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固守しない  4月10日礼拝

4 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。  イザヤ50:4

6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。  フィリピ信徒への手紙2:6-8

28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。  ルカによる福音書19:28

【説教要旨】  固守しない

一斉に花が咲き出し春を告げていますが、ウクライナのブチャでのロシアの虐殺行為は、怒りと恐怖と悲しみの中で落とされ、決して春を喜ぶことの出来ない暗い闇の中を歩いている気持ちに私はさせられています。第二次大戦後の臭いが残る時代を生きた私は、日本でも、ブラジルでもソ連軍の蛮行を引き揚げ者、シベリヤ抑留者から聞いていました。心に抑えていた恐怖と理性なき怒りの黒い塊がもたげてきました。21世紀になっても«またもか»という気持ちで、絶望感でいます。

しかし、この絶望感の中に生きているからこそ、信仰者として、「ぼくが、今伝えたいこと」を語らなくてはいけないと思います。

48年間のバビロン捕囚の末期から捕囚解放の時代を生きた預言者第二イザヤは、捕囚という厳しい状況中で、信仰が厳しく問われ続け、私が今、伝えなければいけないことを言葉にして民に伝えたのです。 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。                           イザヤ50:4

私たちは、たとえ私の社会状況が、私が恐怖と怒りと悲しみの内にあっても、私たち信仰者は、疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚まされた者であるというのです。そのために主なる神は、弟子としての舌をわたしに与えてくださっています。人を励ます言葉をもって私たちは神に生かされているのです。

フィリピ信徒の手紙を書いたパウロは次のように言っています。

1:28 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることですと。彼は罪人としてローマによって捕らえられ獄中にいました。しかし、獄中にあり、困難な、未来が真っ暗だと思える中で、なお、喜んでいると、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと語るのです。

私たちが今、闘わなければならないこと、解決しなければならないこと、課題、敵対することが数限りなくあります。今、歯をくいしばり忍耐しなければならないことも山ほどあります。主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださるのです。神は、働いておられます。今の状況に悲観することなく、大きな力の脅かしにたじろぎ、自分自身を見失わず、朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる神の声を聞き、神の声によって、私たちはどっしりとして、すべての事柄に当たることが出来るように神はしてくださいます。

人間が人間を虐殺している今、目を覆いたくなるような行いに神は目を閉じているのでしょうか。神は遠くから見ておられるのでしょか。

28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。ルカによる福音書19:28 と。神は、イエスさまを人間の姿と私たちのところに送り、私たちの苦しみを負われました。死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。私たちの苦悩、困難さ、無力のここにこそ、神は、イエスさまはおられます。そして、苦悩、困難、無力の中であっても、イエス・キリストが私たちの罪を負い、赦しを与え、愛してくださったように、私たちも主イエス・キリストの十字架の力によって、私たちは疲れた人を励ます者とされます。

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二人は、「主がお入り用なのです」と言った。 35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。ルカによる福音書19:34-35

私たちは実に弱い者です。私たちは戦争において使われる馬でなく、荷を担ぐろばであり、さらに力弱い子ろばです。しかし、主が必要とされているのは、騎馬となる馬でも、荷を担ぐに必要な大人のろばでなく、力弱い子ろばです。この子ろばにイエス・キリストを乗せるのです。子ろばにとって、重く、苦しいものであったはずです。苦悩と苦難、無力を負うことこそ、キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であったイエス・キリストを負うことであり、イエス・キリストの十字架を負うことです。ここにこそ力があります。十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。Ⅰコリント信徒への手紙1:18

苦悩と苦難、無力、悲しみやつらさこそが神と人間を結ぶ絆となり、人間と人間を結ぶ絆となるのです。この絆こそキリストの十字架と結びついているからです。イエス・キリストの十字架と結びつくことこそ、全てを超える神の力を与えられます。

私たちが今、闘わなければならないこと、解決しなければならないこと、課題、敵対することが数限りなくあります。今、歯をくいしばり忍耐しなければならないことも山ほどあります。しかし、私たちが、今伝えたいことは、自分の力に固守するのでなく、イエス・キリストの十字架に固守し、神の力を得ます。主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。

 

参照:『風は思いのままに』山本将信 日本基督教団出版局、

『翻って生きよ』小副川幸孝 新教出版、

『喜びに生きる』佐竹明 新教出版

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牧師室の小窓からのぞいてみると

大人の代わりに家族の世話をする「ヤングケアラ-」が小学6年生で15人に1人という厚生労働省の調査結果出た。社会が複雑化していく中で、大人がケアされる立場に追いやられ、結果、子どもたちに皺寄せさせられ世話をすることになる。ケアに時間が取られ、子どもとして成長いくことが難しい立場に追いやられていくのではないだろうか。昔なら子どもが親の世話をするということは美談であったが、この美談を支える人と人とのつながりが強かった社会であって、子ども一人でなく社会で支えていた一面もあった。

