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聖霊降臨後第18主日(10月9日)「信仰は自立の道」

13わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。・・・・15あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。       2テモテ2:13,15

16そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。 17そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 18この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 19それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」        ルカによる福音書17:16~19

【説教要旨】「信仰は自立の道

聖書の日課は、「信仰」についての日課が続いて、私たちは信仰についてみ言葉をいただいています。

今日の日課はハンセン氏病に罹った10人が、イエスさまに癒され、癒された人の内、一人が感謝してイエスさまの所に返って来た有名な物語です。イエスさまに感謝するために返ってきた人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と語ったイエスさまのみ言葉に聞いていきましょう。

「あなたの信仰」とはどのような信仰でしょうか。森一弘司祭は、「いやされていることに気づいて感謝のためにもどってきた男に向かって、イエスは言われました。「あなたの信仰があなたを救った。」と。

感謝のためにもどってきた男は、イエスの愛と力に、より深く、より確かにつながれたのです。彼の心に、より深くイエスがはいてこられたのです。それが彼の救いとなったのです。あとの九人は、病がいやされても、このあとも自分勝手、自分中心な孤独な生活を続けたのではないかと思います。」と説教されています。

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「あなたの信仰」とは、イエスの愛と力に、より深く、より確かにつながれ、心に、より深くイエスがはいってこられ、自分勝手、自分中心な孤独な生活でなく、イエスさま、神さまと共に歩むということです。

「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。」ということです。キリストの真実、キリストの愛と力に生かされていることを信じるということです。キリストとより深く、より確かにつながり、立ち上がって、前へ進む道が私たちに与えられていくということです。

現役の牧師として後、一年半を切りました。44年間の牧師生活で良い出会いと感化を受けました。静岡にいたとき、飯野保路牧師からお父さんの飯野十造牧師の話を聞きました。戦前、戦後、ハンセン氏病患者の人への伝道をされた方です。安倍川の河川敷に生活せざるをえなかったハンセン氏病の方を訪ねみ言葉、衣食、医療を届ける宣教活動をしていました。(現在では許されないことですが、当時の隔離政策の中での活動でした。)

きかっけは、「「或る日曜の晩」集会が終わったあと、一人の青年が今晩泊めてほしいといい、「救い」について話し合っているうちに、今晩一夜だけ先生の床の中に入れて抱いて寝てくれませんかと切り出した。「一緒に休みましょう」と答えた私の目の前にあらわな両手が出された。ライ患者だった。
「彼は驚天した。ああ、シマッタと心の中で叫んだ、彼はその手を見せられた時、同衾(どうきん)する勇気も、愛の心も失せてしまった。心中に働いているものは、恐怖と嫌悪とであった。されど一方に、神の愛とキリストの忍耐の働いていることを認める大戦争が開始された。」と率直に述べている。(「先覚者シリーズ 跡導(みちしるべ)~静岡の福祉をつくった人々~」静岡社会福祉協議会ホームページ」

ここから十造先生は、安倍川のハンセン氏病の方と深くかかわって衣食、医療を届けました。当時、無謀だと思えるハンセン氏病の方への宣教を心中に働いているものは、恐怖と嫌悪とであった。されど一方に、神の愛とキリストの忍耐の働いていることを認める大戦争が開始されたと受け止めなされたのは、イエスの愛と力に、より深く、より確かにつながれ、心に、より深くイエスがはいってこられ、自分勝手、自分中心な孤独な生活でなく、イエスさま、神さまと共に歩み、ハンセン氏病の方への愛の宣教が起こされたのではないでしょうか。まさに「あなたの信仰があなたを救った。」という恵みによったのです。

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「立ち上がって、行きなさい。」というイエスの愛と力を受けて心中に働いているものは、恐怖と嫌悪とであった中で、安倍川のハンセン氏病の方々に向かい愛の業を行えたとのだ思います。

