1. HOME
  2. 風のように
  3. 「イエスの宣教」 聖霊降臨後第3主日(6月18日)

「イエスの宣教」 聖霊降臨後第3主日(6月18日)

イエスは町や村を残らず回って・・・ マタイ福音書9:35

【説教要旨】「イエスの宣教」

今日のみ言葉に「イエスは町や村を残らず回って・・」とあります。「残らず」というみ言葉には、イエスさまの、神さまのあふれんばかりの私たちへの恵みを感じます。イエスさまの溢れんばかりの恵みの内に私たちは生かされています。マタイは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」とイエスさまの言葉を伝えています。「主は恵み深く、慈しみに満ち」という主、神が与えた律法です。「主は恵み深く、慈しみに満ち」たことを完成させるために来られたという事です。イエスさまは、主の恵み深く、慈しみに満ちた溢れんばかりの恵みを伝えるということが、イエスは町や村を残らず回って・・ということばの気持ちです。

イエスは町や村を残らず回って・・」という言葉を私は聞くと、ブラジルの諸先輩の伝道者を思い出します。

「馬の歩く速度は、一時間平均8キロ半から10キロとして、チェテ入植地からアリアンサ入植地までの司牧地50キロは約6時間かかる。途中、豪雨に合う時もある。大風に遭う時もあるが、・・・・途中は殆ど原始林で、ただ一本の赤土の細道が、前方に限りなく続くだけで、何にもない。人家もない。・・・・讃美歌を大声はりあげて歌うが、誰一人文句を言う者はない。」あるいは、伝道に数人で出たときの体験を記している。その結びに「このようにして、月曜日に家を出て、馬で巡回、金曜日に帰る。土曜日に説教の準備をし、日曜日を迎える。また、月曜に家を出る・・・と、いのうのが常々の慣わしになっていたものである。」このような伝道に対する意欲、情熱は、溢れんばかりのイエスさまの恵み深く、慈しみが与えられていたからだと思います。

-1-

パウロは、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」とか「神はわたしたちに対する愛を示されました。」と表現しています。

「神は理屈なしに、天の栄光を捨て、地上に来て、我々の中に訪れ給うた。ここに愛がある。・・・神はすごい。人を愛して愛して。理屈ぬきで、その栄光を捨てた。そこに愛がある。この神こそ、俺の神である。大発見であった。これから俺の人生に、大変化が始まったのである」

ここに、主のみ心の「イエスは町や村を残らず回って・・」という奇跡が起きてくるのです。

マタイが感じたようにイエスが私たちにも恵みと慈しみを授け、宣教を望まれているのです。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」とありますように、イエスさまによって弟子と同じ仕事をしなさいと招かれておられるのです。しかし、私たちは本当の意味でイエスの思いのようになっていない現実があり、そういう自分がいます。そういう教会があります。しかし、にもかかわらずイエスさまは、「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」という権能をだらしない私たちに与え、恵み深く、慈しみをもって呼びかけています。イエスさまの呼びかけに応えようとしているのが、私たちであり、教会です。今、イエスさまが授けてくださった権能を畏れつつ受けているのです。

「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」とイエスさまのこの心を自分のものとされ、この地にあって「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」方々にイエスさまの心を届けるのが宣教です。「憐れむ」とは上から下を憐憫するということではありません。よく北森牧師が使うのですが、「はらわた痛む」ということです。人のことを思うと「はらわたが痛む」ほど人に共感するということです。イエスさまが私たちになさったように、私たちもそのように招かれて、なることが出来るということが権能をお授けになるということです。教会が自分のことばかりでなく、一人一人の心に痛みを感じ、自分のものとしていくということとなるということです。

-2-

現代の時代、凄い速さで大きく社会は変化にあり、生き辛くなって、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれています。これを見ておられるのは主イエス・キリストです。そして「深く憐れまれた」のも主イエス・キリストです。

主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。               詩篇100:5

凄い速さで大きく社会が変化する中にあって、生き辛くなり、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている私たちと共にいてくださいます。イエスさまは、町や村を残らず回って・・ということがあなたがたには出来ると、イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであったと私たちをしてくださっています。私たちが、礼拝に50名の人をと目指しているのは、私たちがイエスの心である「深く憐れまれた。」という心、聖書の心-主は恵み深く、慈しみに満ち-を一人でも多くの人々に伝えたいからです。愛の光を輝かせたいのです。一緒に愛の光を発するために、教会が伝道するために一人でなく、イエスさまが12人を選ばれたように、今、ここに集う私たちを選び、共に伝道することを私たちに願われ、招かれています。どうかこのイエスさまのみ心を私たちの心とする営みを共に続けていきましょう。

-3-

牧師室の小窓からのぞいてみると

先日、教会の代表の方から私の後任ついて教会の責任者の方とお話をしたという電話が入りました。引退がやっての声きたことを実感した一瞬でした。

引退後も学び続けたと思っていましたし、やりたいと思っていたことを一時中断していたことの知識、必要な資格を身に着ける学びをと思っていました。ブラジルにいるときに整体鍼灸師さんに助けられ、漢方のすばらしさ、経絡による癒しを体験したことからこれを学び直そうと思い立って調べると資格取得まで最低3年以上、経費は400万円を超えると分かり、年齢・経費を考えると無理だと分かりました。さて、どうするかというと今は誰でも憩える喫茶店、夜はスナックをしたいと希望がありますが、これも経費の課題があります。

