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霊の力 1月23日礼拝

イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」                              ルカによる福音書4:14~19

 

【説教要旨】     霊に満ちて

新型コロナウィルス感染が始まって世界が混沌としている2020年7月に教皇フラシスコの「パンデミック後の選択」という本が翻訳されました。その中で、もう一つのウィルス、「無関心なエゴイズムというウィルスパンデミック」ということについて話されています。

「より悪質なウィルス、無関心なエゴイズムというウィルス、無関心なエゴイズムというウィルスに侵されるかもしれない危険です。自分にとってよければ生活が改善しているという考え、自分にとってよければすべてよしという考えによって拡散れるウィルスです。」

イエスさまがガリラヤに帰られたとあります。それは、エルサレムからすれば、辺境地です。国の中心であるエルサレムの人にとっては、気にかけない無関心なところです。しかし、わざわざガリラヤに帰られたとイエスさまの行動を記したのは、人々が無関心であった地にイエスさまは関心を寄せられて、ここに行かれ、ここを十字架にお架かりになるまで活動の拠点としたということです。

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イエスさまは、イザヤ書の一文を引用されます。

預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。

イエスさまがこの辺境地ガリラヤに帰った目的を示されます。これは、また私たち主・イエス。キリストによって立てられた教会の宣教の姿です。この厳しい新型コロナウィルス感染拡大の中にあっても、貧しい人に、困っている人に、弱っている人に主の福音、主の恵みを伝えることが教会の姿です。「自分にとってよければ」というエゴイズムというウィルスと戦うことです。

今は、無関心でいる時ではありません。世界中が苦しんでいて、パンデミックに立ち向かうために結束しなければならないからです。復活したイエスが、すべての貧しい人、社会の周縁で生きる人、難民、ホームレスの人に、希望を与えてくださいますように。世界のあらゆる都市とその周縁に住む、いちばんの弱者である兄弟姉妹が、取り残されることがありませんように。多くの活動が停止し、また医療、そしてとくに適切な保健衛生を得ることがますます難しくなっている今、彼らが生活必需品を手にするための配慮がわたしたちから欠けることがありませんように。

という教皇フランシスコの2020年の復活祭のメッセージはまさに主イエス・キリストの御心であると思います。

そうは言うけれども、新型コロナウィルス感染拡大の中で、私たち小さな教会、またここに集う一人一人は小さな弱いものであって、「自分にとってよければ」という生き方さえできない呻きを持った者が何ができるかという大きな壁が私たちの前に立っています。私たちは新型コロナウィルス感染拡大で、自分の無力さと弱さを知らされました。しかし、無力と弱さを体で私たちに伝えたのは十字架の主イエス・キリストです。

同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。マルコによる福音書15:31-34

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弱さと苦しみの下で、イエス・キリストは「エロイ、エロイ、わが神、わが神」と深いつながりを示されたように、弱さと苦しみは神との臨在を共に味合うのです。それを今日の聖書の日課は次のように言っています。「イエスは“霊”の力に満ち」、「主の霊がわたしの上におられる。」常に自分を超えて出てくる神の霊が働き、満ちているというのです。弱さ、苦しみ、困難、危機を抱えつつも突破していく力、霊の力が働いているのです。それが主に立てられた教会であり、ここに集う一人ひとりです。

昨年、私たちは生活に困窮している方々に食品を届けるカトリック教会のフードバンクに協力し、またフェアトレード、ほしくずの会、私たちが東日本大震災の時、約束した20年間のYWCAの子ども支援を続けています。幼稚園という主の業を通して私たちは苦労をし、子どもたちが神の愛によって育まれていくように多くのものを使っています。2020年の新型コロナウィルス感染の初期さっぱり分からないとき幼稚園を閉じることなく、特に医療、教育、保育、福祉のソーシャルワーカー、預けざる負えない人のために開園し続けました。それは、私たちが強かったのではない、弱さをしって弱さに共感し、弱さの中で私たちはどこに立っているかという信仰の祈りからでした。常に自分を超えて出てくる神の霊が働き、満ち、弱さ、苦しみ、困難、危機を抱えつつも突破していく力、霊の力が働いていることを祈りにおいて信じてきた主に立てられた教会があり、ここに集う一人ひとりがいたからです。新型コロナウィルス感染拡大の前に私たちは弱く呻くしかないが、しかし、霊に満たされ、霊が降り注いでいる教会であり、教会に集う一人ひとりです。イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

