平和主日(8月6日)「剣をかえて鋤とする」
彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。 ミ カ書4:3
【説教要旨】剣をかえて鋤とする
今日は広島原爆投下の日です。4年ぶりにルーテルのこどもキャンプが、広島で今週、開催されます。聡太君が参加します。
平和がどんなに尊いかということを子どもたちに伝えたいからです。
今、本の整理をし、読み残した本をできるだけ読もうとしている本に灰谷健次郎さんの「いのちまんだら」という本があります。その一文を紹介します。
「肝苦(ちむぐ)りさ」 一般に「集団自決」というが、これは、生きて虜囚の辱めを受けず、という、あやまった教育による虐殺とみるのが正しい。
当時、慶良間諸島には渡嘉敷島、座間味島、阿嘉島、に人々が住んでおり、ここで「集団自決」が起こったと、ふつうは説明されているが、これも正しくない。もう一つの島にも人は住んでいた。渡嘉敷島から手を伸ばせば届きそうな位置に前島という島がある。・・・・・・・・・・・
校長は47歳の比嘉犠清さんだった。畑に出ていた農民から連絡があった。「兵隊がやってきて無断で測量をはじめている」駐屯をそししなければならない、と校長は思った。兵隊に協力をするが、お国の為だと信じられていた時代だから、これは命がけのことであった。
比嘉さんには、陸軍上等兵として戦場に赴いた経歴があり
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「兵がいなければ相手は攻めて来ない」という体験にもとづく信念があったという。首を切られるかもそれない、と思うほどの緊迫したやりとりが、将兵との間に交わされ、前島の住民一人たりとも犠牲にしないという約束を負わされることで、ようやく彼らは撤退していく。
後に、米軍も上陸してくる。島中を調べ、軍事施設がないことを知ると、スピーカーを通して、島を攻撃しない、安心して平常通り生活をしなさい、と告げて去っていく。
島民270人の生命を救った比嘉犠清さんであるが、彼は、このことを長く秘し、誰にも話さなかったという。
命が助かれば、ああよかったと思うのが人の常だ。すぐ隣の島々で阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられていることを、堪え難い思いのうちで過ごしたつらい日々が、彼に沈黙を守らせた。この気持ちは、前島の人たちに共通する感情だったと聞く。戦争の時、自分たちだけが平和に暮らした。この思いが心の痛手となる。
「肝苦(ちむぐ)りさ」という言葉を思い出す。
沖縄には同情という言葉はない。相手のことを思うなら、その痛みを我がこととして背負え、ということだろうか。
長い歳月生きてきても、これほどむずかしい課題はないと思うけれど、そこに近づこうとする意志を放棄すれば、そのとき人間は人間であることを止める。
今日の聖書日課である預言者ミカが生きた時代は、北王国、南王国にしても大きな激動の時代でした。経済的繁栄と領土のダビデ・ソロモン時代の回復した時代です。しかし、同時に社会的腐敗、不正義のすすみ、貧富の格差増大が矛盾を深刻にしていきました。国の緩みは、外圧の迫る中で、一つ一つ崩れ去り、滅びていきます。この時代にミカは、4年間の活動をしました。主の裁きに信頼してこそ新たな救いの根拠があると告げていきます。
彼は当時の指導者を次のように批判します。わたしは言った。聞け、ヤコブの頭たち/イスラエルの家の指導者たちよ。正義を知
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ることが、お前たちの務めではないのか。善を憎み、悪を愛する者/人々の皮をはぎ、骨から肉をそぎ取る者らよ。彼らはわが民の肉を食
らい/皮をはぎ取り、骨を解体して/鍋の中身のように、釜の中の肉のように砕く。
指導者が民を犠牲にして、自分が生きているという「肝苦(ちむぐ)りさ」の心なさに対する批判です。神のみ心は、「肝苦(ちむぐ)りさ」、相手のことを思うなら、その痛みを我がこととして背負え、ということです。
ミカの預言はまた私たちにもむけられているように思います。自分だけの論理と、繁栄を求めて、他国に軍隊をさしむけてもよいということは成り立つはずがありません。ミカはこの世界はきっと神の裁きの中に滅びると預言します。人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。
