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ペルソーナの渡し合い 真実な愛の交流  5月8日礼拝(ブラジルの過ごした好きな神学校の礼拝堂)

34 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。:35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。                使徒言行録10:34~35

7:13 すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」14 そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。15 それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、/昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、/この者たちの上に幕屋を張る。16 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。17 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」                     ヨハネ黙示録7:13-17

 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。                                           ヨハネによる福音書10:27

 

【説教要旨】 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。

「『神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。:35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。』」とは、キリスト教がユダ教の分派でなく、まったく新しい教会となっていく宣言です。それはユダヤ人にとっては、聞くに耐えなく、キリスト教会をますます迫害へと向かわせる原因ともなっていったのです。実は、それは「わたしと父とは一つである。ヨハネによる福音書10:30」というイエスさまの言葉も-神とイエスさまが同等-神を冒涜している言葉であり、十字架の死の原因ともなったのです。

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しかし、敢えて、「「わたしと父とは一つである。」と言って、ユダヤ教の強い反発を受けることをしたのでしょうか。どこまでいっても父なる神と子なるイエスさまは違います。

「イエスと父なる神とは、別々のペルソ-ナです。同一でない二者でありながら、一つであるということなのです。・・・一つであるという鍵は『神は愛である』ということです。真実の愛は、完全に互いを渡し合います。互いのいのちが交流しあいます。・・・・・父と子は愛によって完全に一つなのです」①

キリスト教が愛の宗教と言われるのはここにあるのです。自分を渡しても、真実な愛を他者へ渡すという事です。

2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。 6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。                     フィリピ信徒への手紙2:5-8

「互いにこのことを心がけなさい。」、隣人を愛するということです。イエスさまは私たちを愛してくださり、そのペルソーナを私たちに渡してくださり、人となられました。そして、私たちが神の真実な愛に生かされていく恵みをくださいました。

イエスさまはこう祈ります。 「17:21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。ヨハネによる福音書17:21-23」

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私たちを神とイエスさまの一致へと導き、罪深い人を愛することの出来ない私たちのペルソーナを渡し合うことによって、私たちが真実に愛の人となることを祈るのです。ペテロは、「そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。:35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。 使徒言行録10:34~35」と、救いの外にある異邦人も神の真実の愛に生かされている人だと気づくのです。救いのうちにあるユダヤ人、救いの外にある異邦人の互いを渡し合い、互いの命の交流が起こり、真実な愛を伝えるキリスト教会に変貌していきます。それは、多くの誤解を生みだし、キリスト教の迫害が続きました。目に涙することも、悲しみも嘆きも労苦もあるでしょう。しかし、神の、キリストの声を聞き分け、キリストの交流において、愛に生かされていることを知り、キリストに従っていきました。

現代、もっとも私たちが伝えなければいけないことは、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。:35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」ということではないでしょうか。互いが完全に渡し合い、命の交流です。真実な愛こそが、現代に生きる私たちに最も必要なことです。

私たちは真実な愛を伝えることが涙を生み出し、苦難を生み出すでしょうが、私たちは神の、イエスさまの声を聞き分け、神と、イエスさまと一つとなり真実な愛を伝える大森教会でありたいものです。

イエスさまは、「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐい」とってくださいます。

引用:①2(「神のやさしの中で」森一弘補佐司教、女子パウロ会)

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牧師室の小窓からのぞいてみると

政治は、経済と深く繋がっている。今回のロシアにおけるウクライナ侵略ですごく気になっていることは、アメリカの武器提供が加速していることである。それは、アメリカの軍需産業の活気を取り戻すことに繋がる。またロシア、中国は軍が軍需産業を直接担っている。

結果的にウクライナがこのために犠牲になっている。人間の罪の深さを感じている。元々、経済とは「経世済民」と表し、「世を治め(経世)民を救う(済民)」ということである。しかし、ただ今は、金儲けのための世の仕組みになったように思える。「経世済民」の理想を追求し、世に実行し、汗していくことが政治だと思う。世を治め(経世)民を救う(済民)ために政治家は和平実現に努力をしてほしい。

「人はパンのみにて生きるにあらず」というイエスさまの言葉を噛みしめている。本来の経済へ。

 

      園長・瞑想?迷走記

やっと、教会学校(朝の礼拝)も始まった。まだ、讃美歌は1曲だけである。大森教会の讃美歌は、幼稚園で決められた讃美歌が一ヶ月繰り返される。「こどもさんびか」、「こども教会讃美歌」、「友よ、歌おう」を使って違う讃美歌を歌っていた私には未だに違和感がある。 新型コロナウィルス感染拡大で、教会学校が自粛されていたときに私と家内と山口兄と数名の子供と讃美するとき、「こどもさんびか」を使って歌っていた。

