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「クリスマスー神の愛」 待降節第4主日  12月24日

待降節第4主日          2023年12月24日

マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 35天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで天使は去って行った。 ルカによる福音書1:34-37

 

【説教要旨】       「クリスマス-神の愛」

大森ルーテル幼稚園の子どもと先生はよく対話をします。一方的に先生が話すのでなく、子どもたちが起こす色々な出来事を通して、子どもと先生がとことん話し合います。互いに話を交し合うということは、今の時代は時間の無駄のように思えるかもしれません。しかし、話を交し合うということは、そこに人と人との温もりを感じ、互いが何かを知り合うことができる大切な時間ではないでしょうか。先日、落合陽一氏のNHKの番組で、人と交わることに興味のなかった彼が、進化が目まぐるしいAI・人工知能の技術を使って人とテクノロジーを結ぼうとし、結局は人との交わりを大切にし、生徒と会話、対話をしている姿が映し出されました。

クリスマスの物語を読んで見ますと対話が繰り返されていることが分かります。ザカリアと天使、マリアと天使、エリサべトとマリア、と。とくに神との対話です。天使を通してのマリア、ザカリアの神との対話は、神の人に対する温もりを感じてきます。二人のありのままの姿を包み込みながら、人間の持つ疑問に対して、神の答えを出されます。

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二人に新しい命の誕生を神は知らせますが、二人はなかなか受け入れることができません。ザカリアは、老いの持つ限界があったのです。「私は老人ですし、妻も年をとっています。」と言います。人にとってそれは決して起きえない出来事です。老いた者が、新しい命があたえられるなど、人間の世界からするならまったく別の次元であり、若いマリアのように「どうして、そのようなことがありましょうか。私は男の人を知りませんのに」となるのです。神は、私たちに新しい命を与えてくださる。私たちを心から喜びに満たし、私たちを根源から支えてくださる出来事として起してくださる。しかし、私たちは、マリアに起こったようなイエス誕生の出来事をにわかに信じることが出来ないです。人間の常識的限界だけを言っているのでなく、神が働いておられることを信じ切れない人間の信仰の限界を教えてくれています。ザカリアに対しては、「私の言葉を信じなかった。」という神の言葉で対話が終わったように。

信じ切れない私たちを神は、マリアとの対話において、一つのことに導こうとしていることが分かります。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」ということ。幸いを受け容れていくことへと導こうとしている神の温もりを感じます。マリアが、優れていたからであるということではないのです。むしろ、「身分の低い、この主のはしため」とありますように、むしろ低いものです。しかし、この低い者を神は優しく、身分の低い者を導き、神の愛の恵みの確かさを示し、与え給うのです。マリアは、「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです」と告白します。そう「目を留めてくださった」のです。神の愛が示されたのです。

神の大きな愛によって、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」という自分の全てを受け入れる告白へと導かれたマリアは、自分を委ねていくことができたのです。マリアの信仰の姿勢を「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」とエリサべトの言葉となり、「幸い」であるマリアがイエスさまの誕生と共に生まれてくるのです。「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです」とありますようにこの神の愛と憐れみによってマリアがあり、私たちがあるということです。神との対話を通して私たちが知りえるのは、神の確かさ、つまり私たちへの愛と憐れみであります。ザカリアにもその憐れみの確かさを示し、主は今こそ、わたしに目を留めたことを知らせます。答えをくださいます。

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私たちと神さまの対話を通して語れ、いつも目を留めていてくださる。そして私たちに愛と憐れみ、神の愛、神の確かさを示してくださるのです。「マリアの幸い」は、この神の言葉に対して、神の愛と憐れみに対して心を開き、信じたことです。私たちも「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じ」、神に心を開きたいのです。信じたものだけが味わいえるものは、私たちの人生を最初から終わりまで「幸い」なる時を歩むという信仰の喜びです。神の愛と憐みによって神の愛を信じることの限界を打ち破ってくださいます。神の言葉、神の確かさに自分を開き、信じる、人の幸いを確かなものとします。

今日、南野希さんが洗礼を受けます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」とマリアの言葉のように洗礼を自分の意思で決めました。これから時代は大きく変化し、大変な時代を生きていきます。しかし、神の愛と憐みは降り注ぎ、私たちの限界を越えさせてくださいます。「神にできないことは何一つない。」という神の確かさが、神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになりますという出来事が起きます。洗礼名エステルです。幾つもの危機を乗り切り多くの命を救ったエステルのように神は創ってくださいます。クリスマス、キリスト・イエスの誕生、神の愛と憐みの命が現れ、新しく創造されていく出来事です。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

郵便料金が値上げになる。郵便物を出す教会にとって痛手である。その原因を「郵便料金の大幅な値上げに踏み切るのは、各種手続きのデジタル化やSNS(ネット交流サービス)の普及によって郵便物数が毎年減少し、郵便事業の収益が悪化しているためだ。」という。

