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愛敵の教え 境界線を越えて 2月20日礼拝

6:27 しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。 6:28 のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。 6:29 あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。 6:30 あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。6:31 人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。 6:32 自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。6:33 自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。6:34 また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。6:35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。6:36 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。                                      ルカによる福音書6:27-36                       

【説教要旨】      愛敵の教え

ウクライナ情勢は、世界の緊張を高めています。コロナ禍にあって、交流が絶たれ、煮詰まって疑心暗鬼になっていきます。ウクライナの国土防衛とするならNATOに加入したいと思うのは当然であり、これを危険とするロシアの言い分もまた当然です。正義と正義がぶつかり合っているから危険な状況になり、頂点に達そうとしているのだと思います。正義と正義が衝突するとき、そこには相手はいつまでいっても敵です。

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新井献先生は、「イエス・キリストを語る」という本の中で愛敵の教えについて次のように言っています。

「『敵を愛しなさい』という勧めそれ自体は、『敵』と『味方』の境界線をむしろ取り払う結果を引き起こすはずで、これは『共同体』を相対化する方向に機能するはずである。ユダヤの指導者たち、とくに『清浄な民』から成る自らの共同体とその外にある『不浄な民』との間の境界を明確化し、それを強化することによって、ユダヤへの帰属意識を確保しようとしたファリサイ派にとって、イエスの愛敵の教えは極めて危険なものであったろう。」

NATOという共同体にしても、ロシアと言う共同体にしても、その帰属意識を確保するためにどうしても引くに引けないところまできているのです。それが、世の論理です。そして、世界はこのように動いていることが現実です。どうにか平和が保たれるのは、国と国が信頼関係を持っている時ですが、人と人の信頼関係は一旦疑心暗鬼に襲われるともろくも崩れてしまうというのが、現実です。

だから、マタイは、

5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。

5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

ルカは

6:27 しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。 6:28 のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。

イエスさまのこのみ言葉をマタイは山上の垂訓の中で、ルカは平地の説教の中で忘れずに置いたのです。

人間の現実世界において、自分たちの共同体を守るために『敵』と『味方』の境界線を張る、それは決して平和をもたらさない、なによりも『敵』と『味方』の境界線を取り払うことこそ神さまのみ心であるあるというのです。『敵』と『味方』の境界線を張ることによって、人が人とのつながりを切っていくことになるというのです。

マタイ、ルカは、愛敵の教え、敵を愛するというということで、境界線を取り払っていったのです。とくにルカの集まりは、先週もお話したように比較的裕福な人の集まりでしたが、不浄の民と言われた人への積極的なかかわりを持った共同体でした。そこで、ルカは共同体の境界線を越えていくには、6:27 しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。 6:28 のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。というみ言葉にしかないと強く人々に伝えました。そして、今、境界線の外で苦しんでいる人と共に生きるために6:36 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれとイエスさまのみ言葉を伝え、実践したのです。実際、ルカによる福音書の登場人物は、境界線の外にある人々であることに示されるように慈悲深い者の共同体とされていきました。

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私たちも厳しい世界にあって、自分の共同体、国を守りたいあまりに境界線を引き、敵を作らざる現実があります。しかし、キリスト者はそうであってはいけないとルカは今日の私たちに伝えてきます。私たちはこの厳しい現実を見る、そしてこの現実を越えていくものを見る。

「イエスはいばらの冠をかぶり、紫の上着を着たままで外へ出られると、ピラトは彼らに言った、『見よ、この人だ』。ヨハネによる福音書19:5」とある、「見よ、この人だ」、「エッケホモ-この人を見よ」ということです。

「全てのものを与えしすえ、死のほか何も報いられで 十字架の上に上げられつつ 敵を許しし、この人を見よ」です。ルカが、あなたがたの父なる神が慈悲深いようにと伝えていることです。

私たちの現実はコロナ禍で、世界がいつ爆発してもよいような煮詰まった現実があります。だからこそ、敵を愛すること、境界線を崩していくこと、そして、互いに信頼して、あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれというイエスさまの勧めを心から受け留め、平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる(マタイによる福音書5:9)となるように平和を願い、祈る者とされ生きましょう。

この人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたる この人を見よ この人こそ 人となりたる 活ける神なり

イエスさまを見て慈悲深い者とされますように。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

ワルエワさんのドーピングの疑惑、審判の判定の問題などで、私は、オリンピックにうんざりしているし、テレビでも見ないことにしている。

しかし、藤井聡太さんの将棋の勝負はさわやかさを感じ、気になる。どうしてだろうか。オリンピックは国家を背にしているのに対して、藤井さんはどこまでも個人。国家を背景にすると国威発揚だということで個人が飲み込まれていく。選手は国と個人ということで精神的葛藤があるのではないかと思う。

出場をゆるされたが、ワルエワさんの演技はいつもと違いミスが多かった。15歳の子どもにしては酷な出場であったと思う。渦中の中で演技させることのないオリンピックが生れて欲しい。国家を超えて一人ひとりを大切されたのはイエスさまであった。

