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聖霊降臨後第4主日(6月18日)「見守られている」

6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。    ローマ信徒への手紙6:10-11

10:29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。10:30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。10:31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。                     マタイによる福音書10:29-31

【説教要旨】       見守られている

新婚旅行の宿が津和野でした。なぜ、ここを選んだかというと神学校のときに「古事記」を講義してくださった田坂誠喜先生が書いた津和野殉教のパンフレットが心に残っていたからです。津和野に乙女峠というところがあります。1867年長崎・浦上のキリシタンが3400人も捕まり、これを浦上4番崩れと言います。崩れとは検挙という意味です。20の藩に流刑され、明治の維新になっても棄教を迫れ、弾圧が残酷極まりなかったというのです。特に、津和野は厳しく、転ばぬ大人に対して、見せしめとして少年を水牢に入れる、風雪の中にさらす「雪ざらし」などして拷問するのです。信仰がおれそうに、たおれそうになるとき、ころびそうになるとき雀がきます。お姉さんは、弟を次のように励まします。「雀、一羽さえ、天のお父様のお許しがなければ、地に落ちることはない、と言われた。イエスさまが雀を私たちのところによこしてくれました。」と。ここで幼いながら語っているのは、神の一人一人の見守りです。

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実はこのパンフレットを書いた田坂誠喜先生は、大正から昭和にかけて、子どもたちが自分の生活場に体験したことを自由に自分の言葉で文章表現する「生活綴方運動」に参加しました。日中戦争の拡大により国民を思想統制に図る政府が1940年(昭和15年)、国民学校制度を作り、運動を弾圧し、約300人の人が検挙された「生活綴り方事件」で先生自身も検挙されます。奥さんが刑務所の壁のそばで讃美歌を歌って先生に自分たちは元気であることを知らせたと息子さんが証をしています。津和野殉教のパンフレットはこの経験から生まれたものでしょうか。

パウロは「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。ローマ6:5」と言います。私たちは「わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかる」ということです。時代の苦しみ、そこから来る一人一人の苦しみは、イエスの十字架の苦しみです。「神がいるなら、なぜ」という問い、そこには大きな自分たちを押しつぶすような力が私たちを襲って、恐れがあります。この現実の中で、「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」、「恐れるな」というみ言葉を私たちは聞くのです。森補佐司教は「恐れとは、何か大きな力によって自分の大事にしているものが押しつぶされたり奪われたりしていくことに対する、無力な人間の自然な反応です。恐れに襲われると体は硬直し、その心はおびえ、生きる喜びは消えて、暗い闇の中に閉ざされてしまいます」と言われています。イエスさまも十字架に恐れに襲われたのです。「その復活の姿にもあやかれるでしょう。」というように十字架の死、恐れは、イエス・キリストのうちに起きましたが、私たちを襲うこの世の最も力ある死をも相対化して、どんな状況、―「なにゆえ、なにゆえ、あなたはお見捨てになられたのですか」―に陥っても復活という命に育まれる、希望へと導かれるのです。

世を超えるのです。「6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」私たちはキリスト・イエスに結ばれ、神に対して生きているのです。キリスト・イエスからすれば、キリスト・イエスは、私たちと結び、私たちに対していつも生きていてくださるということです。

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迫害の苦しい、恐れの中に、雀、一羽さえ、天のお父様のお許しがなければ、地に落ちることはない、と言われた。イエスさまが雀を私たちのところによこしてくれましたとキリスト・イエスに結ばれ、キリスト・イエスがいつも私たちと結んでいてくださり心からの弟を励ます言葉となって出てきます。刑務所の壁のそばで讃美歌を歌って夫を励ます歌となっていきます。

「流配先では660名にも及ぶ人々が殉教したといわれます。長く続いた苦難に耐え、浦上キリシタン達は「旅」から帰ってきたのです。しかし、帰村した人々には、家や財産はありません。食べるものにも困る生活。それでも長く苦しい「旅」に耐え、帰還した浦上キリシタン達が真っ先に求めたのは、魂の拠りどころである神の家、教会堂(浦上天主堂)でした。かつて踏絵を強要された庄屋跡を買い取り、質素ながらも仮聖堂を建立。かつての赦しをここで祈りました。正面双塔にフランス製のアンジェラスの鐘がつけられた石と煉瓦造の堂々たるロマネスク様式の大聖堂が完成したのは、起工から30年後の大正14年(1925)のことです。貧困に苦しみ、なかなか資金が集められず、長い期間、耐えに耐え、自ら労働奉仕を行って手にした自分達の教会堂でした。」       (「長崎県におけるキリスト教史」より)

今、凄い早い大きな社会変化の中で翻弄され、恐れに襲われ、体は硬直し、その心はおびえ、生きる喜びは消えて、暗い闇の中に閉ざされてしまいそうになっている私たちに「恐れるな」と浦上4番崩れで苦しんだ信徒に語られたと同様、語られ、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生かされてキリストに見守られています。私たちは新しい命を生き、希望をもって、歩み出され者です。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

沖縄では4人の一人が20万人の方がなくなった、沖縄戦終結した6月23日は「沖縄慰霊の日」です。

私は沖縄戦の悲劇を忘れずに「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」と私たちに語りかけてくださっているイエスの言葉を自分の言葉、心、肉としなければいけないといつもこの日に決意をするが、世界の現実は遥かに遠い。しかし、私はイエスさまの言葉にこだわり続けたい。

