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祝福は用意されている 1月16日

 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。        ヨハネによる福音書2:11

【説教要旨】     祝福は用意されている

新型コロナウィルスο株の感染がすごい速さで増えてきて、また私たちの生活を脅かし始めました。今日、感染することなくても明日はどうなるか分からないという生活が2年間続いており、困惑しているというのが今の私たちではないでしょうか。また一方、感染によって、社会のすべての分野において大きく変化し、私たちの生活を直撃しているということを私たちはひしひしと感じ、受け留めて、大きな変化の中で困惑している。これが私たちの現状だと思います。

2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。母マリアがこの婚礼でどのような責任があったかは分かりませんが、婚礼の食事の席を取り仕切っていたのではないでしょうか。自分が用意していた葡萄酒がなくなる、これはピンチです。ピンチで困惑している母マリアの姿が彷彿されます。この困惑の中で起きたことは何だったのかと言うことです。2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、 2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

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イエスさまによって、水が最高の葡萄酒に変わるという奇跡、しるしが起きたということです。この婚礼の主人は母マリアの子イエスさまだけでなくその弟子を招待したという大盤振る舞いしたのです。この婚礼にどんなに婚礼の主人は力を入れていたかということが想像出来ます。しかし、この婚礼に用意していた葡萄酒がなくなり困惑するのです。自分の計画したように思うようにいかなくなった。そういうことがしばしば私たちに起こります。今回の新型コロナウィルス感染の社会の混乱もそうです。偶然かもしれないが、思うようにいかず困惑しているところにイエスさまがおられたということです。

それは、私たちが周到に計画したが、計画通りに運ばない困惑した中に私たちの思いと違う、思いを越えてイエスさまはおられるということです。「インマヌエル、神共におられる」ということです。

しかし、「2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。 2:4 イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』」という言葉です。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。」というイエスさまの言葉の言葉をどう受け留めればよいのでしょうか。

イエスさまは母マリアと言う肉親の関係を断ち切って、神の意志に従ってメシアである自分の行動をしなければいけない、母親だからといって特別になさるのではない。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。」という言葉は、メシアのはたらき「しるし」、奇跡は分け隔てなく、すべての人に神さまは起こすということです。インマヌエル、神がここにおられるということは、神と私たちのすべての所、時において起きるのである。神が私たちのうちにおられるので、すべての人が神の栄光、しるし、奇跡を与えられると言われるのです。

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「わたしの時」、メシアの時であり、私たちが考えているような時ではないのです。イエス・キリストが神の意志にもとづいて、救いのしるし、奇跡を行う時で、「わたしの時」は、必ず来るのです。だから母マリアは、「2:5 しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」のです。マリアはイエスさまに子としてではなく、メシアの姿を見たのです。イエスさまに救いを見、イエスさまの業、しるしを発見する信仰を私たちに示されたのです。「わたしの時」、メシアの時を必ずくることを信じて待ったのです。

私たちが新型コロナウィルス感染の危機で、私たちは昨日まで十分に用意して来たことが不足し、「2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』」という状況にあります。それをどうにかしなくてはいけないと真剣に考えています。そして取り組んできました。しかし、私たちの時とイエス・キリストがしるしを起こすときはまったく違うのです。イエス・キリストの時は、来るのです。母マリアがイエスさまに救いを見、その業、しるしを信じ、信頼し、待った姿が大切です。「2:5 しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」と。揺るがぬ信頼の姿勢こそが母マリアは深刻にならず、婚礼の主人のために真剣にいまなすべきことに取り組んださわやかな風を導き、「わたしの時」を呼び込んだのです。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」。神の力の顕現をマリアの信仰を通して、婚礼の全ての人が味わい知ることができました。「花婿を呼んで、2:10 言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。』」

確かに私たちは深刻にならざるを得ない第6波に入りましたが、ここにイエス・キリストはおられ、「わたしの時」、メシアの時は貫かれて、祝福は用意されています。イエス・キリストの救いとしるしを発見する信仰をもって、いたずらに深刻にならずに、真剣になすべきことと取り組みつつ、イエス・キリストと共に「わたしの時」、メシアの時を待った母マリアのように為すべきことを為して皆で神のしるしをいただきましょう。祝福は用意されています。それで、弟子たちはイエスを信じた。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

1月17日、犠牲者6434名を出した阪神・淡路大震災から27年目を迎える。時の過ぎるのは早く、阪神・淡路大震災後の東日本大震災などの大きな地震が続き阪神・淡路大震災を忘れそうになるが、忘れてはいけないと思う。まだ、余震が続いている時、愛知・三河からトラックに物資を積んで飛んでいった。伊勢湾台風を経験した方からこういうときに何が必要かと言うアドバイスと、物資をいただいたことを思い出す。

多くの犠牲者の中に20歳代の人が多く含まれているのが特徴である。大学が集中してあり、当時古い文化住宅のアパートに住んでいた学生が被害にあった。31の大学で111人が犠牲になった。

