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我が国籍は天にあり

1これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」創世記15:1

3:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。 3:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。 3:19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。    フィリピの信徒への手紙3:17~20

【説教要旨】  私の本国は天にあり

時々、パウロは不思議な言葉を私たちにつきつけます。「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。」と。「キリストに倣う」という言葉は、分かりますが、「わたしに倣う者となりなさい。」というのは、厚顔無恥としかいえない言葉です。誰がわたしに倣う者となりなさいと言えるでしょうか。しかし、実は私たちは色々な場面で、わたしに倣う者となりなさいと言っています。この言葉には一つの価値観をもって、人を支配しようという力が働きます。

今回のロシアのウクライナ侵略もロシアの価値観をもって、ウクライナにわたしに倣う者となりなさいと力づくで押し付けているのです。それは決して愛から出たものではなく、愛さえ踏みにじる悪魔の手です。では、パウロが、わたしに倣う者となりなさいというとき、どういう彼の支える信仰からきているのでしょうか。

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何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。

涙ながら言いたいほどの大切なことは、「キリストの十字架」です。

佐竹先生は、「キリスト者をキリスト者たらしめるものは、キリストの愛です。自分に向けられているキリストの愛を受け入れることだけです。パウロは人一倍教会の建設のために励みましたが、彼のキリスト者としての生き方の基本は、彼が十字架の愛にすべてをゆだねたという点につきます。それまで頼りにしてきたユダヤ人としての信仰的特権やパリサイ人としての律法の熱心の実績を頼りにすることをやめ、キリストの十字架によってのみ生かされる生き方へと転換したところに、彼の信仰生活は始まりました。彼が『わたしに倣う者となりなさい。』と言うのは、まさにその点においてであります。」と言われます。

ここでは、たとえ自分が立派で、すぐれているわたしであっても、しかし、実は欠点だらけの罪人であるというわたしに気付くことです。近世を開いた「95箇条の提題」で、ルターは、次のような言葉で始めるのです。

「私たちの主であり、師であるイエス・キリストが、『あなたがたは悔い改めなさい・・』と言われたとき、彼らは信じる者の生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである」

私たちは悔い改めるべき欠点だらけの罪の多いものであるにもかかわらず、十字架の神の愛によって生かされたわたしであるのです。

佐竹先生の「それは自分の偉大さを誇示する言葉ではなく、取るに足らない自分を支えてくださるキリストの偉大さを讃える言葉だからであります」という言葉通りです。

歴史学者ハラリ氏は21世紀を次のように言う「私たちは21世紀にはこれまでのどんな時代にも見られなかったほどの強力な虚構と全体主義な宗教を生み出すだろう。」というように、私たちが何かしら力あるものであり、力をもった偉大さを誇示できるという虚構に陥っている。そして、「人間をアップグレードし、ホモ・サピエンスをホモ・デウス(「デウス」は「神」の意)に変えることを目指すだろう」

ホモ・デウスとなったこの結果は、今、ウクライナで起こっている破壊、そして力ある者が作る想像の世界建設です。虚構です。

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今、私たちはチェーホフの銃は第三幕で必ず発射されるという言葉が現実となってきている核戦争が起こるのではないかと言う不安が私たちのどこかにあり、落ち着かない日々があります。

では、私たちは凄い力で私たちを支配する世界の流れの力でどうあるべきか。この小さな私がどう生きるべきか。

わが国籍は天にあり」、天とはそこに死があります。人は死があります。わたしたちはうつろいゆくものであるのです。それは世界においても、同じです。つまり歴史の一定不変の大原則、万物はうつろうのです。今、虚構と言う力が私たちを支配する絶望のときであって、このわたしは、死と同時にある天を国籍とするということです。うつろいゆく一定不変の大原則を生きつつ、永遠の変わらない大原則を生きるということです。「わが国籍は天にあり」とは、うつろいゆく人間の力に頼らず、キリスト者をキリスト者たらしめるキリストの愛、自分に向けられているキリストの愛を受け入れ、十字架の愛にすべてをゆだねていくという大原則を生きると言うことです。

「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。」とパウロが私たちに語りかけてくるのは、神の愛に立たされている「わたし」が、あなたの前にいますと。あなたも神の愛に立たされているのです。大丈夫だというパウロの励ましの言葉です。

