聖霊降臨後第6主日(7月9日)「望まないことに支配される」
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。 ローマ信徒への手紙7:24-25
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 マタイ福音書11:28
【説教要旨】望まないことに支配される
信仰の父祖は「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、先祖の列に加えられた。」、モーセは「モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。」とあります。十分に生きた信仰者の物語が語られています。しかし、この偉大な信仰者の人生のそこには、苦しいこと、重荷を担わなければならない人生そのものでした。
今日の日課の口語訳聖書を読みますと、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。」とありますように、すべての者が重荷を負い、苦労しているというのです。例外などはないというのです。仏陀の教えに四苦八苦(一切皆苦)とあります。生きること、老いること、病むこと、死、愛する者との別れ、憎む苦しみ、求めても得られないこと、執着すること、生きるとは苦しみで思い通りにならないということです。長い人生の中で、実に重荷を負い、苦しみ、疲れるのです。自分にはどうしようもないところで重荷を負い、苦労し、疲れていく、そんな人生が誰でもあるし、起こりえる。
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もしそのような一切皆苦の世界であっても、どこかに心優しい救済者がいて、私たちに救いの手をさしのべてくれるというのならありがたいことです。ここで「軛を負い」という言葉があります。本来、軛は、牛やロバが働いているときにつけられているもので、しんどいものです。仕事を終え、休むときは軛をはずすのですが、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」とあるように軛を、しんどい思い、重荷、苦労を負えと言うのです。負うばかりでなく、「安らぎを得られる。」というのです。
ここでもう一度、み言葉に注意しましょう。軛について「わたしの」、つまり「イエス・キリストの」という言葉がついています。
わたしたちが負っている軛はわたしの軛でなく、イエス・キリストの軛であるというのです。わたしたちが負っている重荷、苦労はイエスさまが負わせられるということです。その軛は人にとって、耐え難い重いものです。負うことなど到底できないものです。しかし、イエスさまはそれを「わたしのーイエス・キリスト」の軛ということです。わたしの負う重荷、苦労は、イエスさまのものであるといわれるのです。ここに不思議さと恵が隠されて居るのです。
わたしたちの軛が、負いやすく、荷は軽いのでしょうか。それは、「軛も荷も」、イエスさまが与えてくださったものだからです。軛、重荷、苦労は、わたしたちのものであり、わたし一人が負っているということではないのです。同苦二人ということでしょうか。
「わたしに学びなさい。」と言われるイエスは、十字架において、神の軛と荷を負われたのです。その軛と荷を負うことこそ神の栄光が隠されていることを示されたのです。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」とはこういうことです。
イエスさまが背負われた。ここにわたしたちの休みがあるのです。
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死の病、結核に襲われた信仰詩人・八木重吉は、その病気が自分だけでなく娘の命をも奪ってしまうという苦しみまで負されました。苦しみをさらに苦しみが増し、重荷が増します。
むつかしい路もありましょう。
しかし、ここに確かなわたしに出来る路がある
救ってくださることを信じ
わたしを投げ出します
私たちが生きていく、それは実にむつかしい路であるかもしれない。しかし、この路にいつも共にいて路を開いてくださるイエスさまがいます。ただ、わたしたちは神の軛と荷を負われたイエスさまに身をゆだねることです。ここに「休み」があるのです。ここでいう「休む」という言葉は静止して止まっているということでなく、これからやるぞという生きる力を得るような休みです。新しい命への力が湧いてくるのです。わたしたちは難しい路を歩んでいますが、これからやるぞといって一歩を一歩をふみだすことのできるような確かな路をも同時に歩んでいくことが出来るのです。
イエスさまは、私たちの重荷、苦労をご存知です。そしてだれもが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と、わたしのもとにイエスさまのもとに招きを受けいれてくださいます。
充実人生とは悲しみや苦しみが無い人生をいうのではなく、むしろ悲哀や苦難を歩き、ここでいつも「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と聞き続け、従うことです。
わたしたちが重荷と疲れで悲劇的な諦めや反抗的に怒って歩む生き方と違い、人生の苦悩―むつかしい路―に対して、それがたとえ暗い谷間であっても、「わたしの軛」と、苦しみを一緒に負ってくださる生けるイエス・キリストと出会い、いっそう強く神に信頼を置かざるを得ない路―ここに確かなわたしに出来る路がある 救ってくださることを信じ わたしを投げ出します―新たな命を生きる福音への招きを生きることです。
