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愛の声に聞く

9:28 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。9:29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。9:30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。9:31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。9:32 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。9:33 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。 9:34 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。 9:35 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。                              ルカによる福音書9:28-35

【説教要旨】      愛の声に聞く

ロシアのウクライナ侵攻は、何の正義もないものです。そして、世界の秩序が壊れ、強者、独裁者による世界が構築されていくような重い気持ちになり同時に無力さと恐怖さえ感じる日々でした。こういうときに「主の変容主日」を迎えます。栄光の輝きの中にイエスさまは包まれ、モーセとエリヤは栄光に包まれて現れます。ここで、栄光とはどういうことでしょうか。

預言者エリヤの時代、ナボテ事件が起きます。王アハブは、宮殿に隣接するナボテの土地が欲しく、交渉しますが、「土地を売らねばならないときにも、土地を買い戻す権利を放棄してはならない。土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない。レビ記25:23」とあるように、この法の前に生きるナボテは王であってもかってに売り買いは許されないと神の前における良心によって拒否します。アハブ王はナボテの断りを正論としながら、一国民である者をどうにもできない自分が腹立たしくなり、怒りで震えます。これを見たフェニキアの女の王妃イザベルは、行動を起こします。

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21:7 妻のイゼベルは王に言った。「今イスラエルを支配しているのはあなたです。起きて食事をし、元気を出してください。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう。」 21:8 イゼベルはアハブの名で手紙を書き、アハブの印を押して封をし、その手紙をナボトのいる町に住む長老と貴族に送った。 21:9 その手紙にはこう書かれていた。「断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせよ。 21:10 ならず者を二人彼に向かって座らせ、ナボトが神と王とを呪った、と証言させよ。こうしてナボトを引き出し、石で打ち殺せ。」 21:11 その町の人々、その町に住む長老と貴族たちはイゼベルが命じたとおり、すなわち彼女が手紙で彼らに書き送ったとおりに行った。 21:12 彼らは断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせた。 21:13 ならず者も二人来てナボトに向かって座った。ならず者たちは民の前でナボトに対して証言し、「ナボトは神と王とを呪った」と言った。人々は彼を町の外に引き出し、石で打ち殺した。 21:14 彼らはイゼベルに使いを送って、ナボトが石で打ち殺されたと伝えた。 21:15 イゼベルはナボトが石で打ち殺されたと聞くと、アハブに言った。「イズレエルの人ナボトが、銀と引き換えにあなたに譲るのを拒んだあのぶどう畑を、直ちに自分のものにしてください。ナボトはもう生きていません。死んだのです。」 21:16 アハブはナボトが死んだと聞くと、直ちにイズレエルの人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って行った。

権力あるものは、かくこのようなものです。ナボテは、律法という神の前での良心で王へ土地を売らなかった。しかし、イザベルは王と言う権力の前で、つまり人の良心の前で、醜い策略を用いて自分たちの立場を守った。人の前の良心とはかくも醜いのです。

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21:20 アハブがエリヤに、「わたしの敵よ、わたしを見つけたのか」と言うと、エリヤは答えた。「そうだ。あなたは自分を売り渡して主の目に悪とされることに身をゆだねたからだ。 21:21 『見よ、わたしはあなたに災いをくだし、あなたの子孫を除き去る。イスラエルにおいてアハブに属する男子を、つながれている者も解き放たれている者もすべて絶ち滅ぼす。 21:22 わたしはあなたが招いた怒りのため、またイスラエルの人々に罪を犯させたため、あなたの家をネバトの子ヤロブアムの家と同じように、またアヒヤの子バシャの家と同じようにする。』 21:23 主はイゼベルにもこう告げられる。『イゼベルはイズレエルの塁壁の中で犬の群れの餌食になる。 21:24 アハブに属する者は、町で死ねば犬に食われ、野で死ねば空の鳥の餌食になる

エリヤは王の前に顕われて糾弾します。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」とエリヤがイエスさまと語る。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」。十字架の出来事です。エリヤは人の前の良心でしか生きない罪深い人間を糾弾し裁いた、しかし、イエスさまは、神の前においてナボテのように良心をもって、無力になられ神の糾弾と裁きを自分十字架において負いました。神の良心に生きたように苦しみを負ったナボテの苦しみを負ったばかりか、罪にあって、罰せられるしかない王アハズ、妃イザベルの罪をも負ったのです。これこそが、栄光に包まれた姿です。

今、ウクライナで起きている事件は、ナボテの事件と軌を一つにしています。私たちの人間の罪です。人間はかくも変わらないのです。しかし、神もまた変わりません。主・イエス・キリストの十字架において示された神の人間に対する愛と赦しです。ナボテの苦しみながら死んでいった悔しさをいっきに引き受け、苦しみを解放された。罪の罪を犯した王アハズ、王妃イザベルの罪、私たちの罪を引き受けてくださいました。

ウクライナ侵攻はイザベルの策略そのもので、明らかに侵略と分かっていてもそれを止められず、恐れをなしてしまう自分の罪深さ、すべてを十字架で主は負われました。だからこそ、私たちは悔い改めで、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という神のみ言葉に聞き続けるものであることを祈り続けましょう。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