これを違う面からみるとパソコンによるデータ化を可能にし、紙でファイル管理するのでなく、パソコンで管理して、日々の手紙さえデータ管理が出来るようになってきたということではないだろうか。データ管理することによって、各種手続きのデジタル化やSNSによって、いっきにわずかな時間で、手紙、書類を全世界に送れるようになった。ここには、人間の温かみは感じられなくなってくるかもしれないが便利になってきたということである。データが優先し、人という存在に代わっていく世界は近いのかもしれないが、これを使う主体は人である。

 

  園長・瞑想?迷走記  

預かり保育の子どもたちが増えてきました。ここには、多くのメリットもあります。クラスも設けず園全体で異なった年齢の子どもたちが同じ場所で遊び、食事をし、生活を共にする縦割り保育が行われています。

少子化の中で兄弟が減っています。そこで年上、年下の子どもと交わります。互いに相手を意識し、労り合い、思いやりが生まれます。小さな子どもは年上の子どもから多くの刺激を受けて、真似をして、さまざまなことを学んでいきます。そして、社会性や協調性が生まれてきます。

年少さんの担任が、2学期の振り返りで、「いままでの子どもたちよりも色々なことが出来ることが多くなった。」「これは、預かり保育の子どもが増えてきたからだ。」と言っていました。

縦割り保育を通常保育でもさらに入れていくこと、預かり保育の質の向上が求められているように思います。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな子どもとなるように願って。

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日毎の糧

聖書:マリアの賛歌

そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。        ルカによる福音書1:46―50

ルターの言葉から   

 マリヤはその汚れなき処女性でなく、そのいやしい身の上に こそ光栄を感じているのであるという人々は、マリヤを誤解していています。マリヤはそのどちらをも誇りとしませんでした。ただ神の恵みにあふれる顧みを誇ったのでした。「卑しさ」ではなく、「神が心にかけてくださった」というところが強調されねばならないのです。ほめたたえられるべきものは、かの女の「卑しさ」ではなく、神の顧みだったのです。

     「クリスマスブック」 マルティン・ルターR・ベイントン編/中村妙子訳

神が心にかけてくださった

 羊飼いは野宿し、三人の博士は砂漠を歩む。社会から遮断されたところに神は来られる。羊飼いには天使を遣わし、三人の博士には星の導きを与えられた。

ルターが「『神が心にかけてくださった』というところが強調されねばならないのです。ほめたたえられるべきものは、かの女の『卑しさ』ではなく、神の顧みだったのです。」というように羊飼い、三人の博士に起きたことは神が心にかけてくださった神の顧みだったのです。この出来事は私たちの内にも起きているのです。激変する時代にあって、翻弄されていくでしょうが、神が心にかけてくださいます。安心して新しい年を迎えましょう。大丈夫です。

祈り:クリスマスのとき、もう一度、私のうちに神が心にかけてくださった神の顧みを思い起こすができますように。

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大森通信

8.日々  

クリスマスは父が買ってきてくれるケーキを食べる日。初めてのケーキの味は忘れられない。次にクリスマスツリーなるものがあると知り、裏山の杉の木を切って、サンタのオブジェを飾った。むろん電飾などない。クリスマスは、12月の新しい楽しい年末行事が増えたにすぎないと幼心に思っていた。クリスマスがイエス・キリストの誕生の日とはもっともっと後で知った。教会と縁のない者の普通の昔の認識ではなかっただろうか。

”Xmas”というクリスマスの時にみるこの言葉は何なのだろうか思うようになった。X=Christus(英語:Christ)キリスト+mass:英語:mas(ミサ、礼拝、祭礼)を表し、ギリシャ語で「キリスト」を表すΧριστός(クリストス)の頭文字「X」を取ったことが由来であることはもっと後に知る

何か分からないが、いつの間にかクリスマスは日本人の年末の行事になってしまった。そして商業主義にのって、ますます広がった。ちなみに日本での最初のサンタクロースは紋付き袴姿で銀座のデパートに出現した。こういうことを土着化、世俗化と言うことばであらわす。

芥川龍之介がいうように「日本は沼である。外から入ったものをまったく違うものに腐らせる」。クリスマスも教会とはまたく違うものが日本に土着化した。

大森日記)4年ぶりのお父さんの交流会の仕事会。互いに知り合う機会をこれからも作っていきたい。)クリスマスの準備をし、近所の信徒さんにクリスマス・カードを持って行く。さっそく返信のメールをいただく。)今日も多くの信徒さんに支えられていると実感。)年末も近づき、確認のために会計書類を夜中にひっくり返し調べる。説明できるように処理されていた。)会計処理の説明し、今後について事務員に報告する。手書きで一言を記入の卒園児へのクリスマス・カード書きが始まる木)一日、卒園児へのクリスマス・カードの一言。中学生まで書き終える。寒波到来。)小学校生への一言書きが始まる。会計の事務処理を事務担当者らと打ち合わせ。洗礼式の準備、財務委員会。聖俗が混在の一日。混在するがここに神の働きは貫かれていると感じる。