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聖霊降臨後第17主日(2022年10月 2日)「からし種の信仰」

見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。ハバクク書2:4

そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。                                                                          2テモテ1:12

  あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」                 ルカによる福音書17:10

【説教要旨】「からし種の信仰

金を儲けることが是という弱肉強食の新自由主義の世界の中で私たちが、信仰者として生きるということは、大変に難しいと思います。弱者と共に生きる教会にとっても、多くの挑戦を受けています。そして、この時代を自分が信仰者と生きようとすれば、するほど現実の中で、小さな信仰が押しつぶされそうになり、私たちは自己保存的になり、それを良しとするとエゴイストがますますあぶり出されてきています。「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。17:4」とイエスさまが言われるとき、それは赦すことの出来ないエゴイストな私、「わたしどもは取るに足りない」者です。「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。」とあるように、大切なことは、自分が「取るに足りない」という自覚で、高慢な者とならないことです。私が何かが出来るという心が私たちに起きたとき、私たちは正しくありえないのです。佐藤優氏が、「その人間が人生で最初に出会った宗教的な世界観は、その後、どこを放浪しようと、結局その鋳型から離れることは出来ない」というように牧師としての転機は、ブラジルでの宣教でした。ここでの体験が今までの宣教を支え続けました。

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ある時、「何か助けることは出来ないか」と日本で宣教をしていたフィンランド教会の海外宣教担当をしていた方が訪ねてきました。検討した結果、その頃、最も必要なものは、「日葡対照聖書」でした。そこでブラジル日系キリスト教連盟の理事長・弓場司祭に相談を申し込みましたが、鼻にもかけてくれませんでした。ある早朝、教会の呼び鈴がけたたましくなりました。理事長です。「きみきみ、聖書、聖書」、「日葡聖書ですか。」、「そうだ、そうだ、それだ」。「でも、先生は、鼻にもかけなかったではありませんか。」、「聖書を作る。君が宣教師会の援助で作るというので鼻持ちならないと思っていたが。これは、神のお仕事だ」、「では、資金はどうするか」・・・・と思っていたが、すぐに「日本に行き、日本聖書協会の人と会って交渉する」というのです。

フィンランド宣教会の支援があれば出来るという鼻にかかる私の思いは、どんなに正しくことであっても、正しくなかったことに気づかされました。海外宣教師会という力に頼った高慢だったのです。どんなに正しい計画であっても、力に頼る高慢さは、正しくないということです。

早速、理事会を開き、日系教会創立70年にむけて日葡対照聖書を作ることを承認していただきました。どのような方法で作ればよいのか、資金はどうするのかという船で出でありました。

「神に従う人は信仰によって生きる。」。何も無いが、信仰がある。取るに足りない者を十字架にかかり愛してくださる神が共におられる。人生の事あるごとに悔い改め、神に向かい、神の愛、キリストの愛に帰ることです。信仰、神への信頼に帰る。決して、人間の確かさ、力に信頼しないという事です。神の愛の確かさ、信仰に自分をかけてこそ、乗り越えられないような壁、困難さも、苦難も乗り越えていけるのです。

6主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

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からし種はゴマよりも小さな種です。現実に押しつぶされ、吹き飛ばされる信仰です。しかし、それで、十分だというのです。弓場司祭は日葡聖書の作成で、大きな壁にぶつかった時、マタイの平行記事、「イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」」を引用されて、「ブラジルで山が一つぐらい移ったって大したことはない。大したことでもないことでも神さまは応えてくださるのだから、聖書を作ることは神さまの御心だから、きっと応えて下さる」と言うのです。これが神に従う人は信仰によって生きるということだと教えられました。佐藤優氏が「宗教は、布教によって広がるのでなくて、その宗教を信仰している人の姿を見てそれが感染していくのが本来の在り方」というように、今まで、私は取るに足りないからし種一粒ほどの信仰でしかない者であるが、この取るに足りないからし種一粒ほどの信仰でしかない者を用いて神さまは、使ってくださるということを確信して生きてきました。ルターは、「苦悶し、破れ、試練にあえいだ者でありながら、それにもかかわらず、それを超えて、神の恵みの確かさに賭けた生身の人間だ」と徳善牧師が言うようにここに立つのです。「キリスト教的人間は自分自身においては生きないで、キリストと隣人とにおいて生きる。キリストにおいては信仰によって、隣人においては愛によって生きるのである。キリスト者は信仰によって自分自身をこえて神に至り、愛によって再び神から出て自分自身の下にまで至り、しかも神と神の愛のうちにとどまりつづける。・・・・見よ、これこそ真の霊的なキリスト教的自由であって、あらゆる罪と律法と戒めから心を解放するものであり、天が地とへだたるごとく、他のすべての自由にまさる自由なのである。」(「キリスト者の自由」)

幾多の困難な事があって、移民70年に日系同胞のために神の言葉、日葡対照聖書を届けられました。「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」ということを実現してくださる神がいます。より複雑な弱肉強食の現在社会、教会は隣人において愛に生きることを命じられたことをみな果たすことの出来るものとされています。だから弟子が「わたしどもの信仰を増してください」とイエスさまに願ったように願い続けていきたいのです。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

