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「成長させてくださるのは神である」 2月12日礼拝

20あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。  申命記30:20

 7ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。 8植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。 9わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。                          Ⅰコリントの信徒への手紙3:7~9

36また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。           マタイによる福音書5:36

 

【説教要旨】  成長させてくださるのは神である

羽村市幼稚園連合の教諭、職員の研修に講師である柴田愛子先生が「子どもはぐんぐん育っていく力があって先生方が育ていくなんて僅かなものですよ」という趣旨の話をされました。

パウロが生きた社会はローマに支配された時代であり、パウロ自身ローマの市民権をもっていました。「教育史」を書かれた村井実先生は、ローマの教育は子どもを善くするということであると話され、「子どもたち自身にとってはどうか。子どもたちは、あたかも土器が制作される場合のように、あらかじめ定められた出来上がりに向けて作り上げられていくわけである。それで必ずしも悪いわけもないかもしれない。だが、そうして作り上げられることを好まない子どもたちは出現しないだろうか。そうした子どもたちはどうなるのだろうか。もちろん、教育を行う側からすれば、子どもたちの責任であり、要するにダメな子どもだということになる。」ということも指摘されていた。パウロもこういうローマ社会が支配された世界で、ユダ教の律法を守り、ユダヤ教にとって良い人として、育っていくのです。彼は時代に応えたエリートのエリートとなっていきました。「さらにもう一つの大きな問題が生ずる。それは、この教育に、国家、君主あるいは社会の支配権力が介入してくる場合は、目標としての『善さ』は、当然にその介入した支配権力の関心と利害にしたがって決定されることが避けられない」と村井先生はもう一つの課題点を指摘しています。ユダヤ教を中心とするユダヤ社会にとって、最初はユダヤ教の分派と思われたキリスト教は、ユダヤ教と違い、危険なものと支配権力は気づきだし、迫害を始めました。当然、善い人であったパウロはキリスト教を迫害する熱心な人となりました。なぜなら、ユダヤ教にとって、生まれたばかりのキリスト教はダメものであり排除されていくべきものなのです

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しかし、パウロはキリスト出会うことによって、自分はこのように変わったとフィリピの人に手紙を書きます。

3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。

では、キリストを知って変わったパウロを動かしたものはなんなのでしょうか。キリストを得、 3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

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信仰義認ということです。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない私たちであるが、その私たちを神は愛し、守ってくださり、育ててくださる神が働かれて「である」という者に変えられたということにパウロは気づくのです。神は、私たちに必ず働かれ、髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない私たちであっても、わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。カトリック教会と「義認の教理に関する共同宣言」で、「われわれは共に告白する。われわれは、われわれの側にいかなる功績によってでもなく、恵みによってのみ、キリストの救いの御業への信仰において、神に受け入れられ、聖霊を受ける。この聖霊がわれわれの心を新たにし、それによってよい行いへとわれわれに力を与え、召し出す」、神の力、恵み、聖霊によって、「である」存在とへと私たちはあるのです。

「である」という存在に変えられた私たちは、信仰において、神に受け入れられ、聖霊を受ける。この聖霊がわれわれの心を新たにし、それによってよい行いへとわれわれに力を与え、召し出され、わたしたちは神のために力を合わせて働く者とされています。柴田先生は、善い子ども、善い教育者、保育者になれとは言われず、私たちが出来る僅かなこととは、子どもに寄り添うこと、そして幼稚園・保育園に子どもたちが人生に挫折し、苦難に直面したときに帰る場所、避けどころとなることですという趣旨をいわれたことを聞きながら、これこそがパウロがわたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさではないかと思いました。あなたがたは神の畑、神の建物なのですという私たちは、隣人に寄り添いつつ、命を提供していく畑であり、いつでも人がつまずいた時、苦しい時、帰ってくる、避けどころ神の建物とされ、あるとすばらしい恵みに生き、まさによい行いと向かわせてくださいます。

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牧師室の小窓からのぞいてみると 

社会には色々な考え、思いがあっても良い。しかし、そ朝、5のとき、自分がどこにいるかということを強く認識しないといけない。今回の同性婚を巡って「隣に住んでいるのもちょと嫌だ」という荒井秘書官の言葉は、「多様性を認める包括社会」を目指す首相の言葉とは乖離し、秘書官が首相を窮地に追いやるという本末転倒になってしまっている。

その責任にあるものは、時には自分が思っていることと違うことが多々ある。責任にある自分が自分自身に問い、きつく辛いが自分自身を変えていくことが責任ある立場の人だと思う。イエスの弟子たちは彼らの今まで生きてきた社会の仕組みの中で、その仕組みと違うイエスの教えを伝えるという責任の中で、イエスに「サタンよ、引き下がれ」と叱られ、自分自身を変える辛く、しんどい自己変革の作業をした。

 

