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「アーメン、主イエスよ、来てください。」 5月29日礼拝

以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。         ヨハネ黙示録22:20~21

 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。                             ヨハネによる福音書7:23

【説教要旨】 アーメン、主イエスよ、来てください。

大きな時代の変化の潮流にあって、力なく、もう歩むことに疲れて、歩みを止めてしまいそうな自分がいませんか。そう、私は感じる日々です。

ヨハネ黙示録の最終章です。迫害されているアジア州の7つの教会に宛てられた言葉がヨハネ黙示録です。パウロがコリント、フィリピの教会に手紙を宛てたのですが、これらの教会は決してすばらしい教会でなくむしろ課題をもった教会です。ヨハネ黙示録でのアジア州の7つの教会も多くの欠点と課題をもっていました。

3:14 ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。 3:15 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。 3:16 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。と叱責されています。しかし、決してラオディキアの教会を切り捨てることはありませんでした。

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3:19 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。 3:20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 3:21 勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。

「わたしは愛する者を皆」とあるように、神は欠点だけの者を愛する者と見ておられるのです。

パウロも、欠点、課題のある教会を「1:1 キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。 1:2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。フィリピ信徒への手紙」と言われ、「聖なる者たち」という挨拶から始められています。

「教会は、最後まで子羊であるイエス・キリストによって守られています。教会が『神の教会である』と呼ばれるのは、イエス・キリストの十字架によって愛され、その恵みが生きて働く群れだからです。人間の輝きによって左右されることはありません」、①パウロが言う、「フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれている」ということです。

わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。                ヨハネによる福音書7:23

「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」というようにヨハネ的には、神とイエス・キリストと一つにされているということです。それは、「あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」ということであり、教会は愛された群れであり、イエス・キリストの十字架の愛が注がれているということです。

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今日は教会の将来について語り合う信徒会において次のことを忘れないようにしたいのです。私たちは、時代の課題の大きさの中で、打ちのめされそうになります。神に愛された教会はいつも完全ではありません。むしろ欠点だらけのものです。しかし、自分の事しか考えない罪深い私たちは欠点だらけの者であっても、神に愛されています。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」とパウロが言います。この愛は、私が神に愛されているということです。神に愛されているということにおいて、隣人を勇気づける愛の業を行えるのです。

ルターは、「信仰によってキリストがわたしたちのものになり、愛によってわたしたちはキリストのものとなる。キリストは愛し、わたしは信じ、これによってわたしたちはキリスト一つの菓子である」とい言います。

「キリストと一つの菓子」ということです。神の愛がいまここにあることを信じるとき、私たちは新たな力を与えられます。「信仰によって自由の高みに上ったキリスト者は僕として愛の奉仕に勤しむ。自由の高さから愛の低さに下る落差こそ信仰の力です」、②

神に愛され、神の愛を知り、神と一つとなって、隣人を愛する奉仕へと向かいキリストと一つの菓子となって隣人に提供できるのです。

時代にあって、そして具体的な課題とぶつかり悩み、苦しみを抱えます。そして、悪魔の誘惑、試練に出合い、弱い自分がいます。しかし、私たちは、「キリストと一つの菓子」です。「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」、キリストと一つなり新たな信仰の力を与えられ、決して希望を失わず、愛の奉仕のわざに努める一人一人として今を生かされています。 だから希望をもって、祈りましょう。「アーメン、主イエスよ、来てください。」と。

①「教会で読む ヨハネ黙示録」 内海望 リトン、②「ルターの思索」 金子晴勇 ヨベル

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牧師室の小窓からのぞいてみると

Doing、するということに疲れてはいないだろうか。時代の大変化の中で、何かをしなくてはいけないと追い立てられている。

Web環境の整いは、どこでも仕事が出来ることを教えてくれている。SMSの反応に、何かが起これば答えなければならないと過剰反応を起こし、時には人は相手を傷つけていく。これもdoing、することに急き立てられている結果かもしれない。

Doingでなくここは、being、ありのままの自分で良いと一息をつくのも大切なのではないだろうか。そんな中で、一人キャンプと言うのが流行っていると聞く。それは、一人になってbeingでありたいという人間の気持ちからくるのかもしれない。