うつろいゆく世の一定不変の大原則にあっても、うつろわない神の愛、十字架で示された神の愛に私たちの日々の大原則で動かされています。

さあ、今日と言う私たちの世界へもう一度アブラハムのように旅立ちましょう。

これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」   創世記15:1

※「喜びに生きる ピリピ人への手紙による説教」 佐竹明新教出版

※「ホモ・デウス」ユヴァル・ノア・ハラリ 河出書房新社

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牧師室の小窓からのぞいてみると

平和を作り出す人は幸いである。

歴史学を学んでいる大盛保郎さんにウクライナとロシアの歴史、今をどうとらえたら良いかを4回のシリーズで書いていただきました。

 

コロナ禍の中、ロシアがウクライナ侵略を開始した。首都キエフに迫り原発も攻撃している。家族・友人・知人が死に街が焼かれ難民が出る。国境を挟んで国籍の異なる家族や親戚が殺し合うことも珍しくないという。これは最早、危機ではなく戦争、非常事態だ。ペストが蔓延しオスマン軍がハンガリーやウィーンを占領したルターの時代が想起される。

フランス革命以降、人類はイデオロギーや大義による戦争を始めた結果、戦争の真の目的は見えづらい。「何故?」を問うことは大切だが、詩篇に倣って「主よ、いつまでですか?」と問うのも大切だろう。

ロシアの戦略目標はウクライナの非軍事化と中立化だが、そこに国際社会の批判のリスクに勝るメリットが見えて来ない。ロシアの標榜する”大義”の一つはウクライナ東部の傀儡国家に住むロシア系住民を”ジェノサイド”から守ること、もう一つはNATOの東方拡大の抑止だ。いずれにせよ、主権と民族自決権を有する独立国家ウクライナとは本来無関係だ。NATOの東方拡大禁止もゴルバチョフの口約束だけで肝心の米ロ間の条約は存在しない。ロシアの主張に道理はなく、理由はどうあれ明確な国際法違反であり許されるものではない。

それでも、「盗人にも三分の理」があるようにロシアにも「言い分」はあるだろう。そもそも、ウクライナやキエフはルーシ民族発祥の地、ウクライナ人だけでなくロシア人やベラルーシ人にとっても心の故郷だ。加えて、帝政時代とソ連時代を通じてウクライナは歴史的に「偉大なロシア」の領土だった。ソ連時代、勝手にクリミアをウクライナに譲渡したのはウクライナ人のフルシチョフだった。クリミアにはロシア海軍で3番目に大きな黒海艦隊の基地がある。ロシアがクリミアを”取り戻し”、国外の同胞を救うことに心情的根拠は存在する。ウクライナのNATO加盟は緩衝地帯の消滅となり、ロシアにとっては-4-

安全保障上切実な大問題となる。

ロシアの視点に立てば、常に西側から侮辱され、侵略を受け、再現なく譲歩を強いられ、屈辱と劣等感に苛[さいな]まれて来たことになる。非ヨーロッパと蔑まれ、ビザンツ帝国の後継だと主張すれば、モスクワ総主教座に首位権はないと馬鹿にされた。ナポレオンからは後進国と見られて侵略され、中国東北部を巡っては日本に敗れ、バルカンを巡ってはドイツから侵略された。ツァーリの圧政を打ち破って革命を起こせば、ドイツに領土と賠償金を奪い取られた。革命で国を再建しようと思えば、列強から干渉戦争を仕掛けられた。独ソ戦で人類史上、類を見ぬほどの3千万人の犠牲者を出してヨーロッパを解放しても感謝されなかった。ヤルタ協定では米英の口車に乗せられて対日参戦をさせられたのに、アメリカが原爆を実用化したら日本の占領から追い出された。ロシアにはこうした不公平な西側への不信感がつのり被害者意識が鬱積している。

ソ連崩壊後の後継国家ロシアは資本主義国だ。もちろん、欧米や日本のような先進国ではなく、本質は発展途上国にありがちな開発独裁だ。プーチン大統領やその一族は典型的な新興財閥=オリガルヒ(国家財産を横領して作り上げた)の資本家だ。ソ連が崩壊して資本主義国となり、東西冷戦が終わったのにも関わらず、NATOが未だ存続しさらに東方拡大している。