大森教会が70年を終わろうとして、70年を振り返るとき、そしてこれからの70年を進むとき、私たちが歩を支えた教会につらなったひとりひとりの「あなたの信仰」によってここまで来られたと思います。イエスの愛と力に、より深く、より確かにつながれ、心に、より深くイエスがはいってこられ、自分勝手、自分中心な孤独な生活でなく、イエスさま、神さまと共に歩んだからここまで来られたと思います。私たちは、宣教初期の宣教師時代を除き、古財牧師以来、苦労しながら自立してきました。幾多の困難があっても幼稚園を宣教の業と受けとめてきました。

これからの70年、厳しい時代がやってくるに違いありません。いつの時代も厳しいものがありました。この厳しい時こそ、教会は世に求められています。

自分勝手な、自分中心の自己保存的なことでなく、世が最も必要なことに愛の業をしていかなければ塩の効き目がなくなり捨てられます。しかし、私たちは小さな、小さなものですが、何が出来るかということより、イエスの愛と力に、より深く、より確かにつながれ、心に、より深くイエスがはいってこられ教会の一人一人として、「立ち上がって、行きなさい。」というイエスのお言葉をお言葉として何をするかという一人一人とされています。私たちは、私の隣人のためにひとりのキリストになるのです。「あなたの信仰」によって、神の恵みの下で自由とされたゆえに、私たちは愛の業がなせる存在として何物にも縛られない自由があるのです。

感謝して毎週、毎週、イエスの所に帰り、イエスの所から隣人へと帰って、隣人に仕える一人一人となりましょう。

それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

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牧師室の小窓からのぞいてみると

日本上空を越えて北朝鮮が弾道ミサイルの試験をした。

そのときJアラート(全国瞬時警報システム-弾道ミサイル攻撃などに関する情報などを住民等に伝達するシステム)が働き、いったいなんのことか一瞬分からずにいた。すぐに着弾したらどうなるか恐ろしくなった。そして、戦争にならなければ良いと強く思った緊張の時だった。日本でいつ起こるか分からない戦争の恐怖に怯えたとき、真の平和を求め、平和構築のために何をなすべきかを真剣に問い、実行しなければと思った。

みなが爆弾なんかつくらないで きれいな花火ばかりつくっていたら きっと戦争なんておきなかったんだな 山下清

園長・瞑想?迷走記

乗車した電車で私の横に中学生が乗ってきた。気分がいかにも悪そうで、声をかけようかと思って見ていたら、どうも我が園の卒園生のようだがマスクをかけていて確信がもてずに見守っていた。ここで、変に声をかけると見知らぬおじさんから声をかけられたと不審者に思われたらいけないので、同じ駅に降りたら声をかけようと思った。同じ駅に降りたので、声をかけると、卒園生と分かる。早くから声掛けをすればよかったと申し訳なかった。気になり夕刻、昔の連絡網を出してお母さんに体調はいかがですかと電話でうかがう。

運動会の練習で、音が大きい、他園と比べて練習回数が多いから改善して欲しいと匿名のお手紙をいただく。周りの人からすれば、当然のことかと思う。そこで、申込に対してどう園が改善処理をしたことを匿名の方で、お知らせ出来ないので、ホームページで、「お詫びとご理解のお願い」を載せた。

今までの常識では対処できない時代になったことをひしひし感じた。へんなおじさんと言われようが体調の悪い人には声かる勇気、時代の変化の中で、相手を思いやっていく配慮を失いたくない。考えさせられた2件の出来事であった。

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日毎の糧

聖書:すずめがすみかを得(え)、つばめがその雛(ひな)を入(い)れる巣(す)を得(え)るように、 万(ばん)軍(ぐん)の主(しゅ)、わたしの王(おう)、わたしの神(かみ)よ、あなたの祭(さい)壇(だん)の傍(かたわ)らにわたしの住(す)まいを得(え)させてください。                  詩編84:4