私たちが知恵を、力を、富をもって他国に兵を送ることでなく、私たちの学ぶべきことは、「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」ということです。
それは、神のみ心は、「肝苦(ちむぐ)りさ」、相手のことを思うなら、その痛みを我がこととして背負う心から出てくるみ言葉です。
私たちに新たな決意が求められているように思える。カトリック教会は「平和への決意」で、「教会がそこに隠されていた非人間的、非福音的な流れに気がつかず、尊い命を守るために、神のみ心にそってはたさなければならない預言的役割について適切な認識に欠けていたことも、認めなければなりません」と告白しています。
広島で子どもたちはキャンプをします。次の世代の子どもたちにあれだけひどい広島、長崎の原爆被害があったんだから、それをみんなしっかり勉強して、どんな状況でも核兵器はノーと言ってほしいと願っています。「肝苦(ちむぐ)りさ」。
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牧師室の小窓からのぞいてみると
今、生きづらさを感じる一つは自分と違うものを排除していくという風潮が流れている。SMSを使って、違うものを攻撃し、排除していき、それが一つの声の流れとなっていくということが一番怖い。ここまで来ているように思える。
もう忘れてしまったかもしれないが、太平洋戦争の始め、国家の方針と違うものの排除から始まった。そして公の力、法律をもって違うものを排除していった。それが治安維持法である。教会もこの法律によって、「天皇が偉いか、神が偉いか」といちゃもんをつけられホーリネス派牧師が獄死した。党でいえば共産党であった。いろいろな意見が言えず、いろいろなことが出来ず、一直線に太平洋戦争に突入し、沖縄戦、本土空襲、広島,長崎の原爆投下という悲劇を生み出した。
私たちがロシアの大国により侵攻されたウクライナのようにならないという保証はない。今の国際状況をみるとき、私たちが違う意見を殺しても、一つにならなければいけないとする意見が集約される方向へ進む空気を感じる中で、8月は先の大戦のことを思い、「平和を願う」意見を教会で作っていきたい。
平和を作り出す人は幸いである。神の子と呼ばれるだろう。マタイ福音書5:9
園長・瞑想?迷走記
年長さんの踏み台(椅子にも使える)を作った。板を切るにしても、それぞれの違いがある。また色に付けにしても色々と、それぞれの個性が出てくる。これを指導というもとで、切り方も、色付けも一つにすれば大人の言う綺麗なものが出来上がってくるだろうが、私たちは決して押し付けない。だって、踏み台くりにしても興味のある子、ない子から始まり、色付けはその子が、これが良いと選択したと思う。それぞれがどういう選択をしても受け入れていくのが私たちの幼児教育保育だと思っている。
幼児のときに、自分の選択を自分で出来ていくように寄り添っていく教育保育が将来にとって知識と経験を積んだと新たな世界を自分が広げていくことになると思っている。
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日毎の糧
聖書: わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。 詩編118:21
ルターの言葉から
これは喜びにあふれた聖句です。純粋な喜びをもって、歌い踊ります。あなたは私たちを、驚くべく、また恵み深く統べ納められます。驚くべき尊い神ではないでしょうか。
あなたは私たちを最もへりくだらされるとき、最も高くあげてくださいます。私たちが罪人であることを示すときに、義としてくださいます。私たちをよみに下らせるときに、天に導いてくださいます。私たちを降伏させるとき、勝利を与えてくださいます。私たちを死に渡すとき、生命を与えてくださいます。私たちに悲しみを与えるとき、慰めをくださいます。嘆き悲しみを与えるとき、喜びにあふれさせてくださいます。泣くことを許すとき、歌を与えてくださいます。私たちが苦しむとき、強くしてくださいます。貧しくするとき、富める者にしてくださいます。私たちに仕えることを許すとき、主にしてくださいます。 『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社)
