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聖霊降臨後第7主日(7月16日)「神の言葉」

ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。マタイ福音書13:8

【説教要旨】

18「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。 19だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。 20石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、 21自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。 22茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人であるとイエスさまは言われます。私たちは、こんな存在です。私たち自身がよく分かっていると思います。しかし、私たち信仰者は、23良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのであるということを誰よりも強く願うものです。この矛盾の中で私たちは悩み、苦しみます。パウロは、18わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 19わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 20もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 21それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。 22「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、 23わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。 24わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうかと悩み、苦しみます。

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そんなとき13:9 耳のある者は聞きなさいと今日の譬え話を聞きます。神様の言葉が「種」であるとイエス様はおっしゃるのです。イエスさまは多くの言葉を弟子に、人に語ってきましたが、なかなか理解されなかたことが福音書で書かれています。

イエスさまの言葉は、私たちには理解してもらえないこともあるでしょう。しかし、譬え話は、どんなに理解されなくても、蒔き続けよ、語り続けよという神のみ心をみ心としてイエスさまは、神様のみ言葉を蒔き続けること、語り続けるのです。

道端であっても、石だらけで土の少ない所であっても、茨の土であっても蒔き続けるのです。

イエスは、み言葉を蒔き続け、働かれています。

55:10雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種蒔く人には種を与え食べる人には糧を与える。 11そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。

決してイエスさまの撒かれたみ言葉の種は、そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らないのです。

15年間、教会、幼稚園の庭の世話をしてきました。ここでいつも心がけたことは、それぞれの花にあった良い土を作るという事です。砂地の土に、落ち葉を集め、特にどんぐりの落葉樹は良いたい肥になりました。これも数年かかりました。もうごみとして落葉を捨てることはありません。当たり前と言えば当たり前ですが、土は作っていくものです。

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ここで私たちは良い土であれと言われているのでしょうか。

違います。天地創造のとき私たちははなはだ良かったと神は言われています。

そして種は蒔き続けられます。神はじっと忍耐され蒔き続け、私たちが良い地となるように育ててくださいます。私たちは良い土とされるのです。

パウロは次のように表現します。

もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

ローマ信徒への手紙8:11

種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなったという収穫を私たちは手に入れる存在とされていくのです。何よりも大切なことは、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった私、自分に対する信頼、これが分かれば隣人も実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなる存在であるいうことが分かります。実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった私たちは同時に「11そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。イザヤ55:11」神の使命を果たすものに変えられていくのです。この収穫を自分のものだけにするのでなく、隣人のために収穫を投げだす使命が与えられるのです。これが伝道、宣教です。

今、時代の変化の中で私たち信仰者は私たち自身に信頼を置けずになってきています。それでは時代に応えていけません。良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなったという収穫を得た私たちであるということに気づき時代に挑戦していきましょう。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

ハリウッド俳優労組がストに入る。ここまでは普通なことである。人間に変わってAIが仕事を取るという懸念があり、今回の交渉事の重要項目で、AI人工知能をどう制限するかということである。

歴史学者、ハラリ氏は、テクノロジーとサビエンスの未来を「人口知能が人間の能力を凌駕するようになったとき、そしてコンピューターがあなた自身よりもあなたについて詳しく知るようになったとき、資本主義や民主主義、自由主義は崩壊するだろうか」と問うている。簡単にいえば、人間を必要しなくなったとき人間はどう生きれば良いかということである。単なる

組合のストでなく、実はこれから人間どう生き、進むかと問いかけるストであるということです。それは急激にあらゆる世界に起こっています。そして、それが統合されず、ばらばらに起こっていることに人間は不安の中にいます。宗教もその在り方を根本的に問われているのです。ここを深めていきたい。

 園長・瞑想?迷走記                                     

今週から園は夏休みに入る。3階の牧師館の窓から園庭で遊んでいる子ども見ると、いつの間にか大きく成長し枝をはった桜の木2本、楓の木一本は緑の葉をつけて子どもたちが木々の葉っぱの間からしか見えなくなっていた。知らぬ間に大きく成長して、子どもたちを夏の暑さから守るように園庭に覆いかぶさっているのに感動をした。この木の下で遊んでいる子どもたちも知らぬ間に成長し、多くの人を庇護する人となっていくのだろうと思う。「成長させて下さるのは神である」というパウロの言葉を思い出した。

