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「神の強い意志ー愛しています」1月9日礼拝

43:1ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。2水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。・・・・4わたしの目にあなたは価高く、貴くわたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。                  イザヤ書43:1-4

3:21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。                 ルカによる福音書3:21

【説教要旨】

今週、国防のためにアメリカ軍基地のある沖縄、岩国の近くの山口、広島に感染者が増え、私たちの代わりとなっていることは、悲しく、心痛みます。一気に新型コロナウィルス感染者が増えました。そして、新型コロナウィルス感染を通して、私たちは色々と生きるということを見、見つめ直しています。いつ感染によって命が終わりになるか分からないと思いが私にはありますので、維持献金を一年分、献げようとしましたが、ここは神さまと交渉をして、「半年にしてください」としました。いつ命が亡くなるか分からないと言いながら、「一年を半年ではいかがですか」と神に交渉をする自分に呆れて笑ってしまいました。                                                                                                      命さえ分からないという深刻さがありながら、献金について神さまと交渉している呆れて笑ってしまう自分がいます。

-1-                                                                                                深刻な自分がいると同時に呆れるほど笑らえる自分がいるから、「たとえ明日が終わりであっても今日りんごの苗を植える」という生き方が出来て、心のバランスを保てているのだと思います。 深刻な自分がいると同時に呆れるほどの笑らえる自分が生きられるのはどうしてだろうかと思うのです。それは、私が信仰を与えられて、洗礼を受けて、私の傍に神がおられるという体にしみついたものがそうさせるのだと感じています。

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。」「声が、天から聞こえた。」というように強い意志を持って語りかける神が、傍におられるということです。 神の強い意志とはどういう意志なのでしょうか。今日、イエスさまの洗礼を通して、私たちに神は示されています。

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。ルカによる福音書3:21

神は「あなたはわたしの愛する子」であるという強い意志を私たちに伝えておられるのです。私たちが神に愛されることに相応しく私たち自身がどう思おうが、強く神は、「あなたはわたしの愛する子」と堅い意志をもって、私たちに臨まれるのです。理屈なく「あなたはわたしの愛する子」ということに共感させられるのが、信仰を与えられる、洗礼を受けるということではないでしょうか。

ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。イザヤ書43:1-3

私たちは追い詰められて身動きの出来ないことが、たとえ、洗礼を与えられ、信仰者として生きても起きます。押し流され、焼かれ、炎は燃えつきようという深刻な自分がいる。深刻であればあるほど頭も働かず、手も足も動かなくなり、自分が自分自身を縛っていきます。いや、縛られていると感じるのです。「こう言われる。」、「あなたの名を呼ぶ。」と語りかけて下さる神がおられるのです。「わたしはあなたと共にいる。」と。私は孤独ではないのです。そして、「恐れるな、わたしはあなたを贖う。」といわれるのです。「わたしの心に適う者」とされているのです。 私たちは追い詰められて身動きが出来ずに深刻にはまり、自分は生きるに価値がない、生きるが辛いと命さえ自分から消そうとする私に、いやあなたは「わたしの心に適う者」であると強い意志をもって、神は私の名を呼び、声をもって語りかけて下さるのです。この声の語りかけを聞くことが出来るということが信仰のダイナミックスで、私は、生きていて良いのだという自分の存在を肯定出来るようになるのです。どんなに罪深く、存在の価値のない自分であると思えても、神は強い意志を持って、「わたしの心に適う者」と私たちを肯定されています。

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劇的にモースピード変化していく社会、私たちは追い詰められて身動きの出来ないことが今年も起きていくでしょうが、私たちが変化に対応していくとかどうかでなく、ここに私たちは生きる存在として「わたしの心に適う者」という存在を神は認めてくださっていることを信じることが生きる勇気が備えられます。今日も命がどうなるか分からないと深刻になって、神と献金について、交渉している呆れた笑われてしまう自分であっても、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神は天からの声をかけてくださっているといつもここに帰るのです。自分がどうあるべきかということでなく、神と交渉している自分を見て、自分を笑えるようになる。自分の歩みを調整する力を与えられます。これが神に愛されているということです。飾らなくても、力まなくても、深刻にならなくても良い、裸の自分を裸のままに受け入れていく、「災難にあう時節には災難にあうがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これは災難をのがるる妙法にて候

水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

今週から幼稚園の仕事が始まったが、同時に新型コロナウィルス感染者が超高速に増えてきたので、気が休まらない。それは仕事始めの人も同じであろう。

特に国防の要となっている駐留米軍基地のある沖縄、岩国などの県、市に感染者が爆発的に出ていることに大きな痛みがある。では、何かが出来るかと言うと何も出来ない自分に苛立ちを感じる。ただ、嵐が過ぎるように早く災いが過ぎ去って欲しいと祈るだけである。

新型コロナウィルス感染は、隠れていた問題を洗い出す。基地の問題、平和の問題と。なぜ、人は主義主張によっていがみ合い、軍隊をもたなければいけないのか。基地がければ今回のような新型コロナウィルス感染は起こらなかったもしれない。「平和を作り出す人は神の子と呼ばれる」というイエスの言葉のように平和を作り出す努力をしたい。

