聖霊降臨後第6主日(5月14日) 礼拝「私は一人ではない」
14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 ヨハネによる福音書14:15―19
【説教要旨】 「私は一人ではない」
通常礼拝は神学生の説教演習で、夕礼拝が説教担当となりました。夕礼拝を始めたのは初任地の別府でした。児童養護施設があり、職員らが朝の礼拝に出られないこと、高校生がバイトdで出られないこと、子どもたちが礼拝に出ることを園長が強く願っていたことです。どうして、園長がこんなに強く子どもたちが礼拝に出ることを望んだのだろうかと思いました。
園長はよく「私はモードに金で買われ救われた」と言っていました。親の借金のために売られようとしていたときモードが買い戻したということです。モード女史の自伝に次のように書いてあります。「ある日、佐賀から電報がきた。『11歳の少女が熊本のFに36円で売られた。4時半に熊本着。』野中さんとわたしが36円を用意して待っているところへ、店主がその子を連れてきた。わたしたちは金を払うから娘を渡すようにと言った。彼は驚き怒った。けれども警察に報告するというおどしに、彼は腹をたてながらも、少女を私たちに渡した」
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園長はモード女史の施設で成長していきます。「静子は並々ならぬ頭の良い子であった。・・・・・・・・国語の学科が特別に優秀だったので、国語の教師になれるように、東京の実践女子専門学校へ行かせた」と。園長は、モード女史との出会いを通して、キリストを知っていったのです。
貧しさゆえに自分の身さえどうにもならないところに追いやられることはある、しかし、真理の霊、すなわち、堅い神の愛、見えない神の力が降り注いでいます。曽我神学生が朝の礼拝で、「イエスの父が遣わす『別の弁護者』です。イエス・キリストという弟子たちの『弁護者』が天に帰られた後も、イエスの業を継続させる別の贈り物としての聖霊なのです。この『弁護者』はギリシャ語で『パラクレートス』と読みます。『パラ』は『傍ら』で、・・『クレートス』は『呼びかける』で、『パラクレートス』は『傍らで呼びかける人』という意味になるでしょう。・・・訳も様々あり、新共同訳や協会共同訳は『弁護者』。口語訳では『助け主』。・・・ルターは『慰め主』と訳しており、様々な意味が当てはまります。・・・イエスが私たちに与えられる『弁護者』は、私たちの苦難、悲しみ、喜びなど様々な人生の状況の中で、最も必要とする働き、助けをする聖霊だからです。この共同体の中にいる私たち一人ひとりにとってパラクレートスは、『あなたの罪は赦された、あなたは無罪である』と告げる『弁護者』であったかもしれません。苦難の時に私を背負って歩いてくださった『助け手』であったかもしれません。悲しみに打ちひしがれる時には『慰め主』であったかもしれません。神との繫がりを絶とうとする自分を『戒める方』であったかもしれません。それらすべての『弁護者』、『パラクレートス』はイエス・キリストによって『永遠にあなたがたと一緒にいる』よう与えられた『真理の霊』、聖霊なのです。」と説明されました。神の堅い愛が私たちともにある。静子園長は、自分に血、肉となり自分の生を支えてくれた真理の霊を「この霊を見、知って、受け入れ」て欲しい、この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるここにこそ私たちの真実の生があるということ、あなたがたのところに戻って来ると言われる方が、今、みなしごとなって施設に来ている子どもたち一人一人に来られていることを、わたし(キリスト)は、あなたがたをみなしごにはしておかないという神の真理の霊(「弁護者」、「助けて主」「慰め主)に触れられ育って欲しいという強い祈りがあった。今、色々な事情によって、孤児となった子どもたちが園長のように人生が上手くいく子ばかりではない。しかし、うまくいかない辛い人生を送っても、あなたにはわたしは、あなたがたをみなしごにはしておかないという真理の霊が永遠に一緒にいてくださると願うキリストの祈りが貫かれていること、今月のこども讃美歌、「『良い子になれないわたしでも神様は愛してくださる』ってイエスさまのおことば」が礼拝を通して、語られるように傍で呼びかけるパラクレートスがおられるという強い園長の願いが、み言葉に触れる礼拝だったと思います。
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礼拝を開くということは、「しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」というイエス・キリストの真理、愛を伝えて、生きる力を与えることになるのです。
AI、人口知能が、ほとんどの分野で人間にとってかわり、人間について、本人よりもよく知るようになれば、大多数の人は存在価値を失い、巨大な無用者階級を成し、人間の人生と経験は神聖だという人間至上主義の信念は崩れ去り、一握りのエリート層は、自らをホモ・デウスにアップグレードし、無用者階級を支配したり切り捨てたりして生き残りを図るかもしれないという未来の中で、私たちは追い詰められ孤独が深まっていくこういう時代だからこそ、パラクレートス、真理の霊、神の愛の力が贈られ、あなたがたをみなしごにはしておかないと私たち一人一人が支えられ、生かされています。あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになると傍で呼びかてくださるパラクレートスがいます。
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牧師室の小窓からのぞいてみると
