聖霊降臨後第5主日(7月2日)「小さな者に目をそそぎ続ける」
6預言者エレミヤは言った。「・・・7だが、わたしがあなたと民すべての耳に告げるこの言葉をよく聞け。 エレミヤ28:6-7
40「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。 41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。 42はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」 マタイによる福音書 10:40-42
【説教要旨】「小さな者に目をそそぎ続ける」
イエスさまの伝記を書いた福音記者マタイの目には、イエスさまが、小さな者に目を注がれていたというお姿がうつっていたことです。
「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
「わたしの弟子だという理由で、この小さな者」という言葉から、この小さな者とは、弟子であり、イエスさまの「弟子」は「小さな者」であるということです。
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」という驚くべき言葉に出合います。弟子である私を受け入れることは、イエスさまを受け入れるということと等しいというのです。私たちが立派であるかどうかでないということです。私たちは小さな者にすぎないのです。さらに私たちが、預言、神の言葉を預かる預言者であり、正しい者であるというのです。しかし、私たちは預言者でも、正しい者でもありません。小さな者にすぎないのです。
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小ささゆえに神に託されたみ言葉を伝えるのが難しく、力ないことを強く、いやというほど感じています。また、神のみ旨を行い、正しく生きることの難しいことを私たちは知っています。この小さな者の一人こそ、弟子であるというのです。
預言者エレミヤは自分に託された神の言葉を預かる重さゆえに自分が若いということで逃れようとします。
しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。 エレミヤ書1:7~8
若者にすぎない、小さな者であることを神は知っておられます。それでもあなたは、若者にすぎない、小さな者であるということを言ってはいけないというのです。あなたは、わたしの弟子であるとういことです。小さな者であるあなたにみ言葉を預け、預言者、弟子として神は、イエスさまは私たちを召し出すといわれるのです。
新型コロナウィルス大流行によって、私たちの想像を絶する勢いで社会は大きく変化しています。私たちが小さな者、小さな力ない者であるといやというほど知らされています。自分たちを守ることさえ難しさを感じ、イエスさまの弟子としての信仰者であるということに揺らぎ、不安と恐れが私たちを支配しているのではないでしょうか。何か大きな力によって自分が押しつぶされそうになっており、無力さを感じています。恐れに襲われ、体は硬直し、その心はおびえ、生きる喜びは消えて、暗い闇の中に閉ざされてしまいそうなところを生きています。
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「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」とは、弟子であるこの小さな者に、神は目を注ぎ、生命の根源である水を与えられるとイエスさまは約束されています。主は私たちの生きる道に共にいて、命の源を用意されています。この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、神であり、イエス・キリストであるのです。
「信仰者がどんな生き方をしようと、その行いは神の働きであると、各自が心得るということである」とルターは面白いことを言っています。私たちは小さな者であり、力ない者であり、世に対して私たちは何も出来ないような存在かもしれないが、しかし、神の言葉につながり、弟子とされた私たちは、神の働きの中で生かされているということです。この小さな働きに残されたものは無から有を創造される神の働きです。このことを今の時代だからこそ各自が心得ていくことです。神はこの小さな者に目をそそぎ続けています。
エレミヤは神の民の滅びを預言します。これがバビロン捕囚です。この60年間、小さな神の民は、大きな力あるバビロニアに圧倒され、苦渋を飲みつくしますが、徹底的に自分たちの在り方を顧みさせられて神の民としてのみ言葉に生きる信仰が確かなものとされます。神はこの小さな者に目をそそぎ続けたのです。パウロは、「わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいる」と言います。小さな者は、恵みの下にいるのです。
同時に弟子である私たちは、小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受けるとあるように気づかないうちに私たちも小さな者の一人に、冷たい水を飲ませる存在とされているのです。パウロは、あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいますといます。神の恵みの下、小さな者に目をそそがれている下、本当に自由であるがゆえに、本当に愛の奉仕ができる存在、ルターの言う小さなキリストとされているのです。「私もまた、私の隣人のためにひとりのキリストになる」と。
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牧師室の小窓からのぞいてみると