しかし、社会が人と人とのつながりが希薄社会になり子ども一人で支えていくところに追い詰められ、美談でなく、社会の課題となっている。こういうことに教会は、一番に応えてきたが、今は複雑化した社会に対応でいない教会の現実がある。

老いも、若きも奉仕と言う気持ちを強め社会へのつながりを強めていく時だと思う。ルーテル幼稚園保育園連合、社会福祉協会、学校法人会は一つになって教会の宣教として応えていくものでありたいと思う。

      園長・瞑想?迷走記

幼稚園も入園式が行われた。この時期、当然といえば当然であるが小学校、中学校、高校、大学と入学していく子どもたちがいる。社会人となっていく子どもたちもいる。

その中で数人であるがわざわざ幼稚園に来てくれる子どもたちがいて、話が出来るのは嬉しいことである。

高校、大学、社会人なっていく子どもたちが訪ねてくるのは稀有であるが、成長の段階で一人一人が自立していったのだと思っている。一人一人は園長の頭の中では一人一人は幼稚園生のままであるが、だれだれさんはもう大学生かといつも心に思い、成長を祈っている。今週から私の園長時代の子どもたちに葉書を出していくことにしている。引退までには同窓会誌を年に一回は出したい。

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日毎の糧

聖書: わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。        詩編116:1~2

食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。            ヨハネによる福音書13:4~5

 

ルターの言葉から

主は私たちに模範を残されました。主がご自分の栄光をかたわらに置き、それを忘れ、ご自分の誇り、力、輝きのために乱用せず、しもべたちの益のためにお用いになったとすれば、当然、私たちも同じ様にすべきです。私たちは、与えられた賜物を決して誇らず、高慢の手段として乱用することなく、むしろ力の許す限り、隣人のためにこれを用いなければなりません。                                洗足木曜日の説教

『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

仕える者

 牧師按手式で、ストールを受けて牧師となります。ストールの起源は、タオル、イエスさまが弟子の足を洗い、タオルで足を拭いたということからきています。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

主であるイエス・キリストが、弟子の足を洗ったように、ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならないというものこそ牧師であるということです。仕える者であるということです。

 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」         マルコによる福音書9:35

 祈り:生涯が隣人に仕える人でありますように。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」16

花嫁移民

私たちの教会の宣教の幅を拡げてくださったアウネ・ベハネン宣教師は、フィンランドミッションのミキネン宣教師の娘さんで、信州で育ちました。戦争でフィンランドに帰国されました。そのお嬢さんがアメリカのフィンランド人系のベハネン宣教師と結婚されました。国を越えて同じ民族同士が結婚するということは、移民社会でよくありました。日本移民社会でも日本からお嫁さんを呼び寄せることがありました。アメリカ移民では1908年から1924年までの間に渡航した写真花嫁の数は20,000人以上であったと言われています。ブラジルでも、よく写真花嫁移民という言葉を聞きました。

アウネ先生、ベハネン先生の出会いは、どうであったのでしょうか。アウネ先生がアメリカ留学し、スオミ大学で二人が知り合い、二人が日本宣教について語り合い、志を実現されたのでしょうか。アウネ夫人のお父さんがフィンランドの日本への宣教師でアメリカスオミミッションと関係が深かったので、日本に宣教にいく男性(ベハネン宣教師)がいるが、お嫁さんとなる人はいないかというフィンランドへの呼びかけにアウネ先生と話し合い、写真花嫁移民で二人は結び合わせられたのでしょうか。今となっては分かりません。しかし、確実なことは神が結び合わせたということです。日本語がよく出来たアウネ先生は大森教会で説教、聖書研究を担当したばかりでなく、婦人会、そして幼稚園を創立した。

大森教会の歴史のその中に移民文化が隠れていて面白い。

(大森日記))聖餐礼拝、午後から役員会、実習神学生との打ち合わせ。)コロナ影響で羽村幼稚園の園長、副園長が出勤できず、早朝に出かける。)大森幼稚園は新学期へ向けて準備。今週は幼稚園で時間がとられそう。他住会員へ週報の発送。)羽村幼稚園の加藤園長と打ち合わせ。電車で一冊の本を読み終える。)入園式も無事に終わる。)始園式。幼稚園が本格的に動き出す。今週は幼稚園で祈りと心が捕らわれた。他住会員の方々から電話をいただき勇気づけられた週でもあった。