1. HOME
  2. 風のように
  3. 三位一体主日礼拝(6月12日)「苦難」

三位一体主日礼拝(6月12日)「苦難」

5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。                                                            ローマ5:1-5

しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。                ヨハネによる福音書16:13

【説教要旨】            苦難

毎年、6月の第2日曜日は「花の日」とし、教会学校と合同礼拝をし、春の子ども祝福式をしていましたが、新型コロナウィルス感染流行により、行えなくなりました。また、ロシアによるウクライナ侵略は、徐々に私たちの生活を物価上昇という、影響を与えてきています。私たちは、大森カトリック教会のフードパントリーに協力をしています。お礼の葉書で、「5月28日のフードパントリーには、130名の方が来られました。来られた方のなかには、電気やガス等を止められた方も何人かおられます。厳しい現実を目の当たりにして・・」という言葉がありました。弱い立場にある国、人が一番に影響を受けて、苦しんでいます。私たちは苦難の時代を今、います。

こういう状況で、私たちは今日のみ言葉を与えられています。「わたしたちは信仰によって義とされた」とパウロはローマの信徒へ、私たちに語りかけます。この言葉こそ、私たちルーテル教会がよって立つところです。「信仰義認」と言います。私たちが神さまに義しい者と認められるのは、よき行為をするのでなく、神さまこそ無条件で私たちを義しい者として認めて救ってくださるということで、私たちはその神の御心(恵み)を信じればよいという事です。

ー1-

「キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ」

「キリストのお陰で」とは、十字架に架かられたキリストです。キリストは十字架において決して私たちをとがめることなく、すべての人に大きく腕を広げ、栄光でねじ伏せるのでなく、むしろ捨てて私たちのところまで来て下さり、私たちの過ちを引き受け、罪をその身に担ってくださいました。「『死んでしまうほど弱い神ではどうしようもない。頑強で権威的な神のほうがよいのではないか』と反論する人もいることでしょう。しかし、お分かりのように、この世の力は過ぎゆくものですが、愛は留まります。愛だけが私たちが手にするいのちを守るものです。愛はわたしたちの弱さを抱きしめ、それを変容させるからです。・・・・・・・・・・・・・

愛する兄弟姉妹の皆さん。イエスはご自分を私たちに近づけることで歴史を変え、たとえなお悪が刻まれていようとも、それを救いの歴史となさったのです。十字架でいのちをささげることにより、イエスは死に打ち勝ちました。十字架上のイエスの裂かれた心臓から、神の愛はわたしたち一人ひとりに注がれています。」と教皇フランシスコの講話にあるようにキリストの十字架による神の愛が私たち一人ひとり注がれるお陰で、私たちは、神との間に平和を得ており、恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りと出来るのです。イエスが近づき、イエスが与えてくださる神の愛に受けることによって、人生を変えることが出来ます。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」と人生を変えることが出来るのです。なぜなら、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

「信仰によって義とされた」。私たちが生きていく根元を神の愛に置いて神により頼む、つまり信仰を生きるということです。私たちは日々を生きています。時には神の愛を感じられない、苦しい上り坂、闇夜、苦難の日々を生きなければならないかもしれません。たとえ苦しい上り坂、闇夜、苦難の日々であっても、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。」という確かな歩みが私たちに約束されています。

-2-

「5月28日のフードパントリーには、130名の方が来られました。来られた方のなかには、電気やガス等を止められた方も何人かおられます。厳しい現実を目の当たりにして・・」という厳しい現実にある方も神の愛は注がれ、希望はあります。神の愛が共に注がれている、希望を持つ者として互いに寄添っていくからこそ、厳しい現実に私たちは打ちのめされない。「厳しい現実を目の当たりにして、この活動の必要性をますます強く感じました。」という率直な気持ちと、一歩を踏み出す勇気が神によって起こされてきます。

今日は、「幼稚園運営についての臨時総会」です。時代によっては、総会の度に定員割れをし、苦しい経営状況が、子どもたちの様子の変化で、教育・保育に課題が起きたことが報告されています。今は少子化で、どの幼稚園も定員割れ、閉園が出ています。また、子どもたちも社会の変化によって、共働きの保護者が増え、子どもたちは長時間幼稚園で過ごしています。子どもたちの心も大きな変化が起きています。子どもを診ている精神科の診療所が出した統計ですが、病院を受診していた年齢層の変化です。10年前は0歳から6歳までが19%であったのが現在は33%以上になり、その内、心理発達障害が32%から49%となりました。子どもの心は複雑化し、教育・保育の現場で大きく対応の変化を余儀なくされています。社会の変化にあって、幼稚園、そこに集う子どもたちの厳しい現実を目のあたりにしながら、私たち大森教会は、幼稚園の業が必要とされているということを感じる総会でありたいと思いす。苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからですという真理を悟らされる恵みを頂きたいのです。

①「真理を求めて」 江口再起 日本福音ルーテル教会

②「教皇フランシスコ講話8」

-3-

牧師室の小窓からのぞいてみると

 日銀総裁が「日本の家計の値上げの許容度も高まってきている」と発言して、批判を受けて謝ったという記事があった。

むかし、仁徳天皇が宮から見ると民の竈から煙が上がっていないのを見て、民の困窮を察し、3年間の税の免除、宮殿の改修、着物の新調をしなかったという民の生活を気遣う逸話がある。為政者の鏡として語り継がれている。