国外に”強大な敵”を作り上げることは内政の安定と国民の結束に役立つ。西側・NATO諸国の敵役=仮想敵はもちろんロシアだが、その図式は冷戦構造のままで基本的に変わっていない。かつて、ドイツと日本がこの役回りだった。こうした図式はいつまで続くのだろうか。帝政時代以来のロシアの専制政治の終焉、つまり、議会制民主主義が実効性を持つまで続くのだろう。

ロシアの暴虐・蛮行を放置・容認することはできないが、その一方で、ロシアを徹底的に追い詰めて孤立化させることも国際社会の不利益になるだろう。心を頑なにした者との交渉や説得は極めて難しい。「窮鼠猫を噛む」の諺は軍事大国ロシアにも当てはまる。もし、この戦争の真の目的が額面どおりの戦略目標なら、そして、戦術目標が原発破

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壊や核兵器によるウクライナの国土の放射能汚染なら最悪の事態が待つことになる。追い詰められたロシアがさらに暴走する時、核・放射能は「使うことを躊躇する抑止力」から「実際に使える兵器」に容易に変化するだろう。

ロシアは腕っぷしは強いが常に仲間外れのいじめられっ子に例えることができる。アニメでいうなら、のび太的要素の強い内弁慶のジャイアンだ。「のび太のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」を基本信条とするジャイアンは身近な子分には極めて高圧的だ。ロシア=ジャイアンはウクライナ=のび太を理不尽かつ無慈悲に蹂躙する。ロシアの領土的野心もジャイアン的といえよう。ところが、NATOを前にすると、これまでジャイアンだったロシアが内心ではのび太に転じるわけだ。

民法には「クリーンハンズの原則」がある。自分の手がきれいでなければ、法の保護は受けられないという原則だ。法律用語で「信義則」(信義誠実の原則)とも呼ばれ、日本の民法では708条の「不法原因給付」がこれに該当する。

「イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」」(ヨハネ8:7)

国際社会にも同様の趣旨があてはまる。国連憲章に「敵国条項」が明記されているが、今でも日本とドイツは”国連の敵”と見ることもできる。敗戦国の日本やドイツは己の身の程を知るべきだろう。批判者には自省と自戒が必要で襟を正さねばならない。自らの罪を忘れて棚に上げることなく、その上で相手が誰であろうと道理を以って批判すべき点は毅然と批判すべきだろう。これを忘れた時、ロシアはこう反論するだろう、「お前と同じことをしただけだよ」と。

私たち一人ひとりが自分の頭で考え、先入観を捨て、何事も固定的に見ないことが大切だ。そして、歴史的な視点に立ち、ものごとを相対的・多角的に見ることだ。短絡的な感情論ではなく理性的に今のこの状況を冷静に捉えることも大切だ。ともすれば、改憲や武装強化、核兵器保有など超国家主義や国家社会主義といった古典的な全体主義に-6-

陥りがちなのは現在の日本の危険な風潮だ。この戦争を奇貨として、混迷するコロナ禍の鬱憤や低迷する経済の鬱積といった閉塞感を晴らしてはならない。人間に絶対的な正義はなく、それはただ神においてのみ存在する。必ずしも正義が戦争に勝てるわけではなく、反対に、常に戦争に勝った者が正義となるのが人の世だ。”悪い敵”を武力で平定する”平和”を求めるのではなく、真の平和・主の平安を創り出す者、つまり、真のクリスチャンでありたいものだ。

「主は国々の間を裁き/多くの民のために判決を下される。/彼らはその剣を鋤に/その槍を鎌に打ち直す。/国は国に向かって剣を上げず/もはや戦いを学ぶことはない。

ヤコブの家よ、さあ、主の光の中を歩もう。」(イザヤ2:4~5)

「平和を造る人々は、幸いである/その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)

主よ、1日も早いロシア軍の撤退、ウクライナの主権と平和の回復を願い求めます。

あなたの平安がウクライナとロシアに与えられますように。

命を失い、心や体が傷つき苦しみ、家族や大切な人を奪われ、家や街を焼かれ、国を追われ、不安と恐怖のただ中にあるすべての人々にあなたの慰めと癒しがありますように。

主の御名によって アーメン

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日毎の糧

 

聖書:一コリント10:1~13  詩編105

兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。・・・・・・・それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

