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途方に暮れても 4月17日礼拝

17 見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。・・・・・・・・・25 おおかみと小羊とは共に食らい、ししは牛のようにわらを食らい、へびはちりを食物とする。彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、やぶることはない」と主は言われる。   イザヤ50:17、25

20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。21 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。22 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。  1コリント15:20-22

5 女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。6 そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。」   ルカによる福音書24:5-6

【説教要旨】  途方に暮れても

21世紀の初めは、まさに神なき、人間至上主義、それにともない大きな技術革新がおこり、社会の仕組みが大変化しているのです。ここを私たちは生きています。時代が大変化していくとき、想像も出来なかった伝染病の流行、今までとは違うような戦争が起きてきます。また日々の旧世界を生きてきた私たちの日々の生活は急激にその生活を変えていかなければならないという状況に追いやられます。ここを生きる私たちは未来への希望と言うよりも未来が見えない絶望と悲しみの流れが知らず知らずのうちに私たちを支配し始めています。

「ここにはおられない。よみがえられたのだ。」というみ言葉を聞く復活日です。

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鞭打たれ、裂かれ、苦しみの果てに、十字架の上で息絶えたイエスさまを十字架から降ろし、墓に葬った婦人たちは、絶望と悲しみのうちを墓に向かって走ります。婦人たちはもはや、そこに希望をみることは出来なかったでしょう。イエスさまの公生涯で、多くの奇跡をもって人々を癒し、み言葉をもって多くの人を慰めたイエスさまはここにはおられないという墓が婦人たちの前にありました。もはや婦人たちから希望をもって、胸はずませてイエスさまのところに向かうのでなく、墓と言う死と希望のないところに向かっているのです。絶望と悲しみ、そして諦めに心を支配されていたのです。光輝く朝の光のなかでも深い闇が光を支配していました。ここで婦人たちが光をもう一度みつけることは常識的には出来ませんでした。

「墓は、あくまでも墓です。生あるものの動きをすべて否定してしまうのが墓です。墓が語り、示すのは、死者の過去だけです。墓の中からは、未来にこだまする希望の音は、ひびいてはきません。もしそのままでしたら、婦人たちは、死者を訪ねるすべての人々と同じように、死者の過去を、思い出のうちに語るだけに終わってしまったことでしょう。しかし、婦人たちの目の前のやみが開かれます。死の中に生の希望が輝いています。

『なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。』イエスの死が、死でないということが啓示されます。これが、復活の信仰です。過去のやみにおおわれた心を光に、そして絶望におおわれた心を希望にかりたて、悲しみにつつまれた心に喜びを与えるのがキリストの復活です。ですから、キリストの復活は、希望の啓示です。」①

私たちは、社会が大変化していく新しい世紀の初めの初めを生き、希望を打ち砕く現実に生きています。今回のウクライナで起きたロシアにおける虐殺は、受け留めきれない目を追いたくなる現実です。鞭打たれ、肉裂かれ、苦しみの果てに、十字架の上で息絶えたイエスは、ここにいます。絶望、悲しみ、希望の音が響かない世界があります。しかし、ここにイエスはおられます。たとえ、どんなに深い苦しみ、悲しみがあり、命のない希望のない墓しかなくても、もうここにイエスはおられないのではなく、ここにイエスさまはおられ、絶望、悲しみ、希望の消えたところにイエスさまはおられません。

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「人生のやみの深さや絶望の恐ろしさを否定するものではありません。苦しみは苦しみとして、やみはやみとして、悲しみは悲しみとして、わたしたちがきわみまで、体験しなければならないという現実をそのまま肯定しながら、そのきわみまで生きる心に、復活は本来の意味と輝きをもってくるのです。」②

「1 週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。:2 ところが、石が墓からころがしてあるので、3 中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。4 そのため途方にくれていると、」という墓があり、途方にくれているという現実があります。また、大切な方を、私たちの生きる力であった方がおられないということに途方にくれているということがあります。途方にくれているという現実に私たちはいないのです。「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。6 そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。」

復活、よみがえられたのだという現実に私たちはたとえそうでなくてもいるのです。

イエス・キリストの復活は、墓の入り口の石を動かしたように、絶望と悲しみに閉ざされている私たちの暗い世界を閉ざしている石を取り除けて、朝の光を私たちの世界の隅々まで照り出しいてくださっています。復活の出来事によって与えられている神の力によって、動かされることのない希望と喜びが与えられています。

21世紀の大変化の中で、絶望と悲しみの不安の中で始まった私たちの日々に復活の朝の光は輝き、希望をあたえてくださっています。20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。21 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。22 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。

引用:①②(「神のやさしの中で」森一弘補佐司教、女子パウロ会)

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牧師室の小窓からのぞいてみると

 先日、「ブラジル現代文学コレクション」シリーズの本をいただき読んだ。ブラジル社会に切り込んだ内容の濃い本は、貧困と抑圧ということを深く考えさせられた。まったく内容とは関係ない「ブラ(イピランガの丘独立記念碑) ジル建国200年を記念し、出版された」という言葉が目に入って来た。サンパウロ市のイピランガの丘で、後のブラジル皇帝ペドロ1世が「独立か、死か」と叫んだ日から200年か。感慨深い。よく遊びに行った公園と記念館を思い出した。