      園長・瞑想?迷走記

最初の職員会議。自分で工夫して作ったローラースケートで園児が怪我をしたという報告があり、この遊びを禁止するかどうかという話までになった。安全を考えれば禁止することが安全パイである。しかし、楽しく工夫をして作り、楽しく遊んでいる子どもたちを見ていたので、どうも禁止する気持ちになれない。いや、止めさせる方が罪のように思える。しかし、怪我をしたこどもの保護者はどう思うだろうか。大怪我になったときはどうなるだろうかと頭の中を駆け巡った。

よし、ここは清水の舞台から飛び降りて、子どもの楽しそうな顔をとってはいけないと禁止することは止めた。そう職員に伝えた。

自由にのびのび遊べる環境を作るのが園長の仕事だと思い部屋を広く使えるようにテーブルをのけて、工夫をしようとアドヴァイスをした。子どもたちの活き活きした顔を取ってはいけない。こんな決断も清水の舞台から飛び降りるという気持ちになる蚤の心臓の園長に笑ってしまう自分がいる。痛かっただろう申し訳ない気持ちでいっぱいである。

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日毎の糧-ルターからの言葉

聖書:エフェソ6:10-17    詩篇106 

彼らは御言葉を信じ/賛美の歌をうたった。                   詩編106:12

なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

エフェソ6:16-17

ルターの言葉から

「御霊の与える剣である、神のことば」を受け取らなければなりません。これは悪魔に打ち勝つための最後のしかも最強の武器です。私たちは敵に対して自分を守り、敵が攻めてきたときに、ただ負けないようにするというだけでは不十分です。防御だけでなく、攻撃もできなければなりません。敵を追撃し、逃走させるのです。悪魔に対しても、信仰と希望を盾として、兜として防御するのみでなく、剣を抜いて悪魔を打ち、追い散らして、勝利を得なければなりません。

この剣を、パウロは「神のことば」と言っています。というのは、鋼と鉄の剣は悪魔に対してまったく無力だからです。御霊の剣でなくてはならないのです。    1531年の説教から

                『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

霊の流れ込み

 新年、最初に読んだ本は、山本将信牧師の「風は思いのままに-聖書黙想31日-」でした。「聖霊の『風』がさわやかに流れ込む窓は信仰です。酸欠状態の共同体は『恐れの空気』が充満し、疑心暗鬼の霊がはこびります。その酸欠状態の部屋に聖霊という名の『風』が愛と言う酸素を送り入れるのです。日頃の浅くて早い無意識の呼吸ではなく、静かで深い『息』を自覚的に行い、『神の霊(息)』を吹き入れられなければなりません。その『神の霊』の深呼吸の時が礼拝であり、その場が教会です。・・・・・・事実、讃美歌はまさしく神の深呼吸です。」

祈り:神の霊が私の窓に流れ込み信仰を保てますように。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」10

ルーツ昔「ルーツ」というテレビ番組があった。私たちは一人で突然生まれてきたのではなく私たちのルーツがある。

記念誌の返礼のメッセージがあった。「記念誌を読み終わりました。 スオミミッションのことは余り知られず、このまま忘れ去られることになりそうです。私は、幸い世代的にスオミを知っていますし、ルンド先生、ベハネン先生を存じ上げています。この記念誌によって、貴重なミッションの足跡が日の目を見ることを切に願うものです。神学生の読書レポートの課題にしてもらいたいなあ。」(元ルーテル学院大学学長・清重尚弘)。

あるいは「実に丁寧に教会の歴史を紡いでいらっしゃることに目を見張るものを感じました。米国スオミ・シノッド教会の実に貴い日本宣教の歴史を知ることができました。それだけでなく、日本福音ルーテル教会の宣教の歴史にとっても実に貴重な資料となることでしょう。」(日本ルーテル神学校校長・立山忠浩)

私たちの教会の歴史のルーツを記すだけでなく、日本の宣教の歴史にとって貴重な資料を提供できた。

私たちは大きな遺産を教会に与えた記念誌だと私も思っている。これが日本の宣教に役立つことを心から願っている。

(大森日記))元旦、主日礼拝と続き出席者は少ない。でも、帰省された東北学院の聖書科の先生が出席される。偶然だがヨハネ研究をしておられ、説教で話した間垣洋助先生の本を読まれと話された。若い牧師夫妻が訪問される。)ゆっくりと休み。)総会の準備。休んでおられない。)幼稚園の預かり保育が始まる。)天気予報通り昼から雪が降り積もる。園児たちは帰る時、未練を残したようである。顕現日、クリスマスの道具を片づける用意をする。今日でクリスマス終了。)朝に羽村幼稚園に行く予定だったが雪とコロナ感染の爆発で行くことを断念。総会資料をいっきに揃える。週の後半、バタバタしている。落ち着け。)気づくと3時。主日、総会資料、役員会議の準備終了。