ロシアでワグネルの反乱と言う内紛が起きた。そこで聞く言葉に「民間軍事会社」と言う言葉がある。「民間軍事会社とは、直接戦闘、要人警護や施設、車列などの警備、軍事教育、兵站などの軍事的サービスを行う企業。(ウィキペディア)」とある。私には聞きなれない言葉であるが、よくよく考えると昔からある傭兵という制度が、近代的武器をもって、訓練され、軍事会社となったということなのだろうか。
歴史を振り返ると傭兵、外人部隊などがあった。外人部隊は、国の正規部隊とされるということで、民間軍事会社と区別されるというが、今回、民間軍事会社であるワグネルにロシア政府は多くの資金を投入し、国の正規部隊でなく補完するものとして雇っていたことが分かった。日本だって中国との関係で国防という事で軍事会社が出現する可能性がないと言いきれるだろうか。
沖縄戦終結、原爆投下、敗戦記念日と続く、夏のこのとき「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。マタイによる福音書5:9」のイエスの言葉を肉としたい。
園長・瞑想?迷走記
園庭の掃除をしていると、子どもたちが残した遊びの後があります。
この頃は、木の根元に穴が掘られています。その穴を埋め戻しながら、どんな気持ちでここに穴を掘ったのだろうか思い起こします。そして、私なりに掘っている子どもの姿が目に映ってきます。埋め戻しながらこちらも楽しくなり、力をいただいています。
教育・保育は、大人が子どもの成長を助ける業ですが、しかし、私は大人が子どもを助けるという一方的業でなく、ここにいる子ども、大人が自分たちの成長というか命を生きる場、時を共に生き、互いに助け合う業が起きていると思っています。
神の前においては、互いに小さな者であり、小さな者同志が互いに助け合うことによって、キリストの場、命を与えられていると思います。
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日毎の糧
聖書:罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちを/あなたは贖ってくださいます。 詩編65:4
ルターの言葉から
祈ることが上手になる本当のこつは、あなたが祈りがうまくできな
いと感じて、神にそれを申しあげるそのときに、祈りを始めることである。このようにすれば、あなたはきっと上手になって、すぐに心が軽くなり、楽しくなり、たとえこの重荷があろうとも、そのあいだを突き進んで行くことができるだろう。そうすれば、罪があなたに思い違いをさせたり、妨害したりすることはなくなる。いや、このようにして、あなたは罪の中にいると思わなくなるのである。
『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』 湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館
いかにして恵みの神を獲得できるか
「私は非のうちどころのない修道士として生活したのであるが、神のみ前においては《自己を》きわめて不安定な良心をもった罪人であると感じ、自分の償罪によって神をなだめたと確信することはできなかった。私は義しい(がゆえに、それゆえ)罪人を罰する神を愛することができず、むしろこの神を憎んでいた」と私たちの教会の創立者・マルティン・ルターは、自分の罪に苦しみ、神さえ憎んだと言いました。
「罪の数々がわたしを圧倒します」と詩篇は詠いつつ、自分を圧し潰しそうになる罪の激しい力に打ち勝つは誰であるかということに詩人の目は向かいます。「あなただけです。それをことごとく赦されるのは」(左近淑訳)」と。「あなただけ」、神だけであると。ルターの言いうような 罪人を罰する神でなく、ことごとく赦す神です。神とは「恵みの神」です。いかにして恵みの神を獲得するのではなく、恵みをもって神が私たちにいてくださいます。「あなただけ」を見ていきましょう。
祈り:怒りの神でなく、赦し(恵み)の神が共に私たちとおられ、私たちをいかしてくださることに目をむけていけますように。
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大森通信
「引退の準備」 伝道45年 4.共働牧会・・・4.「共に」 初代教会は、互いに教会同志で助けあっていました。有名な話としては、パウロがエルサレム教会の経済的困窮を知り、ガラテヤ諸教会に呼びかけ献金を募り贈ります。 時代が変わり、今こそ初代教会の精神に帰ることが大切ではないかと私は思います。理屈なく、自分の教会だけでなく、一緒に歩んでいる他の教会を知り、すべてのことにおいて共に歩むことがエゴの固まりである自分だけという近代社会を穿つ力となるのではないでしょうか。 先日、城南神奈川地区牧師会が開かれ、横浜教会の法面についてどうするかということを横浜教会だけのことでなく、地区のことと思い話し合われました。また、来年、引退される牧師がおられ、次の方を呼ぶにはどうすれば良いかということも地区のことと思い、話し合われました。他の教会の課題が地区のこと、そして自分の教会の課題と受け止めるとき世界は変わってくるのではないでしょうか。 ◆エルサレム教会の信徒のための募金 聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。そちらに着いたら、あなたがたから承認された人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう。第一コリント16:1-3 |
(大森日記)日)礼拝後、一人一人への手紙を書き、神学生と週報の発送準備をした。15年間続けてきたこと。これも終わる。月)信徒さんの義母の家族葬。参列出来ないので朝、慰めを祈る。広島にルーテル幼保の研修の最後の打ち合わせ。同時にブラジル時代に一緒に苦労して宣教したI夫妻と会う。火)手紙を発送する。午後から地区牧師会。水)近所の信徒さん宅に週報などをポスティング、訪問。木)羽村幼稚園の運営会議、西多摩地区幼稚園の会合が聖書の学びとぶつかり、神学生が変わって担当くださる。参加された方から学びへの感謝メール。神学生に渡そう。金)礼拝、職員会議と続く。主のお守りの内に無事に終了。