安倍元首相の国葬は、保守的な私でも白々しく、苦々しく感じている。私は、安倍さんが保守ということを変質して変えてしまったと思っている。そういう保守を多くの若者が支持していた。保守とはどういうことか勉強したくなった。

園長・瞑想?迷走記

先週、教育・保育の夏季セミナーを纏めた本を読み、大変に刺激され、自分の園の教育・保育の見直しを気づかされ、次への勇気を与えられわくわくさせられた。10冊を注文し、他園の園長にぜひ読んでいただきたいと思って配った。

幼児教育・保育の世界では知らない人はいないという方のキリスト教理解のお粗末さが気になった。日本のインテリのキリスト教理解はこれぐらいだとK兄に後日、教えられた。

幼稚園を語るとき、フレーベルを語らざるをえないが、彼の信仰の背景はルター派の信仰である。彼の著作を読むたびに共感し得るのは、共通の信仰があるからだと思う。幼児教育・保育のキリスト教の果たしてきた役割は大きい。「キリスト教とは」、「キリスト教教育」とはいうことを私は語れるのかと自分自身を問うた。

「キリスト教保育」とは?-実際、「キリスト教保育」とい雑誌が毎月出され、キリスト教系の幼稚園・保育園に配られている-なぜ、わざわざ「キリスト教保育」と言うのかと問いなすと面白いことを発見できるのではないかと感じている。

日本の幼児教育・保育に影響を与えたのはフレーベルの影響を受けた倉橋惣三で、クリスチャンであったが、晩年はキリスト教から離れていったと聞く。「キリスト教保育」から「保育」と変貌した。なぜ、私たちは、「キリスト教」という冠をつけるのか、その中身を真剣に問わなければいけないと思った。

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日毎の糧

聖書:目覚めよ、わたしの誉れよ/目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう。

詩編57:9

 

ルターの言葉から

 私たちの救いと生のすべては神の慈しみのうちに置かれ、包まれている。わたしたちが現にあり、生きているのは、たた神の慈しみによるのである。          『卓上語録』M.ルター著、植田兼義訳、教文館

慈しみと真実 

詩編の信仰の根本は、神は、「慈しみと真実」な方であるということです。神の慈しみと真実-確か-によって、私たちは生かされています。私たちの歩みは、いつも順風満帆といきません。特に死を前にして、病気、死への恐れの中を生きます。しかし、私たちは「慈しみと真実-確か-」の中を生かされています。しかし、病気をするとよく分かるのですが、曙の光がなんと待たれるかということです。曙は神のいますところです。

モード・パウラスは「東の空に朝日がさすころ、イエスが慈愛園におはいりになるのだと考えるようになった。・・・・・

わたしの家の扉を救い主がたたかれるとき、わたし一人では解決しきれない多くの問題のある一日があることを知っていた。わたしが昔の弟子たちのように(マタイ26:22)『主よ、まさかわたしではないでしょう』とわたしが言うのは、わたしの救い主とこれらの朝まだきのひそかな出会いにおいてであった。・・・・・・なぜなら仕事はしばしば、コミュニケーションの欠落と忍耐の不足のゆえに、より困難になったからである。わたしの耳をさとくして神秘な導きを開かせ、しばしばわたしが周到な準備をした計画を打ち壊して、よりよい道を示してくださったのは、この朝まだきの救い主との交わりにおいてであった。・・・・・この静かな導きの声によるものであった。(「愛と福祉のじゃざまに」モード・パウラス  稲富いよの訳)

祈り:神よ、曙の光が注ぐように慈しみと真実が注がれますように。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」30

月報

 多くの教会で、月報が作られている。私たちの教会も「からし種」が発行されていた。教会員同士の交わりと求道者への宣教の手段として大きな役割をしてきた。

私はいくつかのそういう教会報というものを集めている。その中で、私たちの教会とも関係ある甲府教会の丹沢牧師の月報と毎週出す便りが好きである。丹沢牧師は甲府教会の出身であり、大森教会と甲府教会の合同修養会に学生時代に参加されていた写真が70周年史にある。文章の切れ味のよさ、はっと気づかせる言葉は絶品である。

«待時»第10号※異なるものを受け入れる

「世の中で何が難しいかといって、自分と異なるものを受け入れることほど難しいものはない。しかし、その難しいことをやってのけた二つの例をここにご紹介しよう。

戦後、・・・「フルブライト計画」で米国に留学した人の数は5800人。財・官・学界からの人たちであった。しかし、米国に学んだ人達には米国が嫌いになった者の数は多い。だが、この計画は、それを充分承知して受け入れを続けた。そこに氏の«異質な文化を理解することが国際間の紛争につながる»との計画趣旨が生かされていた。米国の利益になる線だけでつなごうとしなかったところに、この計画のおもしろさがある。」

 

(大森日記))理事会の行き帰りの車中で保育書を読み終える。保育書というより生き方を教えられる。)夕礼拝まで時間があり、頼んでいた本を取りに行く。引退最後まで読むことにする。)快晴、子どもらは楽しくやってきて水遊び。気持ちが良い。)「風のように」の準備のために「聖書の学び」の原稿を起す。書類の断捨離。)片道1時間半の道は読書の時間。)運動会の練習で苦情がきた。さて、どうするか。時代と向かい合うしかない。)快晴