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み胸にいだかれ  3月27日の礼拝

主の軍の将軍はヨシュアに言った。「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」ヨシュアはそのとおりにした。 ヨシュア記5:15

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 第2コリントの信徒への手紙5:17

そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 ルカによる福音書15:20

 

【説教要旨】  み胸にいだかれて

イスラエルの人々は荒れ野を四十年さまよい歩き、その間にエジプトを出て来た民、戦士たちはすべて死に絶えた。   ヨシュア記5:6

とあるようにモーセに連れられ出エジプトし、荒野をさまよったイスラエルの民は世代交代をして、ヨシュアに導かれ約束の地に踏み入れ出すのです。それは困難極まった旅となっていきます。讃美歌に「ここも神のみ国なれば」とあります。「ここも」とは、イスラエルの民は約束の地に入ったとしても、不安定な困難極まりない戦いの旅にありました。しかし、困難極まりない旅も神の約束された地での旅でした。今起きている困難な旅のなかでも、この時、この地は、「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」のです。人の目と神の目は違うことのです。どんなに困難極まりない所であっても神の約束された地は乳と蜜と満ちる聖なる地なのです。

一方、彼らはマナを食べることなく、土地の産物を食べるようになった、食文化の変化です。文化の大きな変化の中を生きていかなければなりませんでした。

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私たちキリスト者は聖霊に導かれ神の国を目指して、この21世紀を生きています。その旅に新型コロナ感染という大流行に襲われ命さえ危ういことが起きました。また虚構の力で世界を従わそうとしている全体主義的国家、ロシアがウクライナ侵攻をし、第三次世界大戦とまでいわれる瀬戸際にいます。文化は大きく変化しました。パソコンとインターネトの技術革新と普及です。マナでなく豊かな食べ物を食べたように文化の大転換が起きています。未来が見通せない、困難極まりない時代を生き、不安の中に私たちはいます。

大変化しようとする困難極まりないところを生きている民にヨシュアは割礼を施したというのです。割礼とは、ヘブライ語でブリット言い、契約という意味です。神と契約するという意味です。アブラハムと神とが結んだアブラハム一族の繁栄と乳と蜜の満てるカナンの地の定住の契約のしるしとしての割礼です。神はアブラハムに祝福の契約を結んで守るということです。私たちを真実にここも神のみ国に生きていく力は割礼、神との契約にあるということです。この契約は人が結んだのでなく神がアブラハムと結んだのです。神のみ胸の中に私たちの安全と繁栄はあるということです。

福音書の日課は「放蕩息子のたとえ話」という有名な聖書箇所です。この譬えから私たちはいろいろな使信をいただけます。どんなに道に迷い、どん底に落ち込んでも父なる神は私たちをみ胸の中に包み込んでくださるということです。

そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。ルカによる福音書15:20

困難極まりないという危機が、個人的にも、民族的にも、国家的に起こりうるのです。ヨシュアに率いられたイスラエルの民も、急激な世代交代が起きて自分たちを変えないと民族は滅びるという瀬戸際にいた。また自分は十分に成人として生きていけると思って旅立ち、失敗したこの息子も危機の中にあって、自分を変えなくてはいけなかった。その失敗の原因は、イスラエルの民は、「イスラエルの人々は荒れ野を四十年さまよい歩き、その間にエジプトを出て来た民、戦士たちはすべて死に絶えた。彼らが主の御声に聞き従わなかったため ヨシュア記5:6」

この息子は、「息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。ルカによる福音書15:21」でした。神の声に従わなかった罪の結果です。

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しかし、この罪によって、人を滅ぼそうと神はしなかった。この罪を神は許された。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。  つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。第2コリントの信徒への手紙5:17~19

「5:2 そのとき、主はヨシュアに、火打ち石の刃物を作り、もう一度イスラエルの人々に割礼を施せ、とお命じになった。」、割礼、それは神の契約の中に抱かれることであり、新しい民族の創造の出発です。放蕩した息子を父が子として迎え入れたように、息子の新しい創造の出発です。

