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恵みと真理(神の愛)に生かされて  1月2日礼拝

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。     ヨハネによる福音書1:14

 

【説教要旨】

新型コロナウィルス感染拡大によって、翻弄された2年間から3年目に入りました。ワクチン開発、経口薬が出来て段々と光が見えてきましたが、この二年間に大きく変化して社会、私たちの生活はまだまだどのようなものになるかはっきりと見えてきません。感染に対して、先が見えないこれからの生活について私たちは大きな不安をもっての2022年の幕開けではないでしょうか。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という聖書の言葉です。日本最初のギュツラ訳聖書は、「カシコイモノハ ニンゲンニナラアタ ワタクシドモトモニオッタ」と訳しています。言、カシコイモノとは、イエス・キリストです。イエスは人間となられ、私たちと共に居られたのです。「宿られた」とは、天幕を張るという意味で、重い天幕を張ったということは、仮にここに住んだというのでなく、どしっと腰を据えて私たちの中に住まわれたということです。つまり、「ワタクシドモトモニオッタ」のです。ヨハネ福音書研究家の間垣洋助牧師は、この聖書の個所を次のように解釈しています。「イエスは、まことの神にして、まことの人である。彼は、人間の世界の中に住まわれたのである。何ゆえにそのようなことがありうるかは、人知の計り知るところではなく、それは奇跡である。」と。さらに、「奇跡には救いがある。見えない神が見ゆる人間となったという受肉こそ、救いの根源であり、ヨハネ福音書の主題である」と続けるのです。

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「カシコイモノハ ニンゲンニナラアタ ワタクシドモトモニオッタ」とは、神の奇跡の出来事であり、救いがここにあるのです。

「わたしたちの間に宿られた。―ワタクシドモトモニオッタ」、私たちの生活の只中におられたということです。イエスさまは私たちが営む生活の中におられる、これは奇跡であり、イエスさまは奇跡を起こされるのです。神は、私たちの只中に働かれているのです。

新しい年2022年も新型コロナウィルス感染拡大の不安の中で生活をしなければならないでしょう。しかし、この私たちの2022年の生活の場にも神はイエス・キリストの天幕を張ってくださっているのです。私たちはモンゴルのゲルを想像してください。天幕を張られる場所は城壁で囲まれた安全な場所でなく、まさに野です。クリスマスの物語を思い出してください。最初にイエス・キリストの誕生を教えられたのは、羊飼いです。

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。  ルカによる福音書2:8-11

夜通し羊の群れの番をしていたという危険な場です。その危険な場に救いはまず第一に知らされたのです。恐れるなと。ワタクシドモトモニオッタとから。それは、救い主がお生まれになったと、救いが見える形で見えるようになったというのです。

神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。

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わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。詩編46:2-4

ルターが宗教改革と言う大変化の中で、同時にペストと言う感染が猛威を振るう中で神は私たちを守ってくださっているという讃美をしたルターへ起きた奇跡を私たちに起こしてくださいます。

栄光、神の存在、神の力を表し、恵みと真理とに満ちていたということです。真理は、本当なことであり、それは私たちの内に宿ってくださったイエスさまです。イエスさまはその存在によって、神の力、ヨハネが強調する神の愛を示されました。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。ヨハネ3:16-17

恵みと真理とに満ちていた、この神の愛の真実を見失ってはいけません。ギュツラ訳は、「満ちていた」を「イイパイ」ですという強い気持ちを表しています。

キリスト者の人生は、いつも、何が起きようとも私たちは私を守る城壁のあるところを住むべき所とせず、主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛とにイイパイのところに住むのです。それを見つけていかねばならないのです。2022年も私たちにとっては、希望のある世界と言うよりも、守る城壁もなく、危険な野に天幕を張るような生活が続くでしょう。しかし、ここに言は肉となって、わたしたちの間に宿られたとイエス・キリストが天幕を張ってくださるという奇跡が日々あります。恵みと真理とに、驚くようにイイパイであるという神の真実があります。

また、私たちは、恵みと真理とにイイパイであることを生き辛く、困っている方々と寄り添いながら宣教と言う手段を用いて伝えていくことも私たちは決して忘れてはいけません。主・イエス・キリスト共に、また私たちともに宣教の業を時がよくても悪くても続けていきましょう。

今、一度2022年の出発に際し、み言葉に聞いていきましょう。

天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

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牧師室の小窓からのぞいてみると

年末に嫌なニュースが入ってきた。インド政府によるマザー・    テレサが創設した「神の愛の宣教者会」の宗教法人としての認定を取り消すということである。

民族主義の台頭である。現にインドはヒンズー教を原理と知る政党が、世俗的会議派から政権を奪還して久しい。六辻彰二氏によると「その背景に、『強者』である欧米の無意識の優越感への拒絶がある。」という。民族主義が強くなるとこの一方的に価値観を押し付けように感じられる。それがまた価値を多様化し、複雑な国際社会を作り、紛争を呼ぶことになる。

