α(アルファ)であり、Ω(オメガ)である5月15日
5 「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。6 その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。7 そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、8 わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』9 すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。10 こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。 使徒言行録11:5~10
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 4彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」 ヨハネ黙示録21:3-4
34「 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」 ヨハネによる福音書13:34―3519
【説教要旨】 α(アルファ)であり、Ω(オメガ)である
「神のためにか」とか「国のために」とかというときは、危険なことです。ここには、具体性に欠けています。
ルターは、面白いことを言っています。「私たちの善き業は隣人に向けるべきであって、神に向けるべきではないのです。」と。 ペテロのヤッファでの異邦人伝道の召命の記事です。ここで、神は
具体的にペテロに隣人を向けます。
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「そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。」
私たちは確かに「神のために」、「イエス・キリスト」のためにと言う言葉を使います。しかし、「神のために」、「イエス・キリスト」のためにとは、私に遣わされた隣人のための善き業へと向かわされるのです。「いと、小さき者にしたるは、我にしたり」という有名な聖書の個所です。
25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33 羊を右に、山羊を左に置く。34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』マタイによる福音書25章
「私の信仰は内面と上方に向けて神のもとへと携えられてゆき、私のわざは外側と下方に向けて、隣人のためになされます。」というルターがいうとき、「私の信仰は内面と上方に向けて神のもとへと携えられてゆく」とは、「わたしがあなたがたを愛したように、」という信仰です。
神さまは、自分が一番大切なイエスさまを私たちに与え、愛してくださいました。イエスさまは神の子であることを固守するのでなく、ペテロと弟子、婦人たち、ここに集った人々、そして、今の私たちの僕となり、十字架にかかりました、「天の御父やイエスの心を動かし導くものは、わたしたちに対する真剣な愛です。それは私たちを生かすためでした。わたしたちの真の幸せを創造していくためのものでした。」①
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この信仰は、「私のわざは外側と下方に向けて、隣人のためになされます。」とい方向にむかうのです。私の善いわざ、隣人への愛が「あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ということになるのです。
使徒言行録を読んでいると、初代教会は、私のわざは外側と下方に向けて、隣人のためになされたことを読み取れます。人間の力でなく、神の愛が支配する共同体でした。一人一人の心に寄添いながら、具
体的に神の愛がしみわたり、互いに愛し合うという教会で、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と宣教は拡がっていきました。
しかし、このことは周囲の誤解を生みだし、多くの迫害を受けることになりました。しかし、初代教会の人は皆が知るようになるために隣人へと善きわざを向けました。神は、また初代教会の人々の苦労を知り、汲み上げてくださいました。
わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 4彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」 ヨハネ黙示録21:3-4
ご自分の命まで与えられたイエスさまのように、イエスさまの愛を信じ、私のわざを外側と下方に向けて、隣人のために善きわざを、涙をながしながらも続けた初代教会の愛の姿こそ、現代に生きる私たちに最も必要であります。目に涙することも、悲しみも嘆きも労苦もあるでしょうが、私たち大森教会は、35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる教会となるように祈っていきましょう。
引用:①2(「神のやさしの中で」森一弘補佐司教、女子パウロ会)
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牧師室の小窓からのぞいてみると
この頃、いろいろなことが煮詰まって、相手を厳しく、非難することが、SMSを使って起こるし、神戸市長はブログログを閉じたという。また、芸能人が急に亡くなることが起きている。原因は分からない。