確かに私たちの罪の結果、危機に立たされる。しかし、ここに神は立たれる。キリストの十字架がある。キリストは十字架に立たれ、私たちの罪を負ってくださった。そして人として危機にたってくださった。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。マルコによる福音書15:34

危機は私たち一人ではなくキリストがおられ、主は私たちに神のみ胸に抱かれよと示されました。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。ルカによる福音書23:46」。十字架に私たちは結ばれ、新しく創造されています。今、古きものが頭をもたげ私たちの罪の結果、私たちを危機に陥らせている。しかし、ヨシュアに割礼を、私たちに十字架を与え、新しいものが生じたという時が始まっています。安心して主のみ胸に抱かれ今日という日を旅立ちましょう。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

平和を作り出す人は幸いである。

歴史学を学んでいる大盛保郎さんにウクライナとロシアの歴史、今をどうとらえたら良いかをシリーズで書いていただています。 

ロシア・ウクライナ戦争をめぐるキーワード「コサック」

大盛保郎

先日、初めてウクライナの国歌を聴いた。ルーマニアやイスラエルの国歌と同様、非情に暗いバラード風の軍歌を思わせるメロディーで暗い気分になる。しかし、ここでは曲の暗さではなく歌詞に注目したい。全体を通して他民族に支配・蹂躙されて来たウクライナの苦難の歴史、それらと勇敢に闘う不屈の精神を語る歌詞が重要だ。つまり、この歌詞に今回のロシア・ウクライナ戦争をめぐる重要なキーワードが隠されている。3番まである歌詞の結びは「そして示そう 我らがコサックの子孫であることを」がリフレイン(繰り返し)されている。実態は別として、現代のウクライナ人の意識では自らをコサックの末裔と位置付けているのだ。複数の民族や人種からなるコサックは必ずしもウクライナ全体を示すものではないが、少なくとも国歌に現れるウクライナ人の意識は異なっていたわけだ。

 

勇猛果敢で好戦的なウクライナのコサックはポーランド・リトアニアやロシアなどその時々の大国や周辺諸国の思惑に翻弄され、防塁や侵略の尖兵として便利に利用され切り捨てられた。英印軍のグルカ兵と似た立場だ。グルカとの大きな違いは17世紀のコサックの英雄フメリニツキーの時代に百数十年ながら、キエフ・ルーシ消滅後初めて「ヘーチマン国家」としてポーランドから独立を回復したことだ。この独立戦争でポーランド軍に限らず、夥しい数の非戦闘員たるユダヤ人(徴税請負人や奴隷商人など)やイエズス会修道士が大殺戮された。コサックの末裔を名乗ることは同時にこの負の遺産も背負うことになる。さて、度重なるポーランドの反攻に対抗するためヘーチマン国家は帝政ロシアと軍事同盟を結ぶが、結果は「小ロシア」(二等国民)という不名誉な名を冠した属国化だった。ところが、宗主国ロシアはスウェーデンとの大北方戦争にあたりポーランドとの軍事同盟を結んでしまう。真に「敵の敵は味方」という外交原則だ。ウクライナとロシア、ベラルーシの3民族が同根なのは事実だが、敢えてロシアを兄弟民族とは認めないウクライナ人がいるのはこうした歴史のためだ。現在、ウクライナの難民の大半がポーランドに集まっているが、これが歴史の皮肉なのかポーランドの償いなのかはわからない。その後のコサックは第二次大戦の独ソ戦でナチス・ドイツ側に付きソ連を苦しめた後、歴史から姿を消した。

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ウクライナ=コサックとして読み解いていくと謎が一つ解ける。常軌を逸してプーチン大統領がユダヤ系のゼレンスキー大統領を”ナチス”呼ばわりする真意が見えて来る。昨日まで兄弟と呼んでいた民族を無惨に殺害するプーチン流の”正当な理屈”、新興財閥・オリガルヒの利益代表たるプーチン氏が「偉大なる祖国ロシア」という脈絡では突如ソ連に先祖返りするカラクリだ。

