聖書の言葉に歴史がある。あの奴隷としてバビロン捕囚がイスラエルの民にあった、エジプトでは迫害され、モーセに引き連れられてエジプトを出なければいけなかった。そして荒野を40年間、さ迷わなければならない苦難の歴史、日々があった。具体的な歴史の日々を通して、神の慈しみは、偶然で、気まぐれなものでなく、いつも神はともにいてくださり、恵み深くあった。「主はわたしたちを造

られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。」であったという歴史の事実が、感謝の言葉として口から出た心からの常套句であった。

私たちの信仰の路も、色々とあるでしょう。しかし、私たちは神に造られ、神のものであり、神に養われるものである。詩編の作者と同じように、「主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。」と常套句をもって結ぶ信仰の路の終わりがあります。今、苦しんでおられる方がおられるなら、ここだけで終わらないことを信じて、今をいきましょう。

祈り:神の恵み慈しみを信じて最後まで歩めますように。

-5-

大森通信

「引退の準備」

伝道45年  総会資料Ⅻ 「牧会Ⅷ」

 3.共働牧会  

社会が大変化していく中で、人間を中心とする人間中心主義になって、人間が神に代わっていこうとし、技術革新がすべての分野で行われています。グローバルであり、複雑な技術をもって動いている複雑な社会の海に私たち教会は浮かんでいます。この大海にいつ沈んでもよい状況にあります。

そういう中で複雑化した社会を分析し、高度な技術を使いこなすことが宣教にとっても必要となってきています。牧師、信徒が一人で時代に立ち向かえるような状況にありません。また、教会も一人で立ち向かうことはできません。宣教を義務付けられた教会にとって、牧師同士、信徒同志、牧師と信徒同志、教会と教会が共働していくことが求められています。

複雑化した社会、技術が高度化した中でいろいろなタレントをもった人が、共に働くことにより、単に教会を守るだけでなく、喜びの福音を伝える宣教がなされます。複数協働牧会は、教会を守るというよりも福音、神の喜びを積極的に展開するわざとなります。単に牧師不足補うわざではありません。参考文献:「共同司牧をめざして ローラン・ソフィールド、キャロル・ジュリアーノ著 アンドレア・ボナッツィ訳 新世者」、「複数共同牧会の手引き 東海教区」

大森日記)創立者エルソン牧師の墓前礼拝。これからも自分のこととして感謝の気持ちをもって続けて欲しい。)いつのように教会学校、通常礼拝、訪問、夕礼拝と続く。いつもが感謝。)ずっと休みを取っておらず疲れたので午後から休みをとる。)園長補佐と幼稚園の将来を話す。教会の宣教のわざとしての幼稚園であることを。)半日保育だが、預かりは6時半まで。こういうときは出来るだけ先生を送るまでいることにしている。園長には休みがない。)午前中は羽村の諸幼稚園と市長の懇談会。要求、陳情の場でなく幼児教育を市としてどうするかだ。大森に戻り、事務の打ち合わせ、夜は聖書の学び。)台風が近づき雨が強い。昨日までに主日の準備はしたから大丈夫か。