先日、心理学の大学院に入りませんかと言うお誘いも受けました。児童心理学をやってみたいというのも昔からの夢でしたから。

老人は夢を見、悩むということかもしれません。楽しいことをしたいと思っています。

 

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

園長・瞑想?迷走記 

 今年は、卒園生を招いての幼稚園だけでのフェスタで、保護者の方が準備をしておられた。何かできない

かと思っていた。考えるよりも実行と言うタイプの私である。庭をにハーブがある。静岡にいるときWさんが教会の庭にハーブを植えて、よくフレッシュのハーブティーを入れてくれていたことを思い出し、紅茶とミントの温かい茶、ミントだけのフレッシュの冷たいお茶を出した。調べてみるとミントは、リラックス効果、胃腸を整える、花粉症対策になるとありました。悩んでいるのはビワの実で作ったジャムをだすかということです。園の庭には今はドクダミが花を咲かせています。さあ、摘んで、ドクダミ茶を作る季節になりました。

園庭は宝の宝庫です。

-4-

日毎の糧

聖書:14 主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。        詩編145:14

 

ルターの言葉から

 キリストは決して私たちを捨てられません。私たちの生涯も魂も キリストに縛られています。キリストのおられるところに、私たちもおります。・・・・・・・・・・・キリストと運命を共にするならば、私たちを必ず助けてくださることを世も私たちも知っています。  卓上語録

『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

人を動かすもの

会議で、内藤新吾牧師によって「脱原発の学び」をしました。3・11の原発の危険性を福島原発事故前から一貫して、脱原発を教会の業として訴え続けた牧師です。なぜ、彼をこうまで脱原発の運動にかりたてるか不思議でした。

それは、教会の方々と家内も食事の調理、配布まで手伝っていた路上生活者のための名古屋笹島の炊き出しで、新吾牧師は早くから手伝い、ここで、孫請けの孫請けという原発で劣悪の最低の労働環境で働いていた一人の労働者との出会いであったと話されました。彼は新吾牧師に話し、信頼し、原発の危険性を書き留め、スクラップしていた記事を託したことから脱原発の運動にかかわりを一貫して持ち続けたということでした。

主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいますという神への出来事を笹島でのお二人の出会いから感じます。笹島の炊き出しというまさに倒れそうになり、うずくまって人を神は支え、起こすところに、出会いを起こし、脱原発運動こそ教会の業と新吾牧師を通して一人の労働者の思いをくみ取らせた神の業に驚きました。キリストは決して私たちを捨てられません。私たちの生涯も魂も キリストに縛られています。

祈り:キリストに縛られていく幸を感謝し、日々を踏み出すことができますように。

-5-

大森通信

「引退の準備」

伝道45年   「牧会」

4.共働牧会・・・2.「共に」   

「脱原発の学び」で、内藤新吾牧師より脱原発運動に関わるようになったきっかけを聞いた。路上生活者のため炊き出しで名古屋の笹島での一人の方との出会いだったと聞く。笹島の炊き出し」という懐かしい言葉が聞いた。

宣教委員会を作り複数の教会が共同し、共に「笹島の炊き出し」を他教会と責任の日を決めて担当をしていた。炊き出しのとき、家内は朝からカトリック教会の調理場を借りて教会の方々と親子丼作りに出かけていた。そして、その夜、高速道路の下で、配食をしていた。

教会の下で「共に」集まり、奉仕の業をする。一つの教会だけでなく他教会と「共に」する。その「共に」が教会だけに留まるのでなく、教会の外におられ、倒れそうに、うずくまっている人と「共に」その時、その場を生きていく。そこで共に生きる出会いがあり、内藤牧師のように出会いを通して「脱原発の運動」に携わっていく。共にということはまさに次のような世界を起こすのではないだろうか。

見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。詩篇133:1

参考文献:「共同司牧をめざして ローラン・ソフィールド、キャロル・ジュリアーノ著 アンドレア・ボナッツィ訳 新世者

大森日記)デンマーク牧場福祉会設立20周年の記念礼拝に出席。ひたすらいと小さき者と共に設立以前から関り、ここまでこられたことを感謝。)羽村幼稚園の監査報告、内部監査を受けて、常議員会。最後のお勤めと三日間の会議に出る。どうにか前常議員の方の感謝の時間に間に合う。)二日目、幼稚園の仕事をし、午後からの「脱原発の学び」から出席。教会の取り組んでいく課題は多い。)早朝から聖書の学びの準備。三日目、最後のお勤め。会議が終わったときホット。)梅雨でじめじめした朝から始まる。午前中は庭の木を剪定、幼稚園・交流会、午後は先生方の自己評価委員会と続く。夜は予報通り雨の中を聖書の学び。)明日は徳善牧師の追悼礼拝のため早朝から主日の準備。