ルターの言葉から

    ああ、私は残念なことに、「つまずき」が起こるにちがいないことをよく知っている。人が倒れるとき、それは驚くべきことではない。 しかし、人が脱落から立ち上がり、その後も立ち続けているのは驚異である。ペテロは倒れることにより、自分が人であることを知った。今日でもまた、こずえが天にまで達したレバノンの杉が倒れる。何よりも驚くべきことは・・・・・天国の天使や、パラダイスのアダムが倒れたのである。葦が風で揺れたり、ちらちらするろうそくの芯が消えたりするのにいったいどうして驚くであろうか。    『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館

立ち上がらせてくださる

 私たちは、躓き倒れます。同時にキリストによって立ち上がり、立ち続けます。このことを私たち信仰者は心に打ちつけて、日々、私たちに起こる試練に耐えなければいけません。

パウロは、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。」と私たちに証しするのです。

祈り:躓き倒れつつも立ち上がらせてくださる神に委ねますように。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

今年も3月11日に東日本大震災の追悼礼拝、13日にも追悼、鎮魂の礼拝・音楽コンサートをする。 私たちは2011年から2031年までの20年間、YWCAの「福島こども支援」の献金を続けることにしている。 続けることは、忘れないことである。これからも聖書によく出てくる言葉であるが「弛まず」ということである。 弛まず、教会、幼稚園は3月11日がくるたびに東日本大震災を覚えて、礼拝と奉仕のわざを続けていきたい。

今年は「キリストを見よ」である。キリストを仰ぎつつ、希望をって福島の子どもたちと未来をみていきましょう。

      園長・瞑想?迷走記

「新型コロナウィルス感染者が子どもたちに増加してきている。東教区にある7園の幼稚園でも園児、職員、園児の家族の中に感染者が出てきてその対応に園長たちは気の休まることのない緊張した日々が続いている。」と先週、ここに書いた。どうにか学級閉鎖も、園の閉鎖もなく持ち堪えて2021年度も終わるかと思っていた矢先、月曜日に半日保育から通常保育に変えた翌日、大森幼稚園にも新型コロナウィルス感染者が出て、学級閉鎖が一クラス出た。仕方ないといえば仕方ない状況が感染状況から言える。

しかし、今週は卒園式があり、終了式がある。これをどうするか決めなければならなかった。卒園式、終了式に来られない、あるいは感染を恐れて来ない園児にどう対処するか。オンラインでいこう。 閉鎖したクラスの預かりの子どもたちをどうするか。感染を拡げないためにも保護者には申し訳ないが預からないことにしようと断腸の決断をしなければいけなかった。 こういうときだからこそ園児一人一人に何が出来るかと真剣に問われた一週間であった。

神はすべてを時宜にかなうように造られた。                     コヘレト3:11

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」15

束の間4

70年の中で、これほど宣教が難しく感じらたときはあるだろうか。確かに敗戦後の東京が戦争跡が残っていたときに宣教が始まったが、どこか将来に希望をもっていたように思える。そして、多くの若者が教会に集まっていた。

しかし、高齢化社会、少子化、新型コロナウィルス感染者増加、そして核戦争さえ懸念されるロシアの横暴、ウクライナ侵略と70年間の中で考えられないことが起こり、将来に不安を覚える。

教会にしても牧師の引退者増加、献身者の不足で牧師、働き人不足。信者の高齢化、それにともない牧師を支える経済力が教会から減少し、教会の宣教力の低下、決して良い環境にない。 こういうときに、こういうときだからこそ私たちはどうあうべきかと神から問われているのではないだろうか。

ルター研究者の金子晴勇先生が「プロテスタント教会は近代文化と密接な関係をもっているが、その信仰は文化と同じではない。文化信仰(文化病)からの脱却が、井草教会の古い世代の課題ではないだろうか。」と井草教会で発題して教会では衝撃が走ったという。

この発題は、私たち大森教会への発題でもあると思う。信仰が私たちに受肉していくということである。

 

(大森日記))教会学校、礼拝、祈り会、夕礼拝と無事に終わる。今年も総会が文書稟議となった。いただいた意見を大切に丁寧に取り扱っていきたい。)ブラジル時代に一緒に働いたD牧師夫人の誕生日だったのでケーキを届けにいく。)聖研の資料とZoom招待を送り、一日を終わる。)何より自分のことばかり考えるのでなく他の教会を考え協力金、特別協力金を本部に納入。)教会の庭の草取り、詩編105の聖書の学び。)午後から幼稚園の内部研修。障がいのある子どもにどうかかわるか。)主日の準備。訪問、オンライン会議。春=花粉症(笑)