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聖霊降臨後第19主日(10月8日)「信頼」

わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。     フィリピ信徒への手紙3:7-8

イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。          マタイによる福音書21:46

【説教要旨】            「信頼」

本日の福音書の日課はイエスさまの譬え話で、説教し難い個所です。ぶどう園はしばしばイスラエルを、農夫たちはイスラエルの指導者を、僕たちは預言者たちを、主人の息子はイエスさまを指します。

イエスさまはしばしばイザヤ書を用いてお話をされます。第一日課は、イザヤ書5章です。わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り良いぶどうが実るのを待った。

神の恵みと愛に包まれたイスラエル民が示されています。しかし、彼らは過度の欲望から神の恵みと愛を裏切り、僕らつまり預言者らを、ついにはイエスをぶどう園の外に放り出し、十字架にかけてしまったというように譬え話として受け止められイエスの十字架にいたるまでのイスラエルの罪が示された歴史と受け止められます。まさに実ったのは酸っぱいぶどうであった。・・イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。/主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。/正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。という世界でした。

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33節:ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。私たちも神の恵みと愛の中に豊かにあるのです。しかし、委ねられた豊かな実を産み出すぶどう園を委ねられたものであるはずなのにあたかも自分のものかのようにして、奪い取ろうとしているのです。農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。 36また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。 37そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。 38農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』 39そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』

預言者を殺し、イエスさまさえ殺す。見よ、流血(ミスパハ)。見よ、叫喚(ツェアカ)。という世界を作り出しているのです。

そこにいる人間は決して、見よ、流血(ミスパハ)。見よ、叫喚(ツェアカ)。という世界がみえていません。いやむしろ正しく裁き、正義を行っていると思っていたに違いありません。自分たちがもっている価値観、行動が中心となっていく、今回のロシアのウクライナ侵略を通して、戦争と言うものが自分勝手の価値観をもって、見よ、流血(ミスパハ)。見よ、叫喚(ツェアカ)と世界を作り出すかということをつきつけられました。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』と、力で、強さでねじ取ろうとする。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』。力と強さが是とされる社会が私たちの内にある。しかし、得たものは豊かであったが、今、私たちの足元をみるとき暗闇が覆っていないだろうか。孤独、孤立、自殺、若者らの犯罪、治安の悪化、将来への不安など・・・闇にあって不安がすべての私たちの内に広がっていないだろうか。

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このとき私たちに問われているのは、私たちが自分はどのようなものであるかということです。神が、神の像に似せて人間を作られたとは、本来は管理人としての人間であるということです。にもかかわらず、いつしか「治めよ、支配せよ、名をつけよ」というところで人間中心主義になって、神を押しのけて支配するものとなっている。それは滅びでしかない。なにか地球全体が滅びに向かって走っているように感じざるをえません。実は私たちが神から愛された中で自分が管理者として、神に遣われているというところに人としての尊厳、生きる喜びがあるのです。マザー・テレサは自分を神の描く筆であるという。神から管理されることを任されているから、私たちは人に対する神の恵み、愛が伝わってくるのです。神の愛と恵みの守りで生きる存在となった人、そこに生きる意味を見出せるのです。

イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』

私たちが捨てたはずの神、イエス・キリストが私たちの親石となって私たちを支えていてくださる神の恵みと愛に育まれ、ここに私たちが立つように今日もイエスさまは十字架にかかっていてくださっています。どんなに暗闇が私たちを覆っていても私を支えていてくださる神さまが、イエスさまがおられることを信じ、希望をもって任された世界を良き管理者として、為すべきことをパウロは私たちに示しています。

わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今

では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。

今の時代にあってはこう信じる者はうつけで、たわけものの少数者かもしれないませんが、これが十字架のイエス・キリストを信じる者、少数者の神への信頼です。

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牧師室の小窓からのぞいてみると 

2014年出版された「義認と自由-宗教改革500年 2017」(ドイツ福音主義教会常議員会 訳・芳賀力 教文館)で、他人の評価と断罪が鋭く、楽しんで嘲笑するかのように侮辱的態度を取っていると「社会からの挑戦-あまりに人間的な価値観の批判」という項にある。そして10年の今、インターネットの発展でSNSを使った批判は度を越しているように感じる。

