1. HOME
  2. 風のように
  3. 聖霊降臨後第13主日(8月27日礼拝)「自分が変えられる」

聖霊降臨後第13主日(8月27日礼拝)「自分が変えられる」

あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。      ローマ信徒の手紙12:02

 

【説教要旨】  「自分が変えられる」

日本を代表する宗教学者である鈴木大拙氏が「人間いかに生きるべきか」という中で、宗教と社会の関りについて次のように言っています。

「法律でやれるだろうけども、それと同時にその裏に、仲よくするような«同情»、仏教の方でいえば«慈悲»、キリスト教では«愛»というものを、知らなければならないだろう。とにかく、お互い自分を知り、他を知る。その間に共通のものを見て、その共通の点から生活を割り出していくというところに、人間の社会性の根本がある。」

パウロは、12章から信仰者の生き方について語っていきます。「神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。」というように、信仰者の生き方を支えるものは、神の憐れみであり、神から与えられた恵、神の愛であるというのです。

「憐れみ」という言葉ですが、「隣の心」と読めないでしょうか。神さまが私たちの隣人となられたということではないでしょうか。マタイ福音書はインマヌエルー神共にいますと、ルカ福音書は「誰が隣人となったか」、ヨハネ福音書は「言葉は肉となって、私たちの間に宿られた」と表現します。私たちの生き方は、私たちの一つ一つの行為は、いつも神さまがともにいてくださり、支えられているということです。

-1-

神が私を憐れんでいてくださる、私に恵を与えていてくださる、愛してくださるという信仰が私たちを衝き動かすのです。

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」とありますが、神の憐れみ、恵み、愛を生きる人の姿です。罪ある自分の体を神に喜ばれる聖なる生贄までに私たちの

存在はなることができる。

礼拝に私たちの存在を聖なるものと献げることのできるものとして私たちは生かされているのです。神の憐れみと恵みと愛はここまで深いのです。

ですから、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」というのです。この世は人間の価値を比較して価値付けていきます。目に見えるものだけで判断していきます。そうあってはいけないということではないでしょうか。社会性の根本は、仏教の方でいえば«慈悲»、キリスト教では«愛»というものを、知らなければならないだろうということです。

自分のかけがえのない目に見えない価値に気づけといわれるのです。私たちは世を生きています。しかし、世を生きつつ、神の憐れみと恵みと愛に生きよといわれるのです。教会、キリストの体なる教会は、神によって憐れまれ、恵を与えられた私たちの一人一人の賜物をもって作られているのです。ですから誰一人として役にたたないという人はいないのです。また誰一人欠けても教会は成り立っていきません。

「世に倣ってはなりません。」とありますように目に見える価値あるものだけで何かをし、組み立ていく世でなく一人一人が神において賜物が与えられて組み立てられていくのが教会です。だから私たちは「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」ということを信仰生活において日々新たに心を新たにし、神の前に立つ、そういう信仰の生活をしなくてはいけないのです。

-2-

「世に倣ってはなりません。」とあります。「世」は聖書がいう神によって支配されることを拒む場所です。隣人の心を知ることができず、常に自分にしか目を向けない世界です。自分さえよければよいという世界です。

世において、自分を献げるということは起きません。礼拝がない世界です。礼拝―それは神さまが私たちに仕え、献げてくださる世界です。私たちは礼拝に生きるのです。ここでキリストにつながり、キリストのからだとして私たちは姿を表現するのです。

わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

また、同時に気づくかなければいけないことは、隣人もそれぞれ異なった賜物をもっているということに気づくことです。一方的に与えられた賜物を隣人にしていく押しつけではあってはいけません。鈴木大拙氏が言う。「とにかく、お互い自分を知り、他を知る。」ことが、隣人とつながっていくことです。

礼拝を生きるものは、神とつながり、それぞれの神の賜物を与えられていることに気づき、私たちがなすべきことをなしていく、隣人もそうであるということを知るとき、隣人と自分は一つであるということそれがキリスト者の生き方です。教会が大きな広がりをもってくるのです。広島教会の「こども食堂」にはたくさんのボランティアがいます。教会の外にいる一人一人も神の賜物が与えられ、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」というとことで一つになれるのです。「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」と問いなす現代の教会があります。

-3-

牧師室の小窓からのぞいてみると

8月15日は、敗戦記念日、いつものように千鳥ヶ淵戦没者墓地にお参りに行く。東京で最後の戦没者への祈りの時となった。初めて警察官、SPの人で一杯で、物々しい雰囲気であった。その上、持ち物検査までされる。首相が来るということからなのだろうか。一度、首相は、テロにあっているので警備が厳しくなったのだろうか。いたしかたないことである。だから、平和であって欲しい。