 

 園長・瞑想?迷走記  

主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。詩篇5:4                                   

入園、進級して、3ケ月がたちました。それぞれの違いがあっても、こどもたちは、生活のリズムをつかんできました。年少組さんも一緒に礼拝を守り、祈ることが出来るようになりました。子どもたちは、何を神さまに祈っているのでしょうか。祈りは神さまとのお話する大切なことです。

私の好きな讃美歌があります。

汝が母の頼む神の/みもとには 来ずや/小鳥が巣に帰るごとく    心やすらかに/春は軒の雨秋は庭の露/母は涙乾くまなく 祈ると知らずや

私たちは、誰かに祈られています。息子二人は中学から私たちの手元を離れ、中高大学と寮生活に入りました。家内は口数の少ない人で子どもたちが何をしても口出しをしない煩い人ではありませんが、田園調布ルーテル幼稚園出身で、幼い時から祈りが身について、いつも二人のために気をとめ、「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。」と祈っていました。母の祈りは息子たちに聞こえませんが、汝が母の頼む神は祈りを聞いてくださっていました。神が祈りを聞いてくださり、必ず子どもたちを守って下さると信頼しているからです。

もう夏休み、早いですね。すばらしい夏休みを神さまに守られて過ごされるように日々、朝ごとに祈っています。夏休みを楽しんでください。                  (7月の「園だより」)

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日毎の糧

聖書:89:2 主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。わたしの口は代々に/あなたのまことを告げ知らせます。          詩編89:2

 

ルターの言葉から

 このように、神は、私たちに対する慈しみと愛の福音のうちに自らを示されました。それは、いかなる人をも喜んで受け入れ、だれも軽蔑せず、私たちのあらゆる悪を赦し、決してきびしく追いやることのないものです。福音はまことの恵みを知らせ、その恵みによって、私たちを救い、愛の道で囲んでくれます。ここでは、だれもが自分の価値や働きによって扱われることがありません。今は恵みの時ですから、あらゆる人は、完全な信頼をもって神の御座に近づくことができるのです。                                                      1522年の説教から

『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

慈しみにより

53節に及ぶ長い詩篇で、イスラエルの歴史、つまり神の足跡をみながら、そこに一環して貫かれているのは、神の慈しみと真実であると詠う。ルターは、「その恵み(慈しみ)によって、私たちを救い、愛(真実)の道で囲んでくれます。」と語ってくれます。

先日、二人のルター学者を天に送りました。追悼記念会と葬儀に出ました。T牧師は、卒論の指導教授であり、S牧師は神学校で一緒に生活、N教会での前任牧師、長男も家内もお世話になった方でした。

葬儀の説教を聞きながらお二人が、大きな事をなした方というよりも、その恵み(慈しみ)によって、私たちを救い、愛(真実)の道で囲まれた牧師として、学者としての人生であったということを感じました。ルターの「恵みのみ」という生きる幸いを説教からいただきました。だれもが自分の価値や働きによって扱われることがないような私たちが神の慈しみに生かされています。詠いましょう。主の慈しみをとこしえにわたしは歌いますと。

祈り:神の慈しみによって、救いと神の真実に生かされていることに感謝し、神の慈しみを歌いつつ歩むことが出来ますように。

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大森通信

伝道45年   「牧会」

4.共働牧会・・・3.「共に」   

共同牧会は、イエス・キリストの愛の業を果たすための業です。

「共同牧会の目標は、洗礼を受けたすべてのキリスト者が、神から与えられているさまざまなたまものを認め、活用し、統合する方法を見つけることになります」①

総会資料の最後の頁に「教会組織」という項があります。私たちの教会は、「洗礼を受けたすべてのキリスト者」だけでなく、キリスト者となっていない人も、神から与えられているさまざまなたまものを認め、活用し、イエス・キリストの愛の業をなしてくださり、共に助け合っています。

また、組織にない活動もあり、人が加わり大森教会となっています。

それだけでなく、教会は他の教会、働きに共に協力をし助けて、証ししています。クリスチャンであるかどうかとか、他教会であるかどうかということを越えて「共に」という意識をもって、集まり、奉仕の業をする。これが協働牧会です。その組織作りこそ、今の時代に、求められる大切なことではないでしょうか。

参考文献:「共同司牧をめざして ローラン・ソフィールド、キャロル・ジュリアーノ著 アンドレア・ボナッツィ訳 新世者

大森日記)ルター学者・徳善義和牧師の召天の追悼記念礼拝。公私に渡り、お世話になった。私としては学者と言うよりも牧師だった。)今日は説教者の神学生がコロナ濃厚接触者になりこられずに説教を代読。送られてきた説教は10.5ポイント。これでは読めずに14ポイントに変換。無事に代読が出来る。)ルター学者の鈴木浩牧師の葬儀。これからのルター研究がどうなるかふと思う。)庭に水遣りを数回、そうか明日は夏至。本格的夏の到来。)早朝に起きて、説教、聖書研究など準備、そして子どもらを迎える掃除と習慣づけている。これも今年まで。デンマーク牧場福祉会の評議員会。誇りある仕事。)W姉が久しぶりに教会に来られ園児と一緒に礼拝が出来て感謝。雨の中を聖書の学び、祈り会。