今、一歩を止めて、      being、ありのままの自分を受け止めていくことが、こういう大変化の時代だから大切ではないだろうか。祈りはこういう時だと思う。

      園長・瞑想?迷走記 

先日、近くの小学校で運動会があった。卒園生のお母さんから「コロナ禍で、家族二人という入場制限があり、お父さんとお母さんが行くね」というと「お父さん、来なくていいよ。」、「お父さん可哀そうじゃん。」、「園長先生に来てほしい。いろいろと困らして、お世話になったから。」という話を聞いた。嬉しいようで申し訳ない話である。

 いろいろと楽しい思い出が沸いてきた。確かに困らされたが、そのいたずらが活き活きしていて、こちらが楽しくなったことばかりである。

子どもたちとの出会いは、いつもこちらが楽しまされ、励まされ、さあ、明日から頑張るぞと子どもたちから肩をたたかれ一歩踏み出すことが出来た。

やっと、400名ばかりの子どもたちに進級、入学のハガキを出し終えた。みんなどうしているか祈りつつ筆をすすめていた。これも楽しい作業である。こういう楽しいこともあと2年かと思うと頑張ろうと思う。

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日毎の糧

聖書:2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。                                                         使徒言行録2:1-4

 

ルターの言葉から

  この喜ばしい聖霊降臨日に、私たちは、主がこの地上にあらわしてくださった限りないあわれみを祝いつつ、主なる神に感謝をささげます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今や聖霊降臨日に、聖霊によって使徒たちを通して明らかにされたのです。そしてこのメッセージは、以前、愚かさと恐怖と絶望のゆえにキリストを否認し、捨てて逃げた、かの漁師たち、すなわち使徒たちに対して勇気と大胆さと喜びを提供したのでした。

今日もこの聖霊降臨日に、私たちは喜びと祝福とに満ちた尊いキリストのみ国を祝います。このみ国は喜びと信頼と勇気に満ちているのです。                 1534年 ペンテコステ説教

『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

聖霊、助け主

 天に帰られた後イエス・キリストは、弟子への別れの説教の中で、助け主、聖霊を送ると約束されました。その約束は守られ、弟子たちに聖霊が降り、弱かった弟子たちを勇気と大胆さと喜びをもって生きる別人に変えました。

私たちにも、聖霊は降り、働かれています。人の力でなく、助け主、神の送られた聖霊の力に生きることこそ、勇気と大胆さと喜びを私たちにもたらします。 今日も神は働かれ聖霊を与えてくださっています。

祈り:神の送られた聖霊の力に生かされていきますように。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」22

                                 ひとつになる-多様性

 日本の教会は、長いこと聖書のみを伝える「福音派」と社会問題に深くかかわっていく「社会派」というものに分かれていた。私はどちからというと福音派に属する。しかし、聖書を伝えていると、そこには社会を生きている人と出会い、その人たちに影響を当てている社会との問題にかかわらざるを負えなくなる。

教会の70年史をみていても、当時の社会問題にかかわり、その年の教会の目標にしている。福音派も、社会派も教会にはないと思う。福音を伝えれば伝えるほど社会の問題とぶつかり、取り組まなければならない。社会の問題と関われば関わるほど、聖書のみ言葉に帰らなければならなくなる。関わり方の多様性は教会の中では本来はあるべきことだが、福音派、社会派と別れていく教会の姿はあってはいけない。

なによりも注意しなくてはいけないことは、教会が社会の課題に目を背けて自己保存的になることである。今の教会には、若者は自己の癒しを求める、老人は変化を嫌う現実がある。こういう教会の姿が、教会を自己保存的にしていく。イエスさまが言われるように塩の効き目がなくなり、外に捨てられるだけの存在になる。福音派も、社会派もない多様性の中で、教会は福音を伝えていく姿をいつももっていたい。

(大森日記))教会学校に子ども、大人40名を超す方が出席。通常礼拝後も残っていた保護者と懇談できる。教会学校、朝夕の礼拝があり、Zoomの出席が出来る。当たり前のようで当たり前でない。YouTube配信を用意終了。)朝の掃除をして、二日目の静岡。監査。課題と真摯に取り組む施設に感謝。)幼稚園監査、自己評価委員会、大田区園長会、羽村幼稚園のオンラインでの聖書の学び。)昇天日礼拝。共に礼拝の出来る喜びをいただく。オンラインでの礼拝参加。)出来たと思っていた主日の準備が、コンピュータに記録されておらず初めからやり直し。土)エルソン牧師の墓前礼拝。感謝。掃除、祈りを感謝。暑い。