「5月28日のフードパントリーには、130名の方が来られました。来られた方のなかには、電気やガス等を止められた方も何人かおられます。厳しい現実を目の当たりにして・・」ということが見えなかったのだろうか。弱い立場の人が守られるために金融政策はあるのではないかと思う。

でも、教会も決して日銀総裁のことを他人事のように思ってはおられない。私たちは何を見ているかということをもう一度、吟味しないといけないと思った。

 

園長・瞑想?迷走記

先日、私が関係する福祉施設の診療所(精神科)の医師が患者さんの受診の十数年間の年齢の変化、疾患別の変化を出してくださった。10年前は0歳から6歳までが19%であったのが現在は33%以上になり、その内、心理発達障害が32%から49%となりました。園長会で、「特別支援の子どもが増えたよね」と、どう取り組んでいくかということが話題になっていました。子どもの心は複雑化し、教育・保育の現場で対応の変化を余儀なくされています。

先生方は、教育・保育の勉強とともに、精神疾患をもたれている子どもの教育・保育の勉強が必要になってきています。また、対応していくために教師の数が必要となってきます。そしてクラス定員の適正化を考えなければいけません。残念ですが限界が出て、入園を断わざるをえず、断腸の決断することも出てきました。複雑化していく子どもの心に寄り添っていく強い心をもって教師は悪戦苦闘しています。

-4-

日毎の糧

聖書:イスラエルよ、言え。「主がわたしたちの味方でなかったなら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・わたしたちの助けは/天地を造られた主の御名にある。                                                             詩編124:1、8

 

ルターの言葉から

とくに私たちは、神の崇高な素晴らしいみことばを称え、その万能の力を知るべきである。なぜなら、それをもつ人はすべてを得、すべてを行うことができるからである。 逆に、それをもたない人については、罪や死、悪魔に対して、ほかの何ものも彼らを守るはずもなく、守ることもできないのである。

(『家庭礼拝標準説教集』1544年)

『ルターの言葉 信仰と思索のために』W.シュパルン編 湯川郁子訳 教文館)

 

とっくの昔に

 「主がわたしたちの味方でなかったなら」とイスラエルの艱難の歴史を振り返りなら、とっくの昔にイスラエルの国はなくなっていたが、しかし、現実は真逆のことが起きて滅亡することなく今があると讃美し、感謝している。

「主がわたしたちの味方でなかったなら」という言葉を感謝して受け留めている。自分の人生を振り返るときも、イエスさまと出会い、ミカでなければ、私は滅びていただろうと実感している。これからも、「主がわたしたちの味方でなかったなら」どうなっているか分からない人生が繰り返し、繰り返し積み重ねられていく確かな人生があることを信じている。

私の内に確かな人生があるのではなく、「わたしたちの助けは/天地を造られた主の御名にある。」のです。目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。2わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。                               詩編121:1-2

祈り:滅びゆく私を助けてくださり、神への感謝を忘れずいるように。

-5-

大森通信

「大森ルーテル教会70年史」23

 日本を愛してor恋して

 宣教師によって立てられた別府、刈谷、元町、小鹿、清水、希望、名古屋教会の宣教をした。

大森教会の70年史を編纂していて、感じたことは宣教師たちの心である。宣教師は愛しているというよりも、日本を、教会を、教会員一人一人に恋していったのではないだろうか。よく、「恋したら負けですよ」と聞く。または、恋は盲目だともいう。宣教師たちは、理屈なしに、日本に、日本の教会に、教会員一人一人に恋して、盲目に宣教し、最も大切な宝、神の愛を下さったのではないだろうか。

ブラジルの宣教師となって、私は、ブラジルに恋をし、教会に、教会員一人一人に、恋は盲目だというように盲目に恋していただろうか。正直、最初はなかなか恋には陥れなかったが、ブラジルが好きになり、教会が好きになり、教会員が好きになり、ブラジルに、教会に、教会員に恋し、恋に陥った。この国のために、教会のために、教会員一人一人のために命を捨てても惜しくはなかった。今も、ブラジル、教会、教会員一人一人は寝ても覚めても思い出す。自分が一番大切なもの、神の愛を命惜しまず与えたいと思う。国を、教会を、教会員一人一人を「愛していますよというよりも、恋しています」という言葉の方が、宣教師の心に近いような気持ちがする。

(大森日記))教会学校、通常礼拝、祈りの会、役員会、神学生との勉強、夕礼拝と神の恵みを感じ一日が終わる。)梅雨入り。シスターと約束したように燭火棒を購入にピエタに向かう。)デンマーク牧場福祉会の理事会。世の挑戦を受け、世に挑戦。主の証の施設となった。)東京発6:34でH幼稚園へ。雨で荒れた園庭を整備し、子供たちへ礼拝。夕刻まで。)初夏のこの頃、草木は成長していく。しかし、同時に成長に任せると害虫が発生する原因となる。Y兄と庭の木を一本、一本剪定し、風通しを良くしている。木が喜んでいるように思える。聖書に学ぶ会は面白かった。)避難訓練、どうも子どもたちは訓練と遊びが区別出来ずにいる。この違いをどう教えていくかは大変である。)早朝に起き空を見ると梅雨空。しかし、植物の成長には必要な空。