そして、2022年、まさにロシアが戦後70年の国際秩序を壊し、ウクライナ侵略をし、ロシアに隣接するヨーロッパ、そして、日本が、「独立か、死か」ということに直面している。

日本では「平和憲法」の改正と再軍備、核保有、そして原子力発電の再開、食料自給率増加など、広範囲で議論が出ている。

こういうとき日本のキリスト教会は、どう日本の国の形はあるべきかを問い、提言していかなくてはいけないと思う。「5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」と言われるイエスさまの言葉をどう具体的に示すか。

      園長・瞑想?迷走記

幼稚園の教育・保育内容、組織の内容など時代に応

えるようにしてきた。しかし、こんなに応えてきたのだが、園児の鞄の取り違えから、取りこぼしに気づかされた。既製品出席ブックである。今まで使っていたのだから使っていた。しかし、そこには個人情報が記載されていて、今回のように取り違えで情報が漏れてしまうおそれがある。イロハのイである「今まで使っていたのだから使っていた」ということが一番改めなければならなかったことである。すぐに、個人情報がもれないように出席ブックの中身を吟味して改善した。時代は急激に変わっていることを強く意識すべきであることを肝に銘じた。

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日毎の糧

聖書:主はわが力、わが歌であって、わが救となられた。             詩編118:14

ルターの言葉から

私たちが頼るべきは、ただ主のみです。主は私たちの力であり、私たちのうちにすべてをなしてくださいます。それゆえに、主を讃美し、主に感謝し、それによって、主のみが、わが歌となるようにしましょう。そのとき、主にまことの祝福を得るのです。この主は、まことの神、父より永遠に生まれ、時満ちるにおよんでマリヤから生まれたまことの人、イエス・キリストです。このイエス・キリストにおいて、主は私たちの力、権威、歌、救い主としてたたえられるのです。

しかし、私たち自身が弱くされ、多くの苦しみよって十字架につけられるまでは、キリストは、私たちの力となることができません。そうされたときのみ、主は、私の讃美、歌、詩となられます。そのときのみ、勝利と、永遠の命に至る救いがやってきます。          詩篇118篇14節の注解

『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

 

弱くされる恵み

 第三次世界大戦が起きるかもしれないぎりぎりのところに私たちは立たされています。こういう時代が大変化していくとき、変化を乗り越えるために力を欲しがります。そして人類は力をもってきました。しかし、その経済力、軍事力が決して人を幸せにしないことを歴史は教えています。私たちは今、真剣に問われているのは自分自身を弱くすることだと思います。ここに真実が生まれ来ます。

「私たち自身が弱くされ、多くの苦しみよって十字架につけられるまでは、キリストは、私たちの力となることができません。そうされたときのみ、主は、私の讃美、歌、詩となられます。そのときのみ、勝利と、永遠の命に至る救いがやってきます。」という近世を拓いたルターの言葉を今の私たちは聞くべきではないでしょうか。弱くされましょう。

祈り:私たちを弱くし、勝利と、永遠の命に至る救いの生涯を求めていきますように。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」17

  幼児教育・保育―宣教のわざ 私たちの教会は、アメリカ・フィンランド人系のスオミミッションの設立した教会として、「スオミ・シナド教団」を作り、大森、甲府に教会を作った。戦前から日本に宣教していたフィンランドから直接のリーフ宣教会との交流もあり、信州に建てたリーフ宣教会の教会のように大森、甲府に幼稚園を併設していった。 飯田、下諏訪(廃園)、駒ケ根(他へ変更)、札幌、大岡山幼稚園がリーフが、大森、甲府(廃園)幼稚園はアメリカ・スオミシナドが建てた。

ルターは、教育を神の働き、「神の教育」と捉えます。すべての人に神が働かれる救いであり、教育でした。敬虔な両フィンランド・ミッションは、全ての人、ここには幼児も含まれていることを体で覚えて、自然と幼児教育の実践を行い、子どもたちの教育の場を作っていたのではないだろうか。

神の働きは教育を受ける人を動かしていきます。きっと、子どもたちは神の同労者として世に送り出しているのではないでしょうか。

幼児教育・保育は、神の働きであり、それは教会のミッションであるのです。教会と幼稚園と分離と表現しますが、幼稚園は教会そのもので分離出来るものではありません。宣教師たちが残した幼児教育・保育の宣教の働きを大切にしたいものです。

(参照:キリストの愛を伝え、共に成長する」 るうてる法人会連合 LITHON)

(大森日記))今の世界の大変化をどう捉え、み言葉を伝えるか。苦しい作業。)聖週間の礼拝が始まる。世界の苦しみを覚え、主の十字架に向かう。羽村幼稚園の入園式。)ひたすら聖週間の礼拝に集中。イースターカードを送付。)羽村幼稚園で事務処理を終え、帰宅後、大森幼稚園の処理。礼拝。)朝から幼稚園の対応処理、洗足の礼拝。)受苦日礼拝、オンラインも出来て良かったが。)イースターの準備。ウクライナを通して主の十字架にすがる一週間であった。苦しい日々。