聖霊降臨後最終主日(11月20日)「世に属さない」
彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。見よ、このような日が来る、と主は言われる。 エレミヤ書23:4,5
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。 コロサイの信徒への手紙1:13
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 ルカによる福音書23:43
【説教要旨】この世に属さない
今日で教会暦は閉じて、次週からクリスマスが始まる新しい年に入ります。教会暦を閉じるとき、イエスさまの十字架の出来事が聖書日課となっています。十字架の記事はマルコ福音書を土台として、マタイ、ルカ独自の記事になっています。ルカ福音書が伝えたイエスさまの私たちのメッセージは、失われた者を取り戻す。罪人を取もどすという事です。クリスマスにおいて、罪人とみなされていた羊飼いに救い主・イエスさまの誕生を告げます。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。ルカによる福音書2:11―12」、99匹の羊を残して迷い出た羊を探しに行く。「「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。ルカによる福音書15:4―7」と。
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イエスさまのこの世における最後の十字架の出来事にも、イエスさまの両端には、迷い出て犯罪を犯した罪人がいました。二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。彼らは迷い出て、犯罪を犯し、十字架という闇のうちでもがいています。このもがいている犯罪人をイエスさまは、裁くのでなく、私たちにとって、驚くべきことをこの一人に宣言されるのです。
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。ルカによる福音書23:43
彼ら犯罪人は楽園、天国にはいるというのです。迷い出ていた犯罪人を失われた二人を取り戻し、天国にイエスさまはつれていくというのです。神の愛は、罪人に近づいてきてくださいます。最後までイエスさまは罪人を連れ戻し、愛を与えてくださるのです。
彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。見よ、このような日が来る、と主は言われる。 エレミヤ書23:4,5
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。 コロサイの信徒への手紙1:13
み言葉の通りに神は十字架、闇の極み、滅びの死の中で苦しむ者をもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない者と神はしてくださり、御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいます。私たちは、この一人のようにされたいものです。神の愛に触れて、イエスと共にパラダイスに入り、この世に属さないものとなりたいのです。
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一方、イエスさまの愛に、神の愛に触れたのにもかかわらずもう一人は、「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』23:39」と彼は、なおこの世の力によってすべてが解決すると思って、イエスを、神の愛をののしるのです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」というこの世に属さない楽園、天国に入れなくなったのです。そこは闇のままです。私たちは、この人は他人事でなく、自分でもあるということを受け止めていなければなりません。
2022年も私たちにとって、新型コロナウィルス感染は止まらず、また、民族間の争い、歴史観の対立によりロシア大国の侵略目標にウクライナはされました。それぞれの暮らし方、生き方、考え方の違いから、対立が生まれ、利益がからみ、それぞれの民族の存亡にかかわるような問題もおこり、対立はいやがうえにも高まり、その緊張も高まって、爆発し、一挙に力ですべてを解決しようとする方向に、ことが運んでしまいました。迫害、虐殺は、当然のなりゆきになりました。世界が、なんとか保ってきたそれまでの平和は、一瞬のうちに吹き飛んでしまいました。たとえひとときの平和と繁栄が許されたとしても、それは束の間ことであり、破壊されていく危機と紙一重の状況にあったことを知らされました。不安で、先が見えない日々を生きていても、またそれは、私たちの罪の結果ですが、ここに十字架に架かられたイエス・キリストが横に立って、私たちの苦しみ、闇をいっしょに背負ってくださっています。
終わりに次の神の言葉を聞きます。
彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。見よ、このような日が来る、と主は言われる。
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。
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牧師室の小窓からのぞいてみると