      園長・瞑想?迷走記

年長は小学生に向けて準備の時を過ごしている。礼拝も年長だけで行うことがある。毎年、祈りの恵み、祈りのすべて込められている主の祈りついて説教をしているが、ときとして小学校への準備へむけての説教もしている。

「すべてに時があります。伝道の書3:1」の説教でした。「今日は難しいお話をします。聖書の言葉には『時』を『クロノス』、『カイロス』という二つの言葉で表すんだ。」。「後ろを見てください。時計を。何時何分という刻む時計の時をクロノスというんだね。これも大事な時だね」。「もう一つの時、カイロスは、自分がまったく変わってしまう時なんだ。まあ、人生が変わる時だ。さて、君たちにもまったく変わるカイロスが近づいているよ。さていつかな」。「はい、はい」。「〇〇君」「小学校に行く時です」。「そうだね。まったく新しい時だね。カイロス。」

こんな説教をしながら時を過ごしている。それはクロノスかもしれないが、一期一会、カイロスでもあると思って、礼拝に望んでいる。だかから礼拝が待ち遠しく、楽しくなる。

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日毎の糧-ルターからの言葉

聖書:創世記33:1-15  詩編38

わたしの主よ、わたしの神よ/御自身でわたしに答えてください。                詩編38:16

エサウは言った、「それならわたしが連れている者どものうち幾人かをあなたのもとに残しましょう」。ヤコブは言った、「いいえ、それには及びません。わが主の前に恵みを得させてください」。 創世記33:15

ルターの言葉から

    神が語り、怒り、嫉み、罰し、わたしたちを敵に渡し、わたしたちのうえにペスト、飢え、剣、あるいは、他の災難を送るとき、それは神がわたしたちに恩恵を施しているもっとも確かなしるしである。神が「わたしはあなたを咎めないで(沈黙し、)あなたを好き勝手にさせ、わたしの熱心さをあなたから取り去ったのである」と言うとき、それは神が背を向けたしるしである。                                                           『卓上語録』M.ルター著、植田兼義訳、教文館

苦しみを深める

 「自分で納得するような小さな世界で自分の人生を決めてはならない。人は自分の意志だけでいきているのではなく、生かされている。聖書の世界観でいえば、圧倒的な力で生かされている。そうであれば、生きていることの是非を人間が自分だけの考えで決めることはできない。」(「すべてに時がある」若松英輔、小友聡 NHK出版)といように詩人は自分の病気は自分が神に罪を犯したからだと自分を納得させ、人生を決めつけようするのですが、しかし、小さな世界に留まるのでなく、圧倒的な力に生かされていることに気づき、「わたしの主よ、わたしの神よ/御自身でわたしに答えてください。」と祈り、ヤコブは人の力に自分を守るのでなく、「いいえ、それには及びません。わが主の前に恵みを得させてください」と神の恵みに委ねるのです。神のなさることに答えを求めていく時こそ、苦しみを深め、ルターのようにそれは神がわたしたちに恩恵を施しているもっとも確かなしるしだと逆転した生き方がうまれます。

祈り:日々、希望をもって神に答えを求めていきますように。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」14

束の間

「『すべてに時がある』 NHK出版」の本の中で、伝道の書の「空」をどう捉えるかということを旧約学者の小友聡先生は、束の間と捉えています。

伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。伝道の書1:2-4

70年は、時として空しく感じるかもしれませんが、空を束の間と捉えると違う意味が起きてくるように思えます。

小友先生は次のように言います。「コヘレトの希望は、『へベル(空)』の現実でどう生きるかと言うことについて、方向性を反転させるのです。人生は束の間だから生きる意味がないのではなく、束の間だからこそ生きる意味がある。

・・・・・人生が束の間だから絶望して諦めるのでなく、むしろ『いま、このときをどう生きるか』という方向に向かう。人生が束の間であるお陰で、今を生かされているまぎれもない確かさがわかります。」

70年史を編纂しながら、70年はあっと言う間に過ぎ去った束の間と感じました。だからこそ、束の間の時がいとしく感じました。そして、今を生かされているということを感じ、今、この時をどう生きるかという力を考えさせられました。70年を感謝しつつ、希望をもって、一つ一つの出来事に丁寧にありたいと強く思わされました。

(大森日記))全国新型コロナウィルス感染者増大で、総会を延期しているが役員会を開催して方向性と日時を決定する。しばらくzoom、YouTube配信に礼拝の軸足を置くしかない。)遠方で来られない方々に手紙を送る。繋がることの大切さ。)第2回目の遠方会員へ手紙を添えて週報などを送る。)近所の方も手紙を添えて今回はポスティングだけにした。)行事がつぶれていく卒園生のためにコロナ下で先生方が工夫されて卒園の遠足を実行。残ったクラスも工夫して思い出創りをしている。きっと新しいことが生まれてくるだろう。