ところが、偉大なるロシアとソ連はそれほど簡単には直結しない。レーニンにはユダヤやアジアのキルギス系の血が流れ、スターリンはジョージア(グルジア)人、そして、クリミアをウクライナ領にしたフルシチョフ、他国の主権を制限するドクトリン(外交原則)で悪名を馳せたブレジネフの2人に至っては何とウクライナ人だ。構成国の1つとしてウクライナを支配したソ連の指導者2人が実はウクライナ人だったという悪夢のような事実だ。ソ連という国家は極めて複雑怪奇だ。

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さて、ウクライナといえば民族楽器のパンドゥーラ(ルターも弾いたリュートとハープが合体したような40本以上の弦を持つ楽器)が有名だが、日本にウクライナ人パンドゥーラ奏者(兼歌手)が2人おられる。お1人はナターシャ・グジーさんだが、ジブリ作品の主題歌をカバーされているので結構有名だ。もうお1人はカテリーナさんという方で、地味に流行った日本の歌をカバーされている。お二人とも美声の持ち主で日本語も堪能だが、実は、チェルノブイリ原発事故の被災者で今も健康被害の心配を抱えておられる。

国外で音楽活動するウクライナ人の中にハンガリーで音楽伝道師をしているチャーカーニィ・マリアンナさん(日本と同じで姓・名の順)がおられる。薬師丸ひろ子さん似のスウィート・ヴォイスの持ち主だ。ウクライナ国籍だが、ハンガリー系の少数民族、改革派教会の信徒でもある。近年はご結婚されてジェルケネーという苗字(Györkené Csákány Marianna)が付加されている。超教派で活動しているためルーテル教会でもコンサートを開催されている。以前、筆者はハンガリー独自の讃美歌に日本語の訳詩を付けて紹介したことがあるので、マリアンナさんのことをご記憶の方もおられるかもしれない。

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彼女たちの音楽はとても尊い。何故なら平和を求める祈りそのものであり、慰めだからだ。音楽は希望と勇気も与えてくれるからだ。

「カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」(聖書協会共同訳 Iヨハネ3:12)

侵略開始から早くも1ヶ月が経とうとしている。今や1000万人を超すウクライナの難民が国内外に溢れている。最早、プーチン氏のいう「ロシア系住民の保護」=自衛という建前すら成り立ち得ない深刻な情勢だ。

【祈り】

主よ、ロシア軍の早期撤退、ウクライナの主権と平和の回復を願い求めます。あなたの平安がウクライナとロシアに与えられますように。兵士だけではなく、無差別攻撃で赤ちゃんを含む多くの一般市民が命を失っています。1000万人を超す難民がわが家を追われています。命を奪われ、身も心も傷つき、不安と恐怖のただ中にあり、家を追われ生活の困難を強いられているすべての人々にあなたの慰めと癒しがありますように。

主の御名によって アーメン

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日毎の糧

 

聖書:詩編53

53:1 【指揮者によって。マハラトに合わせて。マスキール。ダビデの詩。】

53:2 神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。神は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。悪を行う者は知っているはずではないか/パンを食らうかのようにわたしの民を食らい/神を呼び求めることをしない者よ。それゆえにこそ、大いに恐れるがよい/かつて、恐れたこともなかった者よ。あなたに対して陣を敷いた者の骨を/神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた。

 

ルターの言葉から

私たちの心が試練の中でどんな状態にあるかは、このように示される。私たちの心が感じているように、そのように、そのようにここではキリストもご自身をあらわされるのである。そこにはただ否定だけがあるとしか、心で思えないとき、そういうときさえ、それは真実ではない。それだから、心はこのような感情には背を向けて、否定の上や下にある深いひそかな肯定を、神の言葉への固い信仰によって掴み、しっかりと保ち続けなければならない。                                                                             「四旬節説教集」

 『ルターの言葉』W.シュパルン 湯川郁子訳 教文館

ここに真実がある

 「神などない」という世界があります。しかし、「それは真実ではない。それだから、心はこのような感情には背を向けて、否定の上や下にある深いひそかな肯定」がある、ここに真実があります。 ここに立つことは、神のみ言葉を聞く。聖書を日々、読むということです。み言葉は真実を明らかにしてくださいます。

