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それでも風は吹いている 6月5日礼拝

すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。          使徒言行録2:4

わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。                        ヨハネによる福音書14:16~17

【説教要旨】 それでも風は吹いている

昨日はよかったことも、今日は使えないという激しい変化が徐々に日常化してきています。よくIT化というのですが、さっぱり私には分かりませんが、インターネット通信やコンピュータなどで情報を処理して、この使う技術を使いましょうということです。マイナンバー制度は、私たちの個人の情報を処理して、インターネット通信やコンピュータなどで、社会保障、税、災害対策の分野で効率的に情報を管理し、複数の機関が保有する個人の情報が同一人の情報であることを確認するために活用されるということです。近々、昨日まで使えていた保険証が、今日から使えませんという事が起きてくるということです。そういう変化に私たちは追いついていくだけでも大変ですし、追いついていけないところにいるということです。

少し荒い解釈表現ですが国連を中心としてどうにか平和を保って来た世界体制はロシアのウクライナ侵略によって、個人、国家思想によって、もろくも崩れ去ったということです。力、軍事力による世界秩序です。私の友人に石垣島に住んでいる人がいますが、中国の台湾侵攻が現実となり、中国の軍事力の脅威の中を生活を心配しなくてはいけないというところまで追い詰められていると言うのです。ウクライナで起きている悲惨なことが他人事でないということです。スウェーデンは200年続けた中立、非同盟政策を止めてNATOに加入することを決定しました。世界体制が変化していく中で将来どうなるのだろうかと大きな不安、それがどこかで日常に影響し、不安、心の落ち着きを失いつつあります。それに新型コロナウィルス感染が拍車をかけています。

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しかし、今あることは既にあったこと/これからあることも既にあったこと。3:15とコヘレトがいうように世界史を見る時、時々にその現象は変わっていますが、世界が大きく変化するとき起きることです。しかし、ここで変わらないものがあるのです。そして、コヘレトは続けて次のように言います。追いやられたものを、神は尋ね求められる。3:15ということです。

今日は、教会が誕生した日です。使徒たちは、イエス・キリストが天にお帰りなるのを見て、今、イエス・キリストなしで、イエス・キリストの名のもとで集まった使徒、人々、つまりキリスト者の生活が大変化していく中で、きっと大きな不安に襲われたにちがいないと思います。ここに集う人をどう導いていくかということ。しかし、使徒たちの不安をはるかに超えて、追いやられたものを、神は尋ね求められたのです。イエスさまが、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」とお約束されたように、弁護者、聖霊を使徒たちに、私たちに送ってくださったのです。使徒たちはイエス・キリストとの出会いは3年でした。しかし、聖霊は永遠に私たちと一緒にいてくださるのです。大きな不安でいっぱいであった使徒に、集う信徒にイエスさまは、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と約束を永遠に確かなものとするために聖霊を与えたのです。ですから、霊に満たされたペテロは、「『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。  わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。2:17-18」とヨエル書を引用して最初の説教を私たちにします。キリストの名によって集まった人々とは、神の霊を注がれて生きるものであるというのです。聖霊を注がれた者は、今、不安を持ちつつ、たたずみつつ、日々、霊によって支えられ、守られ、 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていたとあるように積極的に聖霊が働きかけて下さり無から天地を創造されたように私たちも創造され、変えられ、希望をもって活き活きとされた者であるのです。あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見るとは、このことを表現したみ言葉です。

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注がれる霊、真理の霊とは、たとえそうでない現実があっても、希望をもって日々を丁寧に歩むことの出来る神の霊、神の力です。教会は神に愛された群れで、聖霊降臨によっって、神の力が動き、平安に被われているのです。

確かに私たちは小さく、時代の嵐の風で吹き飛んでしまうようなもみがらにすぎません。私たちは不安でたまりません。しかし、「14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」とイエスさまは言われます。「世が与えるように与えるのではない」という平安とはどういうものなのでしょうか。世の与える平安とは冒頭に言いました自分たちを捕えている不安、心配、恐れが取り除かれ、再び静かな落ち着きを取り戻した時を平安と言います。しかし、「世が与えるように与えるのではない」という平安は、時代によってうつろう平安でなく、変化しない確かなものです。変化しない確かな平安が私たちに与えられ、聖霊が動き、支えています。

弟子たちは、そこに集う信徒は、聖霊に満たされて大きく変化をしていきました。厳しい時代に合って、初代の教会は絶えず波立ち、揺れ動きましたが、しかし、聖書が私たちに伝えるのは、十字架、復活、主の昇天、聖霊降臨を経験した初代教会は動揺せず宣教をしていきました。彼らが乗り越えて力があったのでなく、弁護者、聖霊が注ぎ、堅固な城壁が私たちを守り、私たちを守っていてくださっているということを信じるならば、14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになるということが起きてきます。現実は不安、心配、恐れが取り囲んでいますが、それでも風・聖霊は吹いています。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

