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裏を見せ表を見せ散る 2月13日の礼拝

6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。 6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。 6:22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 6:23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。 6:24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。 6:25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。 6:26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」                                ルカによる福音書6:20-26

【説教要旨】裏を見せ表を見せて

コロナ禍は、弱者にしわ寄せをさらに強くしているドキュメントを見ました。非正規の若者、心に重荷をもたれた若者が生活苦で、街に放り出されているという実態です。また、シングルマザー、ファザーの人が保育園の休園により、働きに出ら「れずに生活が脅かされているかという実態です。見ていて、心が重くなる番組でした。いったい、私は何をしているのか問われ続けられました。

イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちにな った。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。

とイエスさまの周りに起きていた出来事と同じように医者であるルカの周りには多くの病人が寄って来たに違いありません。医者でしたが、彼はイエスでありません。医術の限界の中で多くの人を癒すことの出来ない現実にぶつかり、さらに病人たちの貧困に直面したに違いありません。

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ルカによる福音書は、弱者へ語りかける福音書と言われています。キリストの降誕は、まず社会の底辺にいた羊飼いに告げられ、ザアカイ、放蕩息子の話、よきサマリア人の話などルカによる福音書だけにある物語で、登場人物は、みな弱者です。

マタイが「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。5:3」とあるところをルカは、「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」と記します。「心の貧しい人々」というような精神的な表現でなく、ずばり、直球に「貧しい人々」、社会的、経済的貧しい人々と表現します。また,「その人たち」と一般化されているのでなく、「あなたがた」と表現し、直接的に臨場感をもって呼びかけるのです。

しかし、ルカにしても、ルカの周りに集った人たちも比較的裕福な異邦にいるユダヤ人、あるいは異邦人でした。しかし、ルカの周り集また人々の周りにもう一つの集まりの人たち、ユダヤ社会から排除された人、また救いの外にいた異邦人でいたと思われます。どんなに律法を守ろうと豊かになろうと救いの外にいた人々でした。だからよきサマリア人、ザアカイ、放蕩息子の話にしても救いの外にいた人々のことを記したのです。そして、差別された人、さらに社会的貧困に喘ぐ人々が集まってきたのです。

そして、ルカの周りに集まった人々は、社会的貧困に喘ぐ人々に目を閉じ、無関心になるのでなく、彼らに寄り添おとするのです。

では、イエスさまはこのとき、この場面で、どう私たちに語りかけてくださったか。ルカは、第三者的でなく、「あなたがた」と呼びかけられたイエスさまを思い出すのです。さらに、マタイは「山上の垂訓」と言われるのに対して、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。6:17」とあるように、イエスさまは、山から私たちのところまで下ってこられ、平地、目線を私たちと同じようにして、低くしてくださっていたことをルカは忘れなかったのです。

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私たちの日本の教会は、ルカの集いに集まった人々に似ていませんか。異邦人であり、比較的に裕福で、そして、私たちの周りには多くの人が救いを求めてきている。

しかし、コロナ禍、自分を守ることに汲々としているのも私たちの現実です。ある牧師さんは「まずは、何よりも信徒の命を守ることだ」と言われました。確かにそれは、正しいことだと思います。最優先です。教会はコロナ感染予防ということで門が閉じられています。

しかし、私たちのところに誰が来られているのでしょうか。「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」と、山から下りてとあるように私たちのところまで下ってこられ、目線を同じようにして、低くしてくださっているイエスさまがおられます。

そして、あなたを支えていると思って握りしめているものを離してごらんと語り給うイエスさまは、「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」と勧めます。貧しくあれと、清貧であれと。貧しさを超える「神の国」、神の愛の支配があなたがたのものであるというのです。山から私たちのところまで下ってこられ、目線を同じようにして、低くしてくださっているイエスさまがあなたがた、私たちのところにおられます。

確かに私たちは、コロナ禍での現実の中で何が出来るか、何をしているのだろうかという問いの大きな壁があります。しかし、私たちはルカの周りに集まった人々のように主の臨在を信じ、社会的弱い人に無関心にならず、主が下って寄り添ってくださったように自己保存的にならず寄り添っていけるように主にいのりましょう。

「今日、イエスの穏やかで無防備な愛が、弟子の心によみがえります。わたしたちもまた使徒トマスのように、世の救いである憐みを受け入れようではありませんか。そして、もっと脆弱な者に対して、あわれみを示しましょう。そうすることで初めて、新しい世界を築けるようになるのです。」(フランシスコ教皇)、私たちはそうありたいと思います。

私たちが生きるに汲々していても、世の救いである神の憐みを受け入れ、裏を見せ、表を見せて、散る葉のように、今日、イエスの穏やかで無防備な愛、救いの力に委ねて、自己保存的にならず、もっと脆弱な者に対して、あわれみを示し、新しい世界を築けるように、たとえ明日が終わりであっても今日、隣人に寄り添い、なすべきことをなせるように強く主に祈っていく一人一人の集まりでありますように祈って、実行していきましょう。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

 コロナ禍は、社会の構造を大きく変えている。「少子化の町 消えゆく保育の場」という新聞記事があった。少子化は予想以上に進み、減少を止めることは出来ず、社会のインフラを壊して、社会構造を大きく変えていると言う。それは、町に住めなくなるということである。今までは高齢化による限界集落ということが課題であったが、少子化による「住めない地域」が増えるということである。