今年からはキリスト者平和祈祷会の出席は遠慮して、静かに夫婦で戦没者の方に手を合わせ、平和であることへの感謝と作り出していく努力を誓った。

戦後78年、「戦争の記憶は遠くに退いていくとき、戦争は近づいてくる」と言った人がいるが、実感。

平和を作り出す人は幸いである。神の子と呼ばれるだろう。マタイ福音書5:9

 園長・瞑想?迷走記                                     

台風7号が近づき、園庭にある風で飛ばされそうな遊具、掃除用具を片づける。重さを感じてしんどい。また、朝夕の掃除、水撒きも、スコールで水を撒かなくてよいと「よっかた」と心で呟く。また、片づけ終わると近所に迷惑をかけないでよかったと思うと同時に思うこと自体が神経がすり減っていくことを実感し、来年からはこのすり減りから解放されるかと思った後で、後数か月、「何もなく」と呟いている自分を笑っている。歳を取ったと実感する。引退の意味が分かる。

園長研修会で、園長職を退いた先生が、「園長を退いて、こんなに園長職が責任があり、重い物かということを実感しました。ここにおられる園長先生方、頑張ってください」という激励の言葉をいただいたことを思い出す。頑張って、次は片づけた遊具、掃除道具をもとに戻す。こんなことの繰り返しだったが、この繰り返しこそが園長の仕事だと思う。来年引退にさいして事務的に間違いないか全日、都、私立幼稚園連合会、都と相談するが、結局は自分でするしかないと分かる。後数か月、頑張ろう。

-4-

日毎の糧 

聖書:138:6 主は高くいましても/低くされている者を見ておられます。遠くにいましても/傲慢な者を知っておられます。          詩編138:6

ルターの言葉から

  ここに描かれている神の姿は、非常に特徴的です。見下ろされる方として、まことの性質を私たちに知らせています。神は見上げることがありません。神の上には何も存在しないからです。神は横を見回すこともおできになりません。並ぶものが何もないからです。ですから、神はご自分の下を見下ろされるだけです。あなたのいる場所が、低く卑しくなればなるほど、あなたを御覧になる神のまなざしは、いよいよ輝きます。

 ひとことでいえばこの聖句は、神が、低く卑しめられた者を見下ろすという表現から、神の本質を正しく教えていると言うことができます。神が低い者を見下ろすことを知っている人は、神を正しく知っているのです。このような知識から、神への愛と神に対する信仰が湧き出て、喜んで自ら神にゆだね、従うようになります。

 まことにへりくだった人は、謙遜の結果を考えません。ただ、裂けた心をもって、ひたすら低いものを見つめ、喜んでそれとともに生活するので、自分自身の謙遜さには気がつかないのです。

 『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社 

低くされる幸い

 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう。(ルカ1:48)というマリア讃歌こそ私たちの幸いを示しています。真実な幸いは、神への愛と神に対する信仰が湧き出て、喜んで自ら神にゆだね、従うようになるどんな困難さが私たちの前にあっても、勇気をもって幸いの道を歩めるのです。

祈り:目を留めて下さる神の前で謙遜でありますように。

-5-

大森通信

「引退の準備」 2.整理  

手紙の整理をしていると神学校に入った時の母からの子どもを気遣う母心が滲む手紙が出てきた。また教会信徒、牧師からの手紙であった。どんなに愛されてここまで来られたのか感じるものであった。多くの人に愛され支えられたと感謝で心が一杯になった。

ブラジル時代の牧師館に居候していた?方々が久しぶりに集まった。いろいろな話しが飛び交った。次男が生まれた時、おしめの洗濯が大変になるので、長男のおしめ離れ、トイレットトレーニングをしてくれた話、地方に伝道旅行に出ると一週間帰って来ないが、居候諸君が、母子を守ってくれていたので安心して出かけることが出来た話しなど。多くの人に家族が支えられてきたことを感じる時だった。心から幸せだと感じる話の時だった。

みんな老いて、今は忘れ物が多い、どこそこが悪いという

話であった。いつ会えなくなるか分からない年齢になった。会える時に会っておかないという時がもうないということも感じる人生の整理の時でもあった。

整理するとは、自分が歩んで来た道を振り返り、自分がどんなに多くの人に愛されて、支えられてきたかという感謝の手を合わせることではないかと思う。捨てる時でなく、人生を再び拾う時ではないかと思えるようになった。断捨離は、捨てるときでなく、拾う時である。

大森日記)研修会と墓参にいくために事務処理をする。)教会学校の礼拝、通常礼拝、デイキャンプ、夕礼拝と一日が過ぎる。女性会が中心にデイキャンプの食事作り、幼稚園先生らがキャンプの担当。皆から協力をいただく。68名の参加の子どもらは喜んで帰宅。)実家に帰り、墓参り。こんな田舎の墓を誰がこれから守っていくのだろうかと思う。)熊本でルーテル教会4法人会の研修。姜尚中氏より講演。現実とミッションという示唆に富んだ話。)法人会総会。それぞれの法人の課題と取り組みについて協議。隣人のために働く、共通すること。木)休みをいただき家内と散策)どろんこ大会。園児は楽しそう。