今までの体制を支えていた教会は、まさに社会からの挑戦を受けている。変わらないのは、「神の恵は人格と業とを区別する」ということである。さて、私たちはこの挑戦をどう具体的に受け止め、応えていくかである。

 園長・瞑想?迷走記                                     

「力まなくて良いよ」

  羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。         ヨハネによる福音書10:16

年長さんの「りんご狩り(一泊園外保育)」で、子どもたちは楽しく過ごすことが出来ました。そして、何よりも友だちの絆が強くなって、一つとなったのではないでしょうか。

「羊は一人の羊飼いに導かれ」という「羊飼い」は、イエスさまです。子育ての中で、子どもたちは親の思っているような思いとは違って、時には困ったというドラマを作ってくれます。二人の息子を育て上げ、実感しています。よくここまでこられたと。この道を導いて下さっているのは、神さまが羊飼いとして導いてくださるという信頼でした。親の力ではありません。

古希を迎え、来春引退する私たち夫婦のために子どもたちは色々と配慮をしてくれています。家族が一つであるという幸せな気持ちでいます。これも神の導きと実感しています。みなさんも神さまに導かれ、家族が一つとされます。力まず、子どもとドラマを作っていましょう。(10月園だより)

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日毎の糧

聖書:万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。      詩編80:8、20      

キリストは私を連れ帰り

 「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。マルコ1:17」、イエスさまの弟子召命の物語である。「万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り」という祈りの結実である。イエスさまはいつも私たち一人一人を招いてくださいます。私たちはいつもイエスの招きの中にあるのです。私たちがどんな境遇にあっても私たちの心に「わたしについて来なさい。」というイエスさまのお声が響くようにこの詩人のように祈りをささげていきまししょう。

もう一つの新約聖書の物語は、迷い出た羊を探し、「見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、ルカ15:5-6」という物語です。

神から離れた者を探し、まさに連れ帰る神なのです。

「御顔の光を輝かせ」とは神によって私たちの生きる道がイエスさまの光によって清められ、私たちが正しい歩みが出来るということです。

マタイ福音書は、迷い出た羊の物語を次のように結びます。「18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」、これが神の御心です。今日もイエスさまは迷い出た羊を探し、神の所に連れ帰してくださいます。平安の内に今日も歩みましょう。

祈り:神よ、いつもあなたの所に連れ帰してください。

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大森通信

「引退の準備」 9.整理  

 今週、76歳を前にして、天に帰られた牧師さんの葬儀に参列した。同じ城南神奈川地区で、働き、大森教会にリードオルガン設置に努力してくださった。

70歳を迎えて、そして76歳で天に帰られた方々を思い出しつつ、自分も数年かと自分に呟く。同年齢の家内も後数年かと思うと家内と歩んだ日々を思い出し、ただ感謝で一杯になる。

9月に召天された森補佐司教が「人生を支え、老いを照らす光(女子パウロ会)」で、「死後の世界は、神だけわたしたちを待っているわけではないのです。わたしたちが幸せになることを願っていてくれた両親を先頭に、数知れない友人、恩人たちが待っていてくれるのです。天国はそうした人々の再会です。・・・・・・・・・・・したがって、老年期は死後、天国に行ったとき、感謝とごめんなさいを、数知れない恩人たちに言ってまわる備えのとき、・・・」といわれている。

森司祭ほどではないので、引退前にまずは家族に感謝の言葉をかけ思うようになった。葬儀の帰りに長男の所により、時間を一緒に過ごし感謝の心を伝えた。家内と次男には肉まん551を購入して感謝の思いを(笑)。今は、感謝とごめんなさいを、数知れない恩人たちに言ってまわる備えのときだと心にもって終わりまで生きよう。

大森日記)主日の準備をして、明日を待つ。)教会学校、通常礼拝、夕礼拝。幼稚園の制度が大変化で日々、対応しなくてはいけないので役員会・幼稚園運営を開く。同時に女性会がガレージセール。)同じ地区で働き、リードオルガンの道をつけてくださったS牧師の葬儀で神戸に。感謝。)秋へ向けての花壇の整備。剪定。)夜、保護者のお父さんと会い、一緒に帰る。「いつも庭を綺麗にしていてくださりありがとうございます」と一言。勇気をいただく。木)ヌーンサービス、数は少ないが讃美の時、「聖書のまなび」と祈り時。)めっきり秋めき秋花壇の準備だが花の苗が満足いくものが手に入らない。猛暑のためか。