コロナ下で人が少なからず影響を受けているのだろう。また、ロシアのウクライナ侵略は、私たちが今まで考えていた常識が、通じなく結果、私たちのよって立つところを根底から崩し始めている。
私たちは、そういう社会の中で、知らず知らずの内に心も体も影響を受けてきているのだろう。
こういときこそ、教会は、心の癒しの場になっていかなくてはいけないと思う。私たちの責任はますます重くなってきている。 私たちはもっと知恵を出して、互いに愛し合っていく証しをたてていきたい。
園長・瞑想?迷走記
今週も体調がすぐれずにいた。毎年、進級、進学のおめでとうのはがきを卒園児にだすのだが、なかなか進まずにいる。こういうときに限って、大切な仕事が重なってくる。両幼稚園の理事長、設置者として、理事会・評議員会、臨時総会の準備をしなくてはいけない。その前に、決算作成、積み残していた課題の整理、資料作り、監査を受けたり、課題を見つけて、改善の案を見つけなければならない。当たり前のことだが体調が整わなければ頭も動かず先へ進まない。やっとの思いで園長、主任、事務の方の助けをかりて整えられた。今、進めている仕事の流れを彼らが継承していくだろうが、設置者、理事長、園長の仕事は、まずは体調管理だと思い知らされた一週間であった。そういえば、職員には毎年健康診断を受けるようにしているが、ここ14年間は、もったいないと思い、受けていない。そろそろ、健康診断を受けるために人間ドックに行く時期かもしれない。
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日毎の糧
聖書:知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。 詩篇100:3
ルターの言葉から
神は、かつて人間の創造というこのご計画と仕事を楽しまれ喜ばれたように、今もまたこの仕事が、彼のみ子、私たちの救い主キリストによって、失われたものたちを完成へ導くことに喜びと愛をもっておられる。それゆえに、神は私たちの最善を考えていてくださり、
キリストを信じたすべての人々を死から復活させ、再び霊的な生活へ導くというご計画を喜んで実行しておられることを私たちが顧みることは大いに有益である。 創世記講解より
『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』 湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館
神はわたしたちを造られた
人生の終わりが近づいていることをひしひし感じています。「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。」という家康の言葉に共感を覚えます。共感を覚えつつも、ここは、一人で歩んでいく人生しか感じません。一人はここに行き着くほどの悟りの力はなく、ここに行きつきません。
「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。」という神の声が私たちに響いています。私たちの人生は、神によって造られていくのです。「今もまた創造の仕事が、彼のみ子、私たちの救い主キリストによって、失われたものたちを完成へ導くことに喜びと愛をもっておられる。それゆえに、神は私たちの最善を考えていてくださり、キリストを信じたすべての人々を死から復活させ、再び霊的な生活へ導くというご計画を喜んで実行しておられる」のです。私の人生は神がお創りになると信じたとき、わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れという実感が湧き出ます。同行二人、悟らなくても良い。「知れ」というみ言葉を聞き、信じて生きれば良い。焦るべからず。
祈り:人生は私一人でなく、神とあることを信じることが出来ますように。
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大森通信
「大森ルーテル教会70年史」20 ひとつになる-多様性 宗教法人には,神社,寺院,教会などのように礼拝の施設を備える「単位宗教法人」と,宗派,教派,教団のように神社,寺院,教会などを傘下に持つ「包括宗教法人」があります。単位宗教法人のうち包括宗教法人の傘下にある宗教法人を「被包括宗教法人」,傘下にないものを「単立宗教法人」といいます。(文化庁資料) 私たち大森教会は、単立宗教法人ですが、日本福音ルーテル教会という包括宗教法人の傘下にある被包括法人です。しかし、被包括宗教法人が包括宗教法人から独立することは出来ます。神社本庁という包括法人から明治神宮、金毘羅宮、富岡八幡宮などが離脱したり、再度、入りなおしている。 日本福音ルーテル教会は、多様性を認めつつ、包括宗教法人を作ることで、一つになるという姿勢を貫いていると思う。多様性とは、「各個教会主義」、「招聘と応諾原則」という一つの教会を認めつつ、「教区主義」など、宣教を一つの教会が責任を取りながらも、教区、全国で方策を立てて一つとなっていこうとすること。建物、土地の管理は一つとなっていこうとするシステムなどがある。土地を売却したとしても各個教会のものとなるのでなく、全体で使う資金に繰り込まれていくのである。多様性の中での一つ、本来の教会の姿を仕組みで、日本福音ルーテル教会は示している。 (参照:日本福音ルーテル教会百年史」、to-morrow 日本福音ルーテル東教区 ) |
(大森日記)日)説教だけをして通常礼拝を終える。夕礼拝は無事に終わる。体調を整えるも仕事。月)Zoomでの参加での監査説明。時代。火)肺の検査、異常なし。父も兄もこの歳でアスベストによる病状をおこしていた。水)青年時代の教会学校の生徒も同じように歳をとっている。入院と聞き、回復を祈る。木)庭の掃除、木の剪定を終え、聖書の学びを終える。