答えてくださる神
信仰の歩みを振り返るとき、たとえ今が自分が望んでないことであっても、神は答えてくださり私たちに救いをくださっています。
ルターが、「私たちに悲しみを与えるとき、慰めをくださいます。」というような事実があるということです。
今、ウクライナへのロシアの侵攻によって、平和が脅かされ、私たちの暮らしも脅かされつつあります。しかし、神は答え、救いを与えてくださいます。
「戦いあるときに、平和をくださいます」という信仰をもって、たとえ現実がどうであれ、私たちは希望を失わずに平和を希求していくものでありたいものです。
祈り:朝戦いと、不安にあるときも神はこたえてくださいます。感謝をも取って希望の内をあゆめますように。
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大森通信
「引退の準備」 伝道45年 4.共働牧会・・・8.「共に」 共働牧会をするとき、一番難しいのは、教会と教会との共働である。「複数共同牧会」を推進した東海教区は苦労をした。現在でも課題は残っている。 他教会と協働で牧会、宣教していくということは頭では理解できても、理屈だけでは決して上手く動かない。 「自分を愛するように、隣人を愛する」ということである。灰谷健次郎氏が紹介している「肝苦(ちむぐ)りさ」という、同情でということでなく、相手のことを思うなら、その痛みを我がこととして背負うという心が教会にあるかということを問われる。北森嘉造牧師、「神の痛み」という神学で、「腸痛む」と表現している。神は「肝苦(ちむぐ)りさ」。私たちに同情するのでなく、私たちの痛みを十字架で背負って下さった。ここに神の愛があった。 宣教方策は、ただ単に頭で作文するものでなく、相手のことを思い、その痛みを我がこととして背負うことだと思う。「協働牧会」に最も大切な心ではないだろうか。 8月に城南神奈川地区会が開かれる。そこで横浜教会が置かれている崖の法面の補強がある。教会の下に住んでいる人の不安、それに応えようと存続の根本を問われている横浜教会の苦しみを想像し、この痛みを我がこととして背負うことが出来るようになりたいし、そこから地区の教会の協働のわざが自己保存的だけでなく、隣人を愛するというダイナミックなものになると思う。「ステファノ・ミニストリー」を推進した勝原忠明牧師は、「ステファノ・ミニストリー」だけでは宣教にとって不十分だと強調され、1.み言葉の学び(ベテル聖書研究)2.み言葉から育まれる霊性(アシュラム)を加え、宣教の3本柱としていた。 「訪問伝道」も、教会の全機能を静かに更新する霊的運動として進展し始めた信徒の霊的運動という。 協働牧会という宣教の方法を用いてで勝原牧師は西日本ルーテル西明石教会を島村亀鶴牧師は日本基督教団富士見町教会を整えた。 二つの運動が強調するのは、み言葉から育まれる霊性であると思う。 ルター学者の金子晴勇先生は、ルターの霊性を取り上げ、(『キリスト教思想史の諸時代Ⅴ』「ルターと現代の霊性」)批評家・随筆家の若松英輔氏も霊性について書いている。(『霊性の哲学』)」金子先生は、植村正久の『霊性の危機』より引用して、「祈祷会は霊性界の実存を証明す」と紹介している。今、「宣教方策」がルーテル教会から出され、社会の課題に応えていくということ、また篤い牧会の実行が討議されが肝心の教会の課題、霊性の危機については討議されなかったのは、残念である。 祈祷会は霊性界の実存を証明す」とあるように祈祷会を大切にしてこそ宣教はあるのではないだろうか。 |
(大森日記)土)神学生の時から始めた寄席へ。若手、二つ目が頑張る深夜寄席はダイナミックである。日)実習神学生の最終日。一人の同労者と接してきた。心温かく激励会の祈祷会をして送りだす。招聘へ向けての信徒会。中学生から夕礼拝にきた子が大学受験。続けていてよかった。月)K先生の配慮で神学生と昼食会。火)ブラジルを思い出す激しい風雨。帯状疱疹のワクチン。水)ワクチンのためか一時、熱がでる。木)暑い。ワクチンの影響か調子が悪いが、週報などポスチング、訪問。金)チャリティーコンサートでお世話になった方のコンサートへ。感謝。