1月17日、5時46分、愛知県刈谷市の牧師館も大きく揺れた。そして想像もしなかった阪神・淡路大震災の被害の状況が飛び込んで来た。

東海教区三河地区教会は複数協働牧会の宣教方策が実施されていた。すぐに地区にある教会は、震災で困っている人に自分たちは何が出来るかと言う行動に出た。名古屋地区の教会と協力して、情報を集め、救援の行動をした。このとき、印象に残っているのは、伊勢湾台風を経験した信徒たちの活躍である。まずは、自分たちが伊勢湾台風で救援されたことを思い出し、何が何でもそのときの感謝を伝えたいという思いが強く、行動を支えた。水害で被災した時、何が必要で、何が助かったかということを思い出し、物資を調達してくれたことである。

自分たちが愛されたという経験が、直ちに困っている人を愛さなければならない行動を起こさせた。困っている人に自分たちは何が出来るかと言う行動こそがキリスト教の根本ではないだろうか。「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。ルカ10:36」というイエスさまの「隣人になったと思うか。」と問い続けていくことが阪神・淡路大震災ということを通して教会に突き付けられたと思う。

コロナ禍にあって、やはり教会は、「だれが隣人になったと思うか。」というイエスさまの問いに応えていきたいと思う。

 

園長・瞑想?迷走記

コロナ禍にあって、教会立の幼稚園は、イエスさまの「隣人になったと思うか。」ということを深めていかなくてはいけないと思う。今までの教育保育内容の問いかけと同時にコロナ禍における教育保育が子どもたちに隣人となれるような内容と実践が必要であると日々、つくづく思っている。

では、何をすべきかは手探りであるが、隣人になったと思うかという問いに真剣に応えていく教育保育をしていきたい。

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                         日毎の糧-ルターからの言葉

聖書:Ⅱコリント7:2-12    詩篇119 

何事にも終わりと果てがあるのをわたしは見ます。広大なのはあなたの戒めです。       詩編145:13

神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。                 Ⅱコリント7:10

                         ルターの言葉から

ここからまことの悔い改めは何かを学びなさい。ペテロは激しく泣きました。それは悔い改めの初めです。心が罪を認め、罪ゆえに悲しみます。もはや罪を愛さず、罪のうちにとどまることを望まず。かえって今まで神のみ心を守らず、罪に陥ったことを悲しみます。しかし、私たちはこのことを自分でなすことはできません。主がペテロをご覧になったように、主が私たちを見つめてくださらなければならないのです。                                 『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

悲しむ者は幸いです

 「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。マタイ5:4」とイエスさまはお語りになりました。世の悲しみでなく、神の御心に適わないことを悲しむ悲しみです。

それはどういうことなのでしょうか。「わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。ローマ7:23-24」という神の御心を行えない呻きです。呻きは祈りとなり、悔い改めに導かれ取り消されることのない救いに至らされます。「高い所にいるもののも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。ローマ8:39」

祈り:主よ、私たちの呻きをお聞きください。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」12              ルーツ3

フィンランド人に限らず移民社会において、大切なことは自分たちのルーツである言語、文化をどう子どもたちに伝えていくかということが重要なことであり、これを担っていったのが教会です。教会は子どもへの教育の場となりました。日本に来たアメリカ・フィンランド人の宣教師は、そういう空気の中で幼児期、少年期、青年期を過ごしました。

現代においてもフィンランドは教育立国です。幼児から大学まで無料です。自助努力だといって個人への教育費を負担させている日本とは違います。

教育の恵みをいただいたフィンランド人宣教師は戦前、飯田、諏訪、札幌と戦後は大岡山幼稚園を作りました。アメリカ・フィンランド宣教師は戦後、大森、甲府に作っていきました。大森教会70年史を語るとき教育の恵みの大切な結実として、幼稚園の歴史を詳しく記することが将来への財産を残すことになるのですが、創成期の写真は残るもののどのような教育方針のもとで幼児教育をしたのかは資料に乏しいのが残念です。勝部牧師が幼稚園運営の臨時総会を実施して以降は、幼稚園の教育保育方針がはっきりと分かっています。それ以前のことを探し、幼稚園の宣教についていつか記されることを願い、祈っている。

(大森日記))さらに新型コロナウィルス感染者が増加中の礼拝、教会学校、礼拝、祈りの会、女性会、幼稚園運営委員会、夕礼拝と無事に終わり感謝。)幼稚園が始まり、緊張が走る。まん延防止法が発出される前に聖壇道具を買い求めに行く。)餅つき大会、しかし、ついた餅は食べられず真空パックされた餅を配る。ご時世である。ついた餅は園長が引き受ける。)桜の木が老いている。少しでも元気にしたくて、肥料を置く。パッチワークの会。「呻きの神学」ということで、詩編102篇を学ぶ。嘆きと違う呻き。まさに今の時代。メールが突然、出来なくなる。)メールの回復するために朝は時間を取られる。文語の「主われを愛すを」子どもたちに説明。)文書届けに訪問。