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牧師室の小窓からのぞいてみると
日本の「少子と高齢人口」を見ると、0歳から15歳までの人口比率は11.9%、65歳以上は28.6%とあり、世界の平均、先進国7ヶ国の平均を子どもでは下回り、老人では上回るという調査結果がでた。
だからと言って、少子化を止めて、子どもを増やせばよいというようなことで解決するものではないと誰もが分かっている。ある人は、社会全体をリセット、「‘ご破算で始めよう‘」と言っている人がいる。
いつも言われていることだが、根本から直さなければならないということである。今までの思考、やり方では通じないということである。
そういう社会にあって、教会の姿はどうあるか。教会も若者が来る教会という小手先のことでなく、「‘ご破算で始めよう‘」と根本的に変わらなければならないと思う。
園長・瞑想?迷走記
園の庭ではいくつかのハーブを育てている。子どもたちにも臭いを嗅いでもらい、草の感触を体験してもらっています。ドクダミの葉の臭いを嗅がすと、「臭い・・・」と一言、「これが体の毒をとってくれるんだよ」と一言。
保護者とは、桑の葉、ドクダミの葉、赤紫蘇、ミントなどハーブの葉を通して、話を広げる。今は、ミントの勢いが良い。幼稚園の仕事のことできている保護者にミントティーを提供したり、ミントを中心にミントの効用などの話をする。「胃にいいですよ」、「私、胃が弱く、飲んでみようかしらん」、と話が弾む。赤紫蘇の苗をあげた保護者から赤紫蘇のジュースを作りましたと嬉しい話。
草花を通して人と人とが交流していく、自然は大きな恵みをはこんでくることをこの夏も実感している。
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日毎の糧
聖書:主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈るわたしの声に耳を向けてください。 苦難の襲うときわたし/あなたは必ず答えてくださるでしょう。 詩編86:6~7
ルターの言葉から
結局、短く、だが、頻繁に強く祈るべきである。なぜなら、神が問 われるのは、どんなに立派に長く祈ったかではなく、祈りがどんなによく、また、心から湧き出しているかだからである。・・・・・・・・・・・・・・
私の心は、神に向けられて目覚め、私は神を讃美し感謝して、苦難のときには神を避け所とし、神の救いを待つ。この一連の結果として、私は、神がどのような方であるかをますますよく学ぶようになる。そして、私が、神を求めて戸を叩くので、さらに神はお喜びになり、ますます豊かにお与えになる。(「山上の説教」)
『ルターの言葉 信仰と思索のために』W.シュパルン編 湯川郁子訳 教文館
祈りの教本
詩篇86篇は、さまざまな理由で苦しむ私たちを想定して四つの短い祈りからなる祈りの教本である。
神は、私たちの苦しみをご自分の苦しみとされ、私たちが心から湧き出して行く祈りとなるように導いてくださいます。
詩人は、神を慈愛ある方として、詩の中心に据えて、「苦難の襲うときわたしが呼び求めれば/あなたは必ず答えてくださるでしょう。」と詠う。「主よ、あなたは情け深い神/憐れみに富み、忍耐強く/慈しみとまことに満ちておられる。86:15」と。
私たちは苦しみから心から湧き出る祈りをし、祈りから私たちは慈しみ深い神があなたの慈しみはわたしを超えて大きいことを知ります。祈りつつ一日一日を神の慈しみの内に平和の中を歩んでいきましょう。
祈り:朝夕に祈りつつ、神の慈しみを教えられ、感謝、讃美して雄々しく強く歩むことができますようにしてください。
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大森通信
「引退の準備」 伝道45年 4.共働牧会・・・5.「共に」 今、ロシアのウクライナ侵略が象徴するように、両者が対話するというよりも一方的に相手を力によって、ねじ伏せようとすること、また、対立解消のために、両者に対話を仲介するというよりも、どちらに立つかという対立軸をはっきりさせていく世界は「共に」生きるというよりも、対立の時代になっています。 時代を反映するように、教会内においても共にということが崩れています。驚くべきことは日本福音ルーテル教会と同じ歴史を歩んだ宣教団体フィンランド・ルーテル福音協会(LEAF)が、日本福音ルーテル教会と協力関係を破棄するということが決定されたということです。教義の違いからです。 札幌、池袋、大岡山、飯田、諏訪教会を共に開拓伝道し、戦争中、逃げ遅れた宣教師は軽井沢に閉じ込められた苦しい日々を過ごし、戦後、ふたたび一緒に宣教した。約130年を共にイエスさまを伝え歩んだ歴史はつまらない教義論争で吹き飛んでしまうようなことでしょうか。 共同の危機です。 |
(大森日記)土)掃除、礼拝、役員会準備、zoom配信。読書と一日が過ぎる。日)教会学校の幼稚園からの出席者が少ないのが気になる。教会学校のお誘い、4年ぶりに開くデイキャンプのお誘いのチラシ配る。早速、礼拝後、祈り会、女性会がデイキャンプ夕食の協力の集まり、役員会と、共に宣教。月)最後の牧師シャツを作りに四ツ谷に行く。朝から書庫の本の箱詰め。火)聖研の準備をし、zoom招待を送る。水)花壇の夏花の苗代金を支払に行く。近所の信徒さん宅に週報などをポスティング、訪問。木)役員会、ヌーンサービス入園説明会、聖書の学びと時間が流れる。金)K兄を訪問途中に卒園生と合う。今週は多くの卒園生と合う。