トランプ氏がまくし立て、これに賛同する人がおり、トランプ氏が推薦した候補が出馬するという良識が通じないような今回の中間選挙が、絶妙な選挙結果で終わりそうで、民主主義とはどのようなものかというアメリカの良識を示してくれた。この絶妙さを導いたのが若者であったと分析しているのもあった。昔、学生時代、Nから「腐っても鯛」とアメリカを表現していたが、腐ってはいなかった。こういう良識が政治に反映されてこそ、民主主義が大衆迎合の衆愚政治に陥らないものである。
ルターは、良識を深める良心ということを大切にした宗教家であった。さらに良識を支える良心が問われる。ルターは、「私の良心は神の言葉に縛られている」と言う。神が死んだ現代社会で、その良心とはなんだろうかと問い続けていきたい。この世の力だけには縛られたくない。
園長・瞑想?迷走記
人間の行動が自由になり、そして病状も軽症で、風邪も流行っており保護者の方も判断が難しい中で新型コロナウィルス感染が拡がり、幼稚園、保育園はまた振り回されている。風邪だと思っていたら検査すると感染していたということもあると聞く。私たちの幼稚園も影響を受けている。休園、学級閉鎖をするにしても、今は幼稚園の判断に任されている。幼稚園の責任は重くなっている。
しかし、ここで、愚痴っても仕方ない。一つ一つのケースを見ながら慎重に決断していくしかない。また昨日決めたことも柔軟に変更し、その時、その時で対処していくことが大切である。
今まで想像したこともなかった歴史の事実の中で、難しい判断を園長はしていかなければならない。こういうときルターではないが、神の言葉に縛れた者である霊性が問われているように思う。
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日毎の糧
聖書: 主よ、憐れんでください/わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています。 詩編6:3-4
ルターの言葉から
私は、自分が何を語っているか知っている。他の人々も、自分が語ることを自分で知っているかどうか吟味してほしいものである。・・・
私たちは、この世の生において、特に平穏な生活の中ではそのようにしないで、神は、死やその他にあらゆる種類の試練を私たちに置かれ、それによって私たちの気持ちを動かそうとされる。そこで私たちは神の慈しみや命を求めるのである。
(『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館)
神への憐みと試練
先日、サンパウロ教会の代議員をされて、長く宣教を担ってくださったO兄が来て下さった。80歳になるという。年月の早さを感じるとともに次はこの地上でなく、天でお会いすることになるかもしれないと感じた。
私たちは、この世の生において、特に平穏な生活の中ではそのようにしないで、神は、死やその他にあらゆる種類の試練を私たちに置かれ、それによって私たちの気持ちを動かそうとされる。私も70歳になる。これからは、死が神によって置かれようとされている試練が待ち構えている。死の前には老の深まり、貧、病が置かれる。それへの恐れはますます深まる。まさに私たちの気持ちを動かそうとされている。しかし、私たちが動かすのでなく、動かされる。外から私たちを動かす。外の力、「神は」とあるように神が動かされているのである。動かされる神に心を向けていきましょう。私ではない、死の前に老の深まり、貧、病を置かれた神がおられる。だから詩人は主よ、憐れんでくださいと祈る。詩人のようにますます神の慈しみや命を求める日が老いの日である。
祈り:神の慈しみと命を求める祈りをささげる日々でありますように。
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大森通信
「引退の準備」 伝道44年、空 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。 伝道の書1:2~4 牧会44年、「空」である。しかし、私は「空」であるということを決して悲観的に、厭世的に捉えない。 コヘレト(伝道の書)は異端の書とも思われてきた。神学生時代に伝道の書に私は出会い、旧約聖書特講でシカゴ神学校ファースト教授から学んだ。今もファースト教授の録音テープを大切にし、先生がお書きになったケンブリッジ旧約聖書注解を何度も読み返しては牧師生活を整えている。 牧師という職業は、やっかいである。人一倍、私は何者かでありたい、何物かを残したいと使命ゆえに力み、間違いを起こし、自分に絶望し、他人に、社会に絶望する。伝道者は言う「見よ、すべては空である。空である」という事を知ることは、自分のしたことなど所詮、空と。空と向かい合うと力みを取り去ってくれ、ありのままの自分、ありのままの現実を受け入れ、自分を解放し、今、ここにいるだけで、この時を生きていればいいのだと知る。ここを、この時を精一杯生きよと声を聴き、勇気が湧く。44年間、私の歩みは空だが、ここに恵みの風が吹き、私を精一杯、丁寧に生きるように連れ戻してくださっている神の御手を感じる。人の業は空です。しかし、空なる世界に神はおられます。最後まで精一杯、希望をもって、あと一年を生きたいと主に連れ戻される日々でありたい。 |
(大森日記)土)エルソン牧師の墓の掃除、墓前礼拝を行った。墓石の前に撒く石、20キロをF兄が担いで持ってきてくださる。感謝。日)幼児祝福式。コロナ禍、出席者が少ない。月)コロナウィルス感染の拡がりで一学級閉鎖を決断。火)学級閉鎖と自主登園の日。いつものように保育の業を。週報などを送付。水)コロナウィルス感染が拡大のうちはH幼稚園へは行かず、メール、電話でのやりとり。便利である。木)全クラスが開かれる。自主登園だから登園者は少ない。庭は春への準備が信徒さんと始まる。詩篇の学び。金)冬の前の素晴らしい晴れの日。