今、生きていれば社会の一線で活躍し、家庭を持っていただろう。自然はかくも厳しく、もしもとなった痛みと悲しみがある。また自然の上に築かれた文明は自然に対して無力なこと、そして文明が自然に対して傲慢になるとき、若い者の命を、夢を奪っていくことを忘れてはいけないと思う。

東日本大震災後、旧建築基準法で建てられた北欧風の教会堂の耐震工事にすぐにとりかかった。それは単に建物の耐震工事を進めていくということだけでなく、命の尊厳を守るという信仰者の態度であると決意したからである。金もないのによく出来たものだと。

 

園長・瞑想?迷走記

3学期になり、子どもたちが成長していることが分かる。それは体だけでなく、知恵も増し、心も成長していっている。成長は大人が考えているようないわゆる良い子なるということではない。知恵は増すだけ、それだけ心は複雑になり、大人を困惑させてしまう。

「手に負えなくなりました」という親のぐちを聞きます。「それだけ、大きくなったんですよ。ここで親の言う通りになる方が危ないすよ」と応えている。良い子って、なんだろうか。そんなことにとらわれず、体と心が成長していき複雑な心になっていく子ども心に寄り添っていく方が私は保育のダイナミックスがあるのではないだろうかと思う。このダイナミックスを失わないように良い子作りの妄想から解放されたい。

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日毎の糧-ルターからの言葉

聖書:エフェソ6:10-17    詩篇145 

あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に。                  詩編145:13

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。        ローマ12:19

ルターの言葉から

    私たちに苦しいことが起こると、肉と血がいつもそうであるようにすぐそこで辛抱できなくなり、怒りに煮えくり返り、荒れ騒ぎ始めます。・・・・・・・だが、あなたがそれに対して復讐し、またさまざまに傷つけようとすることは、禁じられている。                                                                              それゆえに、あなたはそれを互いによい方向に向け、一方の正義がもう一方を砕したり、破壊したりすることのないよう、それがうまく互いに調和して、両方がとどまることが出来るように配慮しなさい。あなたがもし、さらに大きな不正を行うことなしに、あなたの正義を行うことが出来ないのなら、それをそのままにしておきなさい。なぜなら、不正を不正で守ったり、罰したりすることは妥当ではないからである。そして、神はあなたの小さな正義のために、この世全体の正義が沈んでしまうのをお望みにはならないであろう。

『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館

裁いてはいけません

 私たちは知らず知らずに自分が神に代わり裁きの主権者になって、人を裁き、私たちの小さな正義のめに神の正義が沈んでしまうことがしばしばあります。パウロは「だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。」と言っています。

祈り:裁く主権を神にお返しする謙遜さを私たちにください。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」11

ルーツ2

「すべてに時がある。」と聖書は言う。大森教会の歴史を編纂しつつその時を感じつつ、そこにいたらという興味が湧いてくる。

記念誌を編纂していると英語は聞こえてくるのだが、宣教師たちのルーツ、母国フィンランドの言葉が聞こえてこない。エルソン牧師、ルンド牧師は、スオミ大学出身である。スオミとはフィンランド語、フィンランドン民族を意味する。とするなら、彼らはフィンランド人として自覚もあり、どこかフィンランドの雰囲気をもっていたのではないだろうか。世代が2、3世時代の方々としてもフィンランド語を話せていたのではないだろうか。どのうにアメリカに同化し、フィンランドからアメリカに変わっていったのだろうか。知りたいことが沢山ある。唯一、エピソードして、Y兄にから聞いたことはエルソン牧師が甲府教会の青年をスキーに連れて行き、スキーが上手かったということである。フィンランドもそうだが、彼らが育ったアッパー半島の冬は長く雪深くなる。そこできっと子どものころからスキーをしていたのではないだろうか。

ルンド宣教師も亡くなり、聞くすべもない。だからこそ、丁寧にいつも歴史の記録を残していかなくては後の祭りとなる。70年史の記念誌は最後の機会だったと思う。

(大森日記))新型コロナウィルス感染者が増加中の礼拝、教会学校、礼拝、祈りの会、役員会、夕礼拝と無事に終わる。日々の出来事を委ねていこう。)成人の日。休み。)幼稚園は3学期開始。礼拝から。み言葉によって成長しますように。)さらに急激に感染者が東京都で出てきたことなど電車での移動は止め、すべての予定をキャンセル。)歴史を知る讃美の詩編を学びつつ、神への信頼と讃美が勇気受けるという聖書の学びのとき。)主日の準備。総会の準備、幼稚園の職員会議。限られた中で子どもたちを新型コロナウィルス感染しないようにするか切りのない取り組みがあることに疲れないようにしたい。)朝から協力をいただき総会資料の製本。総会が開催出来ますようにと祈る。