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「安心の場」 12月26日

イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。    ルカによる福音書2:52

【説教要旨】

 マタイによる福音書では、ヘロデ王の虐殺を逃れてエジプトへ退避し、そしてナザレの帰還まで記していますが、イエスさまの少年時代の物語を書いたものは、ルカによる福音書だけです。

 「イエスは知恵が増し、背丈も伸び」と少年イエスの記事の結びにあるように、マタイが記したようにヘロデ王の虐殺を逃れてエジプトへ退避し、そしてナザレの帰還の物語から私たちが知ることは、イエスさまが、誕生以前から人生の危機がいつもあったということです。危機であり試練に出合われたということです。

 ◆エジプトから帰国する

 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。マタイによる福音書2:19―23

 イエスさまはいつ殺されるかもしれない恐れの中を生きなければなりませんでした。「ガリラヤ地方に引きこもり」とあるように恐れつつ息をひそめて生きざるを得ませんでした。危機、試練の生活を生きたのです。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。ヨハネによる福音書1:14」とあるように、「言」とはイエスさまです。「宿られた。」とは、天幕を張る、つまり私たちの生活の只中におられたということです。それが、「わたしたちの間に宿られた。」ということです。イエスさまは私たちが営む生活の中におられ、生まれる前から、少年時代、成人時代と危機、試練を受けられたのです。

 2021年も新型コロナウィルス感染拡大の第5波で私たちは命の危機と向かい合いました。幼稚園の卒園児の祖母、身近な方が新型コロナウィルス感染で、天に召されるということを経験しました。まだ、引き続きクリスマス・イブの礼拝に見られるように、諸集会は出席者を制限、出来ない状況にあります。基礎疾患を持たれている方は礼拝に出席出来ずオンラインで出席ということ、新型コロナ対策のために保育内容変更、改善、日々の感染予防など緊張の中で幼稚園は神経をすり減らしています。まさに、イエスさまの家族のようにそこに行くことを恐れ、引きこもった日々でした。

 その中で社会はすごいスピードで大きく変化していきました。技術革新は確かにオンライン礼拝、授業、テレワークなど可能にしていきましたが、一方、人と人が関われない疎外感が私たちを追いつめています。また地球温暖化は身近な生活を脅かして、私たちを追いつめています。そこに行くことを恐れ、引きこもるという不安と苦しみにいます。 「あなたのいばしょ」という相談チャットを立ち上げた慶応大学4年生の大空幸星さんのホームページによると「2020年の自殺者数は2万1081人と、11年ぶりに増加に転じた。特に深刻なのが若年層で、小中高生では前年比160人増の499人と、過去最多を記録した。大空たちは、若者たちの命がけの訴えに、日々向き合っている。」とあります。彼は時代の大きな変化の中で疎外された人と向きい合いながら、大きな変化の技術を利用して寄り添っています。

 確かに私たちは新型コロナウィルス感染拡大の中で恐れ、引きこもるという生活がありました。

 しかし、「イエスは知恵が増し、背丈も伸び」とあるように生かされている私たちがいるということも事実です。恐れ、引きこもりつつも、危機と試練があります。私たちは世にいう「よい」ときのみを是とし、好みそうでないとき恐れ、引きこもりがちです。しかし、神は私たちを守ってくださっています。これは事実であり、真実です。

「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」

私たちは、穀物に対して最も多くの世話をした者であり、もし、私たちが働かなかったら、神は与えることがおできにならなかったとでも言うがごとく振舞って、私たち自身をしばってしまい神の真実を見失ってはいけません。

 「人に愛された。」。具体的にはまずは父ヨセフ、母マリアです。 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。 それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。と幼い時から、またさて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をしたと少年になって、神のもとで危機の時こそかけがえのない神と向かい合い、健やかに育つようにイエスさまを神のもとに連れてゆき、愛されました。 

「人に愛された。」ということです。弱い人に寄り添っていく人が私たちの側にいるということです。いや、神が遣わしてくださっているという人がいるのです。私たちは疎外されていないし、孤独ではないのです。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」、イエスさまは誕生以来、いつも命に危機と試練がありました。しかし、知恵が増し、背丈も伸びと成長にいたるまで、神ご自身が、また神は人を用いて、神の力が働かれていたのです。ルターが言うように「麦畑を見るとき、私たちは神の宝ばかりではなく、神の力を知る」ということとが私たちに与えられています。

2021年も危機を生き、まだしばらく私たちの危機と試練は続くでしょうが、「神と人とに愛された。」者として、神の力が働いています。神と人の愛の安心の場こそが私たちの生活の場です。

私たちは「人に愛された。」ということを隣人に伝えるために、私たちは幼稚園児事業、東日本大震災の子ども支援、フェアトレード、古着支援、カトリックのフードバンクの協力など行ってきました。大空幸星さんのような安心な場をもてるように次へのと一歩を踏み出せるという夢を持ちたいですね。