コロナにより社会が大きく変化しているのだが、では、今後どう変化するのか私たちは知りたい。そういう意味で、ペストの後、ヨーロッパが中世から近世に時代の大きな変化をしたことにもっと研究の目を向ける必要があると思う。

温故知新という作業を教会の神学は求められている。

      園長・瞑想?迷走記

昼から大雪警報が出ていた。預かり保育の子どもたちの帰宅時間に重なり、困ったものだと思いつつも、雪は大人の私もウキウキさせるものがある。子どもはさらにウキウキするかもしれない、子どもたちが喜ぶ顔が見え、声が聞こえてくる。どこかで、雪が積もれば、子どもたちはどんなに喜ぶだろうと雪と出会わせたいと思っている。通常と違う体験は、心踊らされる。自然は心を躍動させる。こういう体験を通して子どもたちの情操が養われていくのではないだろうかと思う。

大人には困った自然現象であっても、子どもにとっては大切な自然現象となる。こういう体験を積み重ねれば積み重ねるほど子供は豊かにされるのではないだろうか。

私の友人の幼稚園で、雨が降り出したとき一斉に庭に出て子どもたちと遊んだという。雨が降るから外遊びは止めると誰が決めたのか。先入観に捕らわれず雨の中でも外遊びをしても良いのではないだろうか。しかし思うように友人のように実行できないのもまた現実である。しかし、自然に遊ぶということに自由になりたい。

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日毎の糧-ルターからの言葉

聖書:エレミヤ22:11-17  詩編120:1

【都に上る歌。】苦難の中から主を呼ぶと/主はわたしに答えてくださった。         詩編120:1

ヨシヤの子シャルムについて主はこう言われる。「彼は再びここに帰ることはない。  彼は捕囚となっているそのところで死に、この国を再び見ることはない。」エレミヤ22:11―12

ルターの言葉から

 各自の苦難は、新しい人が生まれ、旧い人が死ぬという一つの誕生である。 信仰とみことばの学びは、この訓練をするうちに増していくものである。牢獄や武力が、またペストや死が間近にせまっていようとも、人はこう言うべきである。「見よ、私は今、誕生しようとしている。ここで私は屈しないで、神をじっと待ち、私が子を生むまで、出産の痛みに耐え抜くべきである」と。人が耐え抜くべきとき、ここに信仰の大きな働きがある。                                                 『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館

苦難のときは誕生の時

 異邦にいる民は、また異邦に連れていかれた民は、「苦難の中から主を呼ぶ」しか出来なかった時を過ごします。捕囚となった民は苦難の中で、新しい民となりました。捕囚を通してユダヤ教は誕生をしていきました。見よ、私は今、誕生しようとしている。ここで私は屈しないで、神をじっと待ち、私が子を生むまで、出産の痛みに耐え抜くべきであると聖書の歴史が教える真実です。

私たちは2年を越えるコロナ禍で、苦難の中から主を呼んでいます。しかし、この苦難は、新しい誕生なのです。再びここに帰ることはなく、今は、神が起こされようされることが確実に起きることを信頼して、希望をもって共に歩みましょう。人が耐え抜くべきとき、ここに信仰の大きな働きがある。

祈り:日々、希望をもって耐えて、為すべきことが為せますように。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」14

神学教育

スオミ大学、現在のフィンランディア大学のホームページ歴史について次のように記されている。

Suomi College は、1896 年 9 月 8 日に JK Nikander (1855 年生まれ、フィンランドの Hämeenlinna 生まれ、 1919 年召天)によって設立されました。 1880 年代、木材産業で働くために、多くのフィンランド人が ミシガン州ハンコックに移住しました。ハンコックに本部を置くフィンランド福音ルーテル教会の牧師として、ニカンデルは、デラウェア川沿いのスウェーデンとフィンランドの移民が新しい牧師を訓練していないことに気づき、フィンランドのアイデンティティーが失われることを恐れていた. 大学の役割は、フィンランドの文化を保存し、ルーテル教会の牧師を訓練し、英語を教えることでした。1920 年代にスオミ カレッジはリベラル アーツカレッジとなり、1958 年に神学校はカレッジから分離しました。2000 年 7 月 1 日、スオミ カレッジはその名前をフィンランディア大学に変更しました。(ウィキペディアから、)

エルソン、ルンド、ベハネン牧師がここから生れた。フィンランドのアイデンティティーが失われることを恐れ、 大学の役割は、フィンランドの文化を教え、同時にアメリカに同化するために英語を教えることにあった。言葉はアイデンティティーを作る。英語を教えるということはフィンランドのアイデンティティー失うことになる。私たちは、フィンランド系アメリカ人宣教師としてよりアメリカ人として受け入れ、認識し、彼らもアメリカ人として自覚していたと思う。

(大森日記))全国新型コロナウィルス感染者増大で、zoom、YouTube配信に礼拝の軸足を変える。)教師会長として諸牧師に激励のメール発信。)聖書の学びの準備。最後まで全力を。聖書の学びに来られちた召天されたOさんを思いながら。)聖書の学びなどzoom招待を送る。こういうメッソドを使えることが感謝である。)とはいえどウェブ環境のない所では郵送、ポスティングによって届ける。ZOOMでの会議が3回。雪は積もらず。)幼稚園も休みだとどこか力が抜けてホッとしている。でも、どこかに春が感じられる一日である。