「園児の置き去り ITで防げ」と新聞の見出しに出ていた。「園児の置き去り」は、いつも幼稚園を運営している者にとって危機感があり理解は出来る。「ITで防げ」ということは分かるが、しかし、理解しているかというと理解はしていない。「IT」とは、そもそも何かということである。「読み方は『アイティー』で、Information Technologyを略しています。 日本語では情報技術を指します。 意味は広くインターネット通信やコンピュータなどのことです。 情報処理を目的とする技術全般を指しています。」とありますが、分かったようで分かっていないというのが私である。つまり時代に捨てられていっているということです。園児に端末をつけて、近距離無線で園児のいる所、健康状態の情報を取り、情報処理して園児の安全を守っていくという凸版印刷の技術である。そこまで来たか、追い付いていけないが追い付かなくてはと思う。

 

園長・瞑想?迷走記

教会学校が終わっても、親子で庭に残り、遊んでいる大きな元気な声が礼拝中の会堂まで聞こえてくる。

フランシスコ教皇の講話に、赤ちゃんに洗礼式するときに優しい呼びかけをしている。「一人が声を上げれば-まだコンサートは始まっていませんが-また別の赤ちゃんも声を出すでしょう。赤ちゃんが声を出しても騒いでも、でんと構えていてください。声を出して騒いでも、そのままでいいのです。・・・・・・・・・・・・・・・去年もわたしはいいました。『合唱団』のようなものです。だれかが『歌い』始めたらもう、ほかの赤ちゃんが続き、コンサートが始まります。ピリピリしないでいいのです。聖堂で赤ちゃんが声を出す-、それはもう、美しい説教です。」

私たちにとって合唱であり、美しい説教であるという外から聞こえてくる元気な声は、礼拝を豊かにする。教会学校が継続しここまで来て、親と子の声を聞ける恵みに感謝したい。これからも教会学校を大切にしていきたい。

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日毎の糧

聖書:8:5 そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなので

しょう/あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。10 主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。  詩編8:5-10

ルターの言葉から

    詩編の作者は、ここで王の装いについて述べています。王としての冠をかぶったキリストは、この装いでもって、この世でも、来るべき世でも栄光を受けられます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・王であるキリストは、世の王と同じ様に、肉のからだを飾るだけでなく、私たちのために、霊のからだ、すなわち教会をも飾ってくださいます。福音宣教を通して教会を集め、聖霊によって飾ってくださるのです。・・・・・・・・・復活後、主は栄光と誉れを受け、多くのキリスト者の群れが地上で主に従うのです。そして、これこそ、主がこの世で冠を受ける美しい装いとなるのです。           1537年の説教から                                                 『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

神の力は満ちている

 私たちは今の世界の状況を見る時、決して神の力は見えてこない。しかし、詩人は打ち続く苦しい歴史の中でも、「あなたの御名は、いかに力強く」と詠います。「あなたの御名」とは、神の臨在です。神がこの苦しい歴史の中におられるのです。私たちは、世の力の支配にありません。すべての力をうちくだく神の力に私たちは支配されているのです。人の目からみれば、たとえそうでなくても、神の力は全地に満ちているという目こそ信仰の目であり、厳しい世界であっても希望をもって歩む力です。

祈り:神の聖霊の力に満たされていることを信じる目をお与えください。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」22

        教会は時代を生きている

 大森、別府、刈谷の教会も礼拝堂の椅子にはラワン材が使われている。別名南洋材と言われ、合板の発展を支え、昭和6年からラワン材が使われた。しかし、乱伐採のため今は輸入量が減っている。

私が中学の技術家庭科(昭和40年代)に使われた教材はラワン材であった。大きな材料が手に入れ易く、加工し易いので、家具に使われた。本立ての制作に使った記憶がある。

別府時代ラワン材は虫が出やすく木が侵食され、食べかすの粉が出るのに困った。聞くとこれはキクイムシだという。駆除した記憶がある。大森教会もキクイムシの被害あった。食われると材木がかすかすになってしまう。ラワン材、キクイ虫と付き合いだして感じることは、輸入木材の背景には日本の歴史があり、教会もこの歴史と繋がっている。戦前の教会の椅子などは、ラワン材は使われておらず、戦後、ラワン材は教会の家具に使われた。

床材、フローリングには、刈谷教会は桜、大森教会は旧館は無垢の檜?、新館はコルク材が使用されている。別府教会、小鹿教会は土足、建て直した刈谷教会も土足にした。土足に変わったのは、道路が舗装され掃除がし易くなり、人の生活が西洋化された、障碍をもった方が入りやすくするためなどが要因だと思う。これも時代を反映している。                                               教会は時代を生きていることがちょっとしたことからも分かる。

(参照:日本福音ルーテル教会百年史」、to-morrow 日本福音ルーテル東教区 )

(大森日記))今日も教会学校を終えた子ども、保護者が庭で遊び、元気な遊び声がコーラスとなって聞こえてくる幸いを感謝。信徒会、幼稚園の今と将来を話す。)本部に支払い、支援金を届けに市ヶ谷。そして聖餐のパン・ホスチアを購入に四谷に、銀座教文館で聖研、教会学校の準備の本を購入に行く。)労務管理の打ち合わせにH幼稚園へ。)午後からH幼稚園の魂の配慮者チャプレンと打ち合わせに。)花の移植、剪定、夜は聖書の学び。)明日は納骨式があり、主日の準備、役員会準備をしておきたい。雨が降る前に家庭訪問し、総会資料を配布していく。久しぶりの信徒の交流は力づけられる。雷雨。)納骨式。晴天。