牧師室の小窓からのぞいてみると

「お客様へ安く売る事だけが人生でした」という池袋の眼鏡屋さんがが閉店するという新聞記事があった。

「手間暇をかけるのは『商品を売るのが目的というよりは、だんだんと自分が楽しくなっていったて・・・』。仕事というものは、手間暇をかけて自分が楽しくなっていくことだが、しかし、時代はそれを奪っていっている。「『もう問屋は必要ないんだよ。一つの時代の終焉だね』と、○○ペイといった決済方法も多様化。『時代はとんでもなく変わった。もうついていけない』」

私たちは技術の革新、物流の革新、金融の革新によって、とんでもなく変化させた。しかし、それは人が生きていくのに楽しくするかというと、人を排除する。「もうついていけない」と疎外感を生み出す。

 では、教会はどうあるべきだろうか。教会自身も「時代はとんでもなく変わった。もうついていけない」という課題を内にもっていうと思う。しかし、聖書はその歴史の連続である。聖書はここに神は働いているという記述、-聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」-です。いまは、目を覚まして忍耐の時だと思う。

 

    園長・瞑想?迷走記

 13年前、就任したとき、幼稚園が預かり保育をしていることに驚いた。それから13年、預かり保育時間が長時間になり、朝の保育が始まり、十人もいなっかた預かりの園児が、今は88名中46名となった。先生は1名から3名となった。「時代はとんでもなく変わった。」ということを実感している。それは子どもたちが置かれている環境もとんでもなく変わっているということである。

 とんでもなく変わっている中で、では子どもたちがすくすく健康に生活できるために私たちはどのような教育・保育をしていくかたを考えなければならない。大きな挑戦だと思っている。

日毎の糧-ルターからの言葉

聖書:1コリント3:10~17  詩篇147:12-20 

147:14 あなたの国境に平和を置き/あなたを最良の麦に飽かせてください。   詩編147:14

神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿です。1コリント3:17

ルターの言葉から

 麦畑を見るとき、私たちは神の宝ばかりではなく神の力を知り、このように思うべきある。  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 だが、残念なことに、私たちは、このような神の恵みや力を、それにふさわしいように受けとめていない。私たちは、穀物に対して最も多くの世話をした者であり、もし、私たちが働かなかったら、神は与えることがおできにならなかったとでも言うように。なぜ、私たちは、神がパンを与えてくださるように願わないのであろう。私たちは自分自身でそれを行おうとしたり、自分で器用に仕事をすることによって得ようとせずに、神のみに願い、待ち望まなければならない。                                                               (『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館)

私たちをあなたに目覚めさてください

 私たちは、大変な時代にいます。だからこそ、私たちの目を目覚めさせ、私たちは真実なものに目を向けていくことが大切です。

 今ある恵まれた私たちは、私たちが一人で築いてものであるというように思って振舞っていませんか。

 しかし、私が今あるのは、イエス・キリストの土台の上にあって、私たちはあることに目を覚まして、見ていきたいのです。

 確かにこの二年間は新型コロナ感染で土台が揺り動かされた不安定な日々でした。しかし、わたしたちは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えましたというパウロの言葉のように私たちの土台に目を覚ましてみてください。大丈夫です。

祈り)神のみに願い、待ち望む者とされますように、私たちを目覚めさせてください。

 

大森通信

「大森ルーテル教会70年史」8

 牧師交換-個と全体

「『もう一息でその体制になると思っています。』というところまできた。 先生ご自身も『大森教会ももっともっとやるべきことがあり』と言われているようにその思いが強かったが、教会本部は先生を大森だけに置いておくことをせず宣教方策『パワーミッション21』の立案、実行の責任者として招聘した。

 先生の転任に対して大森教会は教会態勢が整いこれからと期待していた時期だったことからこそ強く反対したが、一年の延期の後、教会本部の方針で強く人事がなされたことは極めて遺憾なことだったことを付記しておきたい。」と一文を加えて欲しいと強く委員の方が言われたことが強く心に残る。個の教会のために、また全体のためということの鬩ぎ合いの中で人事が起こる。「もし」ということが許されるなら、個の私たちの教会の思いが貫かれていたら教会は大きく変わっていたかもしれないと思う。でも、歴史というものは、「もし」ということが許されず事実のみがある。だから、一日一に起こる事実に真剣に向かい合い、取り組んでいかなければいけないと思う。時時にあって神のなさることは分からないということに委ねていくのも歴史を生きることだと思う。 

(大森日記))今年もコロナ感染予防のためにクリスマス礼拝だけで祝会はなしでプレゼントを渡すだけにした。いつもよりも出席者は少なかった。夕礼拝は一家族が出席。共にクリスマスを祝う。電飾の補正をする。)長期預かりが始まる。毎朝の礼拝から開始する。)スケジュールを勘違いをしたおかげでイブ礼拝の準備が出来た。)スケジュールの勘違いから今日は羽村、静岡となる。これも神様の御用です。)春花壇にむけて庭にパンジーを植える。また、保護者の方が電飾の補正を手伝ってくださる。)イブ礼拝準備の最終チェック。礼拝は昨年より少し増える。ZOOM参加者もあった。守れただけでも感謝。