また、強国が力で支配する戦争が起きた。ロシアのウクライナ侵攻である。決して許されることではない。考えてみると中国のチベット侵攻、ソ連よるハンガリー動乱による支配、米国のイラク侵攻などきりがない。こういう不正義、愚行が許されるはずがない。

ロシアのウクライナ侵攻をニュースで聞いた朝、心が重くなり、脳が停止、恐怖に手が止まった憂鬱な日々があった。

日本も中国、ロシアと接する国だ。理屈などなく大国は小国に入ってくる。恐怖から解放されるのは再軍備、核を持つしかないと脳を過る。しかし、そんな単純なことではない。堂々巡りしながら、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。

強者が弱者をねじ伏せる。これが人間の歴史、昔も今も変わっていない。人間は罪人である。だからこそ、イエスさまは「悔い改めて福音を信じよ」と言われた。いまこそ、悔い改めながら、世界は疑心暗鬼になり取り返しの出来ない世界がやってくる。「悔い改めよ」。

      園長・瞑想?迷走記

「施設評価委員会」が開かれる前に保護者からのアンケートをいただいた。正直、厳しい声もあった。またこちらの意図が伝わっていないこともあった。

アンケートを見ながら思った事は、教育・保育の質をどう高めていくかと言うことへの弛まない挑戦と地道な努力だと思った。そういう思いにさせてくれたアンケートの声に感謝している。そして丁寧にこれからも朴訥にすることだと思った。

そして、もう一度、保育の方針、2021年度の方針を具体的にしていく保育の内容をまとめたパンフレット読み直した。

「キリスト教精神に基づく保育」とある。では、今まで表現してきたことで良いのだろうかと思った。幼稚園は教育・保育の内容を深めていくためにどう表現していくか楽しいチャレンジがある。

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日毎の糧-ルターからの言葉

聖書:創世記33:1-15  詩編51

神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。詩編51:3

施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。  あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。             マタイによる福音書6:3-:4

ルターの言葉から

ここに、隠れてする施しがあります。それは表面にあらわれず、誉や名誉を求めず、人に見られたり、ほめたたえられたりすることに関係なく、惜しみなく与える心による

もです。感謝されようとされまいと、損得に関係なく、すべてを神にゆだねて、率直な心をもって、あなたの施しを隠しなさい。         マタイによる福音書5-7章の説教

『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

神の誉れの為に

 「灰の水曜日」を今週、迎えます。復活日を基準にするために毎年、日にちが違ってきます。次の週から主の十字架を覚えて四旬節に入ります。カトリックを代表とする西方教会の伝統です。「悔い改め」と「死」を憶えて礼拝を守ります。

「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。」という祈りに応えられ、主・イエス・キリストは、私たちの罪の救いのために十字架におかかりになりました。主・イエス・キリストのためでなく徹底的に私たちのためであり、また神の御心を成就するためでした。御心の成就は、主・イエス・キリストの誉でなく、神の誉となりました。四旬節に入るこのとき主の十字架に向き、神に誉を帰していくような善い行いをしていきましょう。

祈り:私の誉れでなく、神の誉れの為に善き業をなすことが出来ますように。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」15

束の間2

「人生は束の間だから生きる意味がないのではなく、束の間だからこそ生きる意味がある。・・・・・人生が束の間だから絶望して諦めるのでなく、」(『すべてに時がある』 NHK出版」小友聡、若松英輔)と小坂先生は言われます。

多くの死者を出している新型コロナ・ウィルス感染が始まり世界は大きく変化していますというところで70年史を書き上げ結んだ。

71年が始まったとたん、70年史の記載されている第二次大戦後の世界体制を揺るがすような大変化、大混乱が起きそうな予感がします。いままでは局地的戦争はありましたが、今回のロシアのウクライナ侵略のような正義なき、力あるものが力のない国を蹂躙し、もう一方の力ある米国と向かい合うとき何が起きても不思議でないところまできている。これと連動するように中国が台湾侵攻を実行するなら、核戦争さえ起きかねない世界大戦が再び起きるかもしれないという状況になってきていると感じた。大きな人類の歴史からすれば束の間の出来事であるが、新しくこれから刻まれていく70年に「戦争」という文字がのらないことを心から祈る。

これまでの70年史が平和の中で綴られていったように、これからも平和の中で、平凡な日常が綴られるものでなくても絶望して諦めるのでなく、希望をもって先へと向かう私たちの教会であって欲しい。

(大森日記))いつものように女性会が開かれた。いつものようにが平和でよい。)また緊張の中で幼稚園が始まる。午前中保育。)一冊の本に見せられる。)休日、コロナ禍では休息の一日。)ロシアのウクライナ侵攻は、絶望と不安、恐怖が襲い、思考が停止した。そこでT兄より聖書の学びでウクライナとロシアの関係、世界状況について急遽話をしていただく。今は慌てず短絡的に考えるのでなく、多面から深く考える時を教わる。感謝。)まだ、不安が取れず、落ち着かないが訪問に出かける。寝つき悪く、寝ずに主日の準備。気づくと4時。