新型コロナウィルス感染症が、季節性インフルエンザ並コロの5類になった。これをどう受けとめていくかである。やっとここまできたと手放しで喜ぶか、まだまだと用心する必要があるとするか。人それぞれの受けとめ方があると思う。
こんな非日常の3年間の大きな出来事が、インフルエンザ並みの5類に移行したから安心だと精神的にすぐに落ち着くわけにはいかないだろう。
14世紀から流行したペスト、20世紀初頭のスペイン風邪、そして21世紀初頭の新型コロナウィルス感染を、いわゆるパンデミック(世界的流行)と歴史は記録している。その歴史から私たちは学び、医療の発達によって、乗り越えてきたのも事実である。楽観視してはいけないが、いたずらに悲観してもいけない。普段から当たり前のこと、手洗い励行、また感染については忘れずに、パンデミック、大流行がいつでも起きるのだという意識を持ち続ける事だと思う。
イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」マルコによる福音書5:34
園長・瞑想?迷走記
復活祭とクリスマスの最低2回、卒園生に一言を加えて葉書を出し、450枚を越す。数枚、返信の葉書が帰ってくる。また、街で会うとお礼の言葉を言われる。仏教用語に「袖(そで)振(ふ)り合(あ)うも多生(たしょう)の縁(えん) 」とあるが、ご縁を大切にしたい。
「○○ちゃんのパパさんと話した際、『ルーテルで一緒だったお子さんを見かけると、つい話しかけたくなりますね』とおっしゃってました。全く同感です。(笑)」。互いに縁を大切にしてこそ人と人がつながっていく平和の街があるのではないかと思う。
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日毎の糧
聖書:68:6 神は聖なる宮にいます。みなしごの父となり/やもめの訴えを取り上げてくださる。 68:7 神は孤独な人に身を寄せる家を与え/捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。 詩編68:6~7
ルターの言葉から
この世全体は神を冒涜する。その少数の者だけ、しかも一番貧しい者によって神は崇められる。「貧しい、哀れな民が主を呼ぶであろう」(ゼファニア3・12)と記されている。大いなる牛追い(権力者)と建築家(智者)たちは主を呼ばない。これは好ましいことではないだろうか。なぜなら貧しい人たちは彼らの前に現れないし、神の栄光のためにこれを信じないであろうか。彼らはこの栄光や讃美を(神でなく)自分たちのものにして、「それはわたしたちだ」などと言うであろう。 『卓上語録』M.ルター著、植田兼義訳、教文館
神はどこにおられるか
「神は聖なる宮にいます。」と言われる。それは高みにおられるということではなく、みなしご、やもめ、孤独な身を寄せる場のない人の低くきにいて、耳を傾けてくださるというのです。ただ、孤児の父なり、やもめを助け、孤独な人に家を与えるということでなく、孤児、やもめ、孤独な人、捕らわれ人をとおして、すべての人が神の恵みのうちに生かされるようにしてくださるということです。
イエスさまは、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と言われています。それは、弱い者、貧しい小さな者との関りをとおして、キリスト、神と出会い、救いの力を与えられるのです。
神の聖なる宮とは、小さい者のおられるところです。私たちの教会はいつも小さな者とともにありたいものです。
祈り:私たちの奉仕の業が、神の出会いの場であるということを心から信じて奉仕の業に導かれて行きますように。アーメン。
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大森通信
「引退の準備」 伝道45年 総会資料Ⅻ 「牧会Ⅶ」 教会成長の三原則、1.共働牧会 週報の発送 イエスさまは弟子を派遣するとき2人一組で送り出しました。それは、私たちが祈りを通して、神さまの愛を届けるためにチームを組んだのだと思います。一人で出来なくても苦労しながら、苦労を分かち合い出来るようになるためです。 「週報の発送」はそういう共働の牧会の一つです。K姉、Y兄が中心となって、教会にしばらく来ていない方、来られない方のために週報を発送、あるいは届けています。今はK姉は退き、Y兄がしてくださっています。この週報の発送、届けることは教会の私たちが決してあなたのことを忘れない、忘れていないこと、一緒に歩むという心を届けるのです。一筆を加えるのですが、それぞれの信仰歴を聞きながら祈りをもって言葉を添えます。 長く教会を離れていても、私たちにとっても繋がっているという祈りです。そして恵みを一緒にいただくということです。玄関先に届けにもいきます。ポスティングだけのとき、話し、祈るときあります。牧師が、信徒が、牧師と信徒が訪問します。 こういう共働の奉仕が、教会に多くあります。「週報の発送」のわざを含めて共働の牧会がこれからも続いて欲しいと願っています。共同牧会を目指したいですね。 |
(大森日記)土)役員会の準備。体調が今一つ。日)礼拝出席が少ないがいつものように礼拝を大切にしていきたい。無事に夕礼拝が終わりホッと。月)体調が悪い。入園面接をする。そこで分かったのは子育てに悩む保護者に寄り添うことが福音を伝えていくことではないだろうか。火)体調が悪い。最後までいけるか自信がなくなる。水)今日はzoomで会議に出る。体調の悪い時に助けになる。木)医者に行く。夜は聖書のまなび。神学生の説教をみなで共有してみ言葉を伝える努力。金)幼稚園の社会科見学、最後だから無理して出かける。晴天よかった。