 

ルターの言葉から

   主のいつくしみが私たちの心の真ん中にあるならば、主のために苦しんだり耐え忍んだりすることは、決して重荷であったり、面倒なことであったりすることはありません。私たちはただ主の愛のうちに住むだけです。これは、みことばを喜んで聞くだけでなく、しっかりと愛にすがり、勝利を得ることを意味します。

              『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

 

神とともに

春になると印刷屋さんの軒先につばめの巣が作られ、雛が育てられています。見ているだけでもホッと出来る光景である。つばめも避難所を求めて、軒先に巣を作ると聞きます。

春になるとつばめが巣作りに遠い旅をしたようにイスラエルの人は、祭、祭ごとにエルサレムを目指して巡礼の旅をすることを大切にしてきました。巡礼の旅に疲れ、聖所に入ってみた光景は祭壇の傍らに安らぐ、すずめ、つばめでした。

巡礼について月本先生は、「巡礼者はシオンに至る道すがら、それまでの人生の歩みを顧みる。だが、神殿の中庭に佇み、«神にまみえる»とき、彼らはそれまでのすべて(«私が選んだ千日»)をこえる聖なる時を経験することになる。そのなかで、人生のあらゆる事柄はいったん相対化され、神の恩寵に生かされている自己に気づかされる。そして、そこから新たな日常が、神に«信頼する»日常の歩みが、はじまるのである。」と解説しています。人生という巡礼の旅にあって、神の恩寵に生かされ、神の傍らに生きる私を見つけていきましょう。

祈り:神よ、あなたの恩寵の日々に心を向けることができますように。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」31

世界の動き

世を生きるのが教会だか 世界の動きに影響を受ける。

大森教会は第二次大戦後に建てられた教会であった。戦後、アメリカのミッションは中国伝道に大いに力をいれていたが、中国が共産化するとアメリカミッションは中国から引き揚げざるをえなくなった。中国で働いていたアオ宣教師をスオミミッションは雇用し、大森、甲府の宣教師として派遣した。赤化していくアジア情勢を食い止めるためにマッカーサー元帥は、日本を砦として宣教師の受け入れの便宜を図った。赤化から守るために教育にも重点を置き、国際基督教大学を設立し、その中心としようとした。

朝鮮戦争以降、日本の経済発展は、青年を仕事、仕事と走らせ、教会に精神的支柱を求めてきた青年らが物質的豊かさを求め教会から去っていった。経済の高度成長は、日本を豊かにし、例えば教会が担っていた教育部分を教会に代わって、私学、国,自治体が担い、むしろ教会を圧迫し、この時期、多くの教会立幼稚園が廃園し、学校はキリスト教主義という名前だけのものとなっていった。教会の世俗化である。それは、今も止めることが出来ない。

共産主義国が崩れ、新しい新自由主義という経済活動を中心にみんなが幸せな生活を営めるようにしようとする考えを捨てて、競争によって高めようとするエゴイストチックの社会が登場し、貧富の差が増大する中で教会の取り組む課題はますます増えたが、実は教会でなくNPOが多くの課題を負っている。少子高齢化は教会も襲い、担い手の若者がいない。教会は、常に社会の影響を受けつつチャレンジを受けていることを認識し、行動しなくてはいけない。

(大森日記))主日の準備は、終わっていると思っていたが、式文の讃美歌を替えておらず、やり直し。)少しコロナもおさまり、集会、礼拝も落ち着いてきた感がある。)本、赤ちゃんが生まれた方に「育児日記」を購入。訪問と一日が終わる。疲れが取れない。)公園での運動会の練習に苦情が来ていたので今日はどうだったか気になるが今のところはない。教育、保育も難くなった。)幹事の指摘の法規の点検。)雨の合間を見て、冬、春に向けて草取り。聖書の学びも時在り。)寒い雨の中、明日の運動会が出来ますように。