私たちが子どもの成長にできることは、小さな力でしかない。私の出来ることは、この小さな庭の木を引退まで大切にしていくことだと思う。

桜、桜んぼうの木が2本、梅、アーモンド、オリーブ、楓、枇杷、沈丁花の木が一本、どんぐり、イチジクの幼木、・・・・・。多くの種類が境内地にある。

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日毎の糧

聖書:お与えになる多くのしるしを見て/地の果てに住む民は畏れ敬い/朝と夕べの出で立つところには/喜びの歌が響きます。          詩編65:9

 

ルターの言葉から

 自分の心に負担を感じていてうまく祈れないから、祈りを学ぼうとしないとあなたが言っているうちは、あなたは決して祈りを学ぶことがない。

『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』                         湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館

 

朝夕

 日本のルーテル教会の社会福祉事業を築いたモード・パウラス先生は、実に祈る人でした。朝早いとき祈り、この祈りの時に、イエスさまがお入りになられる一瞬だったと回顧している。「自分の子どもらしい信仰を支えるため、東の空に朝日がさすころ、イエスが慈愛園におはいりになるのだと考えるようになった。」

彼女は単なる社会福祉事業家でなく、祈りの人であり、信仰者であった。彼女は多くの困難のことと出会いながらも、イエスさまと出会い、お与えになる多くのしるしを見て/地の果てに住む民は畏れ敬い日々を歩んでいたのではないだろうか。 「イエスが慈愛園におはいりになる」とは、人間を超えた存在と真剣に向き合う彼女の信仰の姿勢、霊性があった、それゆえに朝と夕べの出で立つところには/喜びの歌が響く者とされたのです。

朝と夕べに、私たちのところにイエスさまはお入りになり、私たちとつながってくださいます。私たちは一人でなく、いつもイエスさまと共に

おり、お与えになる多くのしるしを見て、イエスさまを畏れ敬うことを私たちの内に気づかせてくださいます。同時に他者と共に生き、自分を愛するように人を愛することができるようにしてくださいます。神を畏れ敬いつつ朝に夕に祈りをささげていきましょう。

祈り:朝夕に祈りをください。あなたと共に生き、同時に隣人とも生きる勇気を日毎、お与えください。

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大森通信

「引退の準備」

     伝道45年

 4.共働牧会・・・6.「共に」  

久しぶりに「ステファノ・ミニストリー」という言葉を聞き懐かしく思い出しました。当時それを推進していた西明石教会の勝原忠明牧師を迎えて勉強し、福本秀盛、浅野直樹牧師、ガブリエルソン宣教師と西三河の4教会で共同牧会と言うことで実行しました。

「ステファノ・ミニストリーは、教会の牧会の働きを具体化するシステムです。・・・・・・・とくに、信徒の霊的な配慮、実際的な配慮をここでは考えるとよいでしょう。従来、牧会・ミニストリーは牧師・教職の働きと考えられていました。・・・・しかし、ミニストリーの働きは、牧師とともに信徒も担うことのできるものです。ステファノ・ミニストリーは、信徒がレイミニスター(信徒牧会者)として奉仕できるようにするためのシステムです。」(クリスチャン・ケアギヴィングー実りあるクリスチャンライフのために ケス・ハウク著)

確かに4教会を信徒、牧師が協力し、共働牧会をし、活性化していきました。この宣教の方法論は今も間違っていないと思いますが、しかし、ここから福本牧師が引退、宣教師の帰国、牧師の転勤があり、十分に継続されなかったことが残念な思いであります。今、新しい宣教を模索している時、ステファノ・ミニストリーを取り入れたらどうだろうか。

大森日記)今日は宣教ホーラム。加藤兄が発題をするという。私は、引退の準備。)教会学校の最終日。コロナの影響で出席者を回復出来ていない。8月20日にデイ・キャンプを開くまできたことを感謝。神学生のインターン前の勉強時間。)東京は強烈な暑さ、九州は集中豪雨。会長としての最後の仕事。九州の保育園、幼稚園の状況を聞くために電話。幸い影響なし。)説教、聖研の準備をし、zoom招待を送る。)大山兄が被災地・田主丸なので状況を聞く。被害なし安堵。)日陰に残りのインパチェンスを植える。夜は聖書を学ぶ会。最終日。)幼稚園は修了式と年長のデイキャンプ。ほっとだが次は夏季預かり保育。