「チャリティの帝国-もうひとつのイギリス近現代史」(金澤周作著、岩波新書)で、チャリティが国内から海外へ向かう時に起きたことを「チャリティの皮をかぶった文化征服?」の結びで「チャリティには、それを及ぼす対象だけでなくその担い手をも、それと気づかせずに、ある権力関係に引きずり込む力があった」と言っている。

とは言え、弱者である対象者は、これによって大きな被害に合う。六辻氏は「ただし、『強者に虐げられること』への拒絶は、結果的にさらなる弱者を虐げることにもなりかねない。」と指摘する。

私たちは教会は今、大きな岐路にあることも確かである。

    園長・瞑想?迷走記

幼稚園の冬休み、そして冬季預かり保育の休みが入ると気も楽になると同時に私は忙しくなる。幼稚園が使われていない時に私の出来る範囲内での整備が始まる。まずは春花壇の準備、各教室の床の掃除、ワックスかけ、トイレの手の届かなかった部分の掃除、テーブルの修繕、ニスぬり、やればキリがないがやらなければならない。園長といえども用務員のようなものである。まあ、これも楽しいものである。しかし、寄る年波には勝てず体も動かなくなっているのでどれだけのことが出来るかブツブツと独り言を言っているのも事実である。皆が休んでる時が繁忙期の用務員園長だと思う。

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日毎の糧-ルターからの言葉

聖書:マタイによる福音書2:1~12  詩篇72

2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

ルターの言葉から

この物語から二つのことを学びたいと思います。

第一に、博士たちが新しく生まれた主キリストを探しに行ったとき、キリストはエルサレムにはおられなかったということです。・・・・・・・・・・・・しかし、博士たちは間違った所に導かれていません。貧しさとかみすぼらしさを気にかけず、彼らは幼子の前に平伏し、拝した。宝の箱を開けて、贈り物をささげました。

第二に、この物語から学ぶべきことは、私たちの主イエス・キリストにどのような態度をとったらよいかということです。・・・これらの博士とともに、全世界に主キリストを証しし、真心から主を求め、私たちの救い主として主を讃美することを教えられます。この顕現日にあたって、博士たちと同じ様に、私たちもキリストの前に宝の箱を開いて、贈り物をささげることができます。ではどのようにしたらよいのでしょう。そこで、次のみことばに耳を傾けましょう。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25・40)

『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

 

主の前に、感謝、全てをささげる

確実に主の前にいつも導かれることへ感謝し日々を過ごさせて頂き、感謝の証しとして、三人の博士のように私のすべてをささげること。これが信仰者の最高の喜びあると私は信じます。

祈り)私たちの大切なものをあなたに全てをささげることができるように私たちを導いてください。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」9

記憶と事実

「日本福音ルーテル大森教会 50周年記念文集」、「甲府教会30年誌」などスオミ・ミッションの教会の歴史について、よく書かれた素晴らしい記念誌である。よくよく読んでいると甲府は30年で記憶が事実とつながっているが、大森教会の50年は、記憶と事実が違っていることが分かった。20年の差が記憶と事実を一致させないこことになっていたのかもしれない。記憶は事実と異なることがしばしばあり、事実を吹っ飛ばして自分の中で事実としていることがあるのではないだろうか。70年史編纂となるとさらに記憶と事実に差異が生じてくるのではないかという不安があった。

70年史編纂委員会委員長が「史実の正確性を期し」とあるように資料にあたり、何度も確かめていった。一枚一枚の週報にあたり、読み、その場にいることを感じながらいると事実から見えてくる生き生きとした躍動感を与えられていった。何よりも資料を通しての事実が私たちに語りかけてくるものは大きな恵みであった。そういう意味で大切なことは、委員長が言っている「70年史を纏め上げるに当たり、改めて、文書の整理・保存の重要性を痛感させられました。」という思いを大切にし、実行しながら歴史を共に紡いでいきたいものであると強く思っている。

 

(大森日記))今年最後の礼拝、新型コロナ感染禍にあって、よくここまできたものである。朝、夕と無事に礼拝を終える。感謝である。昼間、週報発送、訪問も出来てよかった。)冬期預かり保育が今日で終った。何もなく感謝である。ホームセンターで必要なものを購入。)幼稚園は完全な休みになる。気持ち的には少しホッとしている。)今日も春花壇にむけて庭にパンジーを植える。今回は紫。徐々に増やしていこう。年を越さないように週報などを届ける。本部からの統計表を作成。今年から男女の項がなくなった。これも時代であろう。)2021年最後の日、掃除をし、カトリック教会へフードバンクの食品を渡し、除夜礼拝。