祈り:日々のみ言葉に耳を傾けて、神の真実を見ていけますように。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

3月15日にNHKで放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組、「ここが、私の居場所~社会起業家・川口加奈~」は、感動をした。考えさせられたし、慰められ、励まされた。番組紹介が次のようにされています。

14歳からホームレス問題に取り組んできた社会起業家の女性に密着!ホームレスの人に仕事を作ろうと「シェアサイクル事業」を手がけ、今や売り上げは年間5千万円近くに達し、支援したホームレスの人は2千人を超える。よほど情熱的な女性かと思いきや、本人は「私、“無”なんで」が口癖の風変りな人だった。14歳で人生を決めた女性の“無”に込めた思いと、路上生活から仕事をみつけ、新たなスタートを切る人々の姿を追った。

私、“無”なんで」、宗教家と思える言葉です。旧約学者、小友先生は、コヘレトの「空」、あるいは「無」と訳す言葉を「束の間」と訳されている。「私、“無”なんで」です。束の間、私。若松氏はエックハルトの言葉を紹介し、「『無』は、何もないことではなく、名状しがたい無限のエネルギーを指示しています」と言います。束の間を生き、名状しがたい無限のエネルギーの中で、「いと小さき者にしたるは我(神)にしたり」を生きている人に出会えた番組である。ぜひ、見ていただきたい番組です。

      園長・瞑想?迷走記

修了式、卒園式でホッとしたのだが、新型コロナウィルス感染は、幼稚園が終了しても続いている。昔なら春休みに入り、ここで止められるのだが、春休みといえども、現在の幼稚園は春休み長期預かり保育が始まるので、園は開け、違った対応をしなければならない。ここに来る園児は保護者が共働きで、閉じると影響がある。他区の保育園では、閉鎖をしないように指示されていると聞く。毎日、礼拝をしながら、子どもたちに繰り返し、マスク着用、手洗いの指導をしている。これしか防御方法ない。休む暇がない、これが園長かもしれない。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」16

束の間5

先日、東教区の墓地委員会から、「合葬同意書」を出すように書類が来た。教籍簿を調べると確かに教会員だが、召天の記録はない。住所は古いままで教区はご遺族と連絡が取れないでいるのであろう。私たちの教会でも連絡が取れないでいる。教会で同意書を提出しなさいと言われても、個人を無視して出して良いのか悩む。

当時の牧師に聞くにも召天されている。そこで、ご夫人に聞き、記憶を辿っていただくと、色々な信徒さんが歩まれた歴史を知ることが出来た。今回の方は誰もご遺族がおられない方であった。それなら、教会として同意書に署名が出来ると判断が出来る。

お寺さんも無縁墓地で困っているという。確かに墓地を尋ねると墓石が壊れていたり、明らかに墓終いした空き地がある。教会の合同墓も同じように起きても不思議ではない。

教区は横浜、小平、千葉、仙台に墓地をもっている。またそれぞれの教会でも墓地、納骨堂をもっている。地方の教会が統廃合されていく中で、墓地、納骨堂の課題が重くのしかかってくるだろうと思う。

70年という歴史の中で、私たちの教会でも連絡が取れない方が多くおられる。教籍簿をもう一度、見直し、連絡を取れるようにしたい。

(大森日記))無事に終わった。安堵。教会学校、礼拝、祈り会、幼稚園運営委員会。夕礼拝。)教区総会。園の感染者の報告があり対応。)春の預かり保育が開始と遅れていた年少の終了式。財務委員会。こういうばたばたしている時だから祈り、本を読む。)H幼稚園の理事会、経営の立て直しも出来、処遇改善、新園長を迎えることが出来た。すべて主によって。)まん延防止等措置が解かれたので静岡の福祉会評議員会へ。活動は苦慮しながら前へ。)自己評価委員会でH幼稚園に。よくここまで先生方は頑張ってくださった。)3月締めで忙しく、主日の礼拝の準備が土曜日までずれこんだ。桜が開花。