そんな中で気になっていた讃美歌が「48番こどもをまねく」であった。リズム感もあり、爽やか讃美歌で、つい口ずさんでしまう。作曲は津川主一という人である。著書に「日曜学校音楽」、「日曜学校・幼稚園聖歌集」、「こども聖歌集 銀の星」などもある。 「牧人、羊を」の讃美歌は、彼の訳であり、「ロンドデリー」も彼の訳である。

牧師2代目だったが、牧師を途中で辞し、音楽家になった。音楽を通して福音を伝えていく決意をしたのだろう。こういう生き方もあるだろうと。子どもたちへの讃美歌を提供し続けたことに感謝する。

日曜日の朝、子供たちの讃美が教会に響き始めたのは感激である。

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日毎の糧

聖書:「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」            ルカによる福音書10:27

 

ルターの言葉から

私たちのわざによって神をさらに強め、さらに富ませるなどということは不可能ですが、隣人を強め、富ませることはできます。隣人は私たちのわざを必要としています。ですから、私たちの善き業は隣人に向けるべきであって、神に向けるべきではないのです。あなたがたはすでにこのことについて聞いてきましたが、耳に響いていてほしいのです。願わくは、善きわざがあなたの手を通り、かたちとなってあらわれてきますように。

信仰は神にのみ帰せられます。信仰は神のみが可能なみわざを受け取ります。神のみわざは、信仰によってのみ受け入れられます。そして、私たちは隣人のために働き、私たちのそのわざは、隣人に役立つようになります。私の信仰は内面と上方に向けて神のもとへと携えられてゆき、私のわざは外側と下方に向けて、隣人のためになされます。                          三位一体第4主日の説教

『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

神でなく隣人へ

 ルターは面白い表現をしています。「私たちの善き業は隣人に向けるべきであって、神に向けるべきではないのです。」と。神は抽象的なものであて、具体的ではありません。しかし、隣人は具体的に私たちの周りにいます。イエスさまは、「いと、弱き者にしたるは、我にしたり」といわれます。善きわざを隣人に向けることは、イエスさま、神さまに向けることなのです。その逆はありません。「神のために」という言葉ほど虚しく嘘はありません。まずは、あなたの傍にいる隣人へ善きわざを弛まずしていきましょう。

祈り:隣人へ善き業を向けていくことに力をください。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」19

        ひとつになる

 日本にあった諸ルーテル教会が合同したのは1953年(昭和28年)であった。日本福音ルーテル教会、東海福音ルーテル教会、スオミシノッド教団、アウガスタナ・ルーテル教会が合同した。

このとき、神学校は一つということで、東海福音ルーテル教会の神学校は売却され、三鷹の神学校の資金の一部になり、急遽、式文の統一がされ、「茶式文」が完成した。神学校は一つ、礼拝は一つということです。

しかし、前田貞一牧師がポツンと言った言葉を思い出す。「一つになることによって、多様性を奪ったのではないだろうか」と。

一つになるとは、同じ色に染まる事でなく、それぞれが持っていた特徴を生かし、違いがあって一つになっていくことではないだろうか。本郷教会は、東海福音ルーテル教会の十戒がある式文を使っていたが、若い牧師が来て、これを通常の式文にしてしまった。面白くないというのが私の気持ちである。大森教会は敬虔さを伝統にした教会である。その敬虔さをこれからも持ち続けていきたい。正統主義の教会にあって、一つぐらい敬虔な教会があっても良い。その表れが礼拝後の祈祷会である。いつまでも失うことなく続けて欲しい。それが日本の教会への貢献できることではないだろうか。多様性の中での一つ、これが本来の教会の姿。                                                         (参照:日本福音ルーテル教会百年史」、to-morrow 日本福音ルーテル東教区 )

(大森日記))イースター後の礼拝は落ち着いた中で行われる。午後から幼稚園運営委員会。)70年史へ九州ルーテル学院院長、神戸聖書学校の教授からお礼の手紙。出来そうでなかなか出来るものではない。)卒園児に入学、進級の葉書を続けている。)連休、休むことをしよう。朝夕の庭掃除は忘れず。)訪問。少々疲れる。歳か。)疲れたのか午後から熱が出て。病院へいく。こういうご時世だから緊張が走る。しかし、何が起きても対応できる役員がいるので安心である。PCR検査、抗体検査は、マイナス、陰性。気を付けても気を付けても限がないが、気を付けるしかない。