       園長・瞑想?迷走記

2月は2022年度の結びと2023年度の方針、具体的な計画を立てていかなければならず園長は忙しくなる。

いつものことだが、いつものように神経を使い疲れるのが正直なところである。それに加えて、子どもを取りまく環境も激的に変化する中で、毎年変わる制度変更があり、これに追いつき処理していくだけでも大変である。園長の仕事とはそんなものである。

とくに牧師を兼ねる園長は、2月は教会総会期でさらに神経を使い、厳しい時期となる。幼稚園を円滑に運営するためには、幼稚園・事務を園長が実務をするのでなく、裁可していくような当たり前といえば当たり前のシステムを作っていかなければならない。それを少しでも軽減するために小さな幼稚園であるが、事務職を整えてきた。

だが、小さな幼稚園の現状は、経済的なことから園長が事務をしている。日々、社会の制度が変化する中では、保育者を整えると同様に事務職を整えていくことが園長の重要な仕事だと頭を切り替えていくことだと思う。事務が円滑にいくことによって、教育保育も円滑に出来ると思う。

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日毎の糧

聖書:32:8 わたしはあなたを目覚めさせ/行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。                                      詩編32:8

 

ルターの言葉から

 見よ。これは十字架の道である。これをあなたは見いだすことができない。しかしわたしは、目の見えないあなたを導く。だからあなた自身によってでもなく、人間あるいは被造物によってでもなく、わたしのことばとみ霊によって、あなたの歩むべき道を教える。あなたは自分の選んだ仕事に従事せよ。苦しみは、あなたが意図したものではなく、あなたの選択、思い、計画に反して来るものである。わたしがあなたを召すのはその所である。そこでは、あなたは聖徒でなければならない。それには時がある。あなたの主は、そこであなたのもとを訪ねる。              『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社)

人間中心を捨てて

 現代社会は自己が中心の人間中心の社会です。知らず知らずの内に自分にとって、それは良いかどうか。そして、ここで決めたことをSNSなどで、それを標準化し、力となって一人一人の言葉、行動を決めていく。それは現代を生きる信仰者とていつの間にか自己中心となっていきます。気づくと自己中心の生き方が私たちの教会の中にも入り込んでいくように思います。多様性と言いながらもこれが正しい、間違っていると排除していく思考が見られます。

そんなときルターの言葉は私たちを振り返らせてくれのではないでしょうか。

見よ。これは十字架の道である。これをあなたは見いだすことができない。しかしわたしは、目の見えないあなたを導く。だからあなた自身によってでもなく、人間あるいは被造物によってでもなく、わたしのことばとみ霊によって、あなたの歩むべき道を教える。

生活をどう整えていくかさっぱり分からない日々を生きている。こういう時代だからこそ神によって目覚めさせられたいと思います。

祈り:神よ、あなたに目覚めさせられる日々でありますように。

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大森通信

「引退の準備」

伝道45年  総会資料Ⅴ 別帳

 教会の統計表を本部に送る。その中に信徒の数を報告する。大森教会は181名の信徒がおられる。ここで現在把握できる方は、地方に住まわれている方を含め55名で、教会とまったくかかわりがないか、把握できない別帳会員が126名いらっしゃる。それは私たちの教会ばかりでなく、教会の歴史が長い教会ほど別帳会員が多い。

今から45年前の別府教会は、まだ30年にも満たない歴史しかなかったが、別帳会員としばらく教会に来られていない方がおられた。そこで、教会員に聞きながら、住所の分かる方を訪問した。そこにはそれぞれの事情があることが分かった。教会に失望した方、キリスト教の信仰を捨てたという方、結婚と同時に主人がクリスチャンでないので、離れていった方、色々な事情をかかえておられることを知った。結論はいつでも帰って来られるように教会があり続けることだと思った。良い経験をしたと思う。

また、教会に来られなくなって久しい方は訪問、手紙を出すことにしている。困りますという意思表示がない限り手紙は出している。それぞれがそれぞれにイエスさまに導かれて洗礼を受けたのだからその恵みを大切にして応えていくのが教会の役割だと思う。ふとしたことで教会へ帰ってこられた方はいる。その一人にお子さんが牧師になられている方もいる。

同じ洗礼をいただいた主にある兄弟姉妹として結びついていきたい。その為にも教会はあり続けなければいけない。

(大森日記))教会総会の準備もみなさんが整えてくださる。感謝。一歩も外に出ない。)牧師としては実質、最後の教会総会。ただ次へと継続させていく牧師招聘のみ。夕礼拝は必要とされる方々が出席される。)今週もzoomでの会議。誰がこういうことを予想しただろうか。)門に立ち保護者の何気ない悩みを聞く。)H幼稚園の礼拝を終わり、帰宅して少子の時代の一歩を踏み出した大田区園長会。)聖書の学びに多くの方が参加された。T兄のお母さんの召天。主の慰めを。)朝、雪がちらつく。子どもたちのためにも降って積もって欲しいが残念な結果。