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聖霊降臨後第16主日(9月25日)「聞くことは天につながる」

17この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。 18善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。 19真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。  1テモテ6:17-19

 

アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」ルカによる福音書16:31

 

【説教要旨】「聞くことは天につながる

それぞれの福音書は、それぞれが置かれている社会状況、生活状況の中で、イエスさまならどう語り、どうなさったかということを自分が持っていたイエスさまについての資料から聞き、イエスさまの生涯を描いていきました。これが「〇〇による福音書」となって、私たちのところに今、届いています。2022年は「ルカによる福音書」が読まれ、これに耳を傾けているのです。

ルカによる福音書は、金持ちに大変厳しいイエスさまの言葉、態度が描かれています。

「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」ルカによる福音書18:25

本日の聖書日課の「金持ちと貧しい人ラザロ」の話は、まさにこのみ言葉を表現しています。この世を勝手気ままに生きた金持ちは、死後、炎の中で苦しみもだえます。貧しいラザロは、アブラハムのふところで慰められます。生きているとき、ラザロは、金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。

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金持ちと「門」ということを境にして大きな淵があって、ここからラザロが渡ろうとしてもできないし、そこからラザロが越えて来ることもできないという超えることが出来ない現実の世界がありました。それが私たちの現実な世界です。

ブラジルにいるとき、モジダス・クルーゼスというところに集会に行っていました。夜遅く、サンパウロに帰ってくるバスの窓の外に教会の門の前に多くの貧しい人が重なりあって、寝ていて、教会の門は閉ざされていた光景を見て、ショックを受けました。

そして、私はどこにいるのか。私のいる場所は、こういう国で生きずに、このような境遇にいなかってよかったという正直な気持ちでした。この感情が正直な感情であればあるほど罪深いものです。しかし、何が出来るかということです。教会が門を閉じているように、閉じるしかない、何も出来ないということです。

「善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。」ということが出来ない罪にいました。しかし、わたしはその時、誓ったのです。この現実に無関心ではいないようにしようと。

死後、金持ちと貧しい人のラザロとは超えることが出来ない世界にいます。

6:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 16:26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

この違いは、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」ということ、金持ちであるということが、理由でしょうか。金持ちであるというよりも金持ちがもつ危険です。

金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。

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この貧しいラザロの存在に無関心であったということです。

森司祭は、次のように解説をします。

「金持ちは自分の中から聞こえてくる欲望の叫びにその耳を塞がれてしまっていたのです。楽しみたい、幸せになりたい、利益を得たい、仕事をしたい、遊びたい・・・などなど、これらはわたしたちの凡人の心の奥から聞こえてくる欲望の叫びです。私たち人間は、自分の中からの叫びには敏感に反応します。しかし、その叫びが強ければ強いほど、そして、その叫びにひきずられればひきずられるほど、他者の存在には鈍感になります。無視しがちになります。他者の存在の叫びを無視することが、どんなに重大なことであるかを明らかにするのが、今日のイエスのたとえ話です。」

天における越えられない溝は、金持ちであるかどうかいうことでなく、私たち自身であるということです。この金持ちが私であるということに気づくことです。

ルカは貧しき者の幸いを伝えつつも、ルカの意図を越えてイエスさまの言葉は、この金持ちこそ私たちだと迫りつつ、私たちが悔い改めることを迫るのです。モーセと預言者に耳を傾けよと、そこに書かれている律法は常に神から離れていく民と深く関わり、民の声を聞き、その存在と叫びを無視することなく、そこにいる弱者に目を向けて、弱者を救うために神が私たちに心を開き続ける律法の言葉です。モーセと預言者、つまり神のみ言葉に聞くことです。聞くことから日々、私たちの生活に起きることです。み言葉に聞くことにより、私たちの毎日のひとこまひとこまが天につながってくるのです。

「人生の一瞬一瞬、人と人とのかかわりのひとこまひとこまを大切にしなければならないことです。人生が自分の幸福の追求だけに終わってしまうなら、わたしたちの将来は、たとえの中の金持ちと同じ道をたどることになります。」という森司祭の解説の言葉の重さを感じます。今、自由経済の中で、人生が自己追求だけに向けられ、その流れが当然であると生きている私たちに金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていたラザロの存在が向けられているということを感じ、声を聞き、愛の業をなしていきましょう。神の愛の律法に聞き従うこと、それは天につながっているのです。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

安倍元首相の国葬に反対して、焼身自殺まで起きてしまった。これは、人が命を投げ出してでも反対しなければならないと切羽詰まらされたということかもしれない。人一人の命がなくならなければならない国葬とはなんだろうかと再度、考えさせられたショックな事件だった。

国民みなが心から強制でなく、その人の功績に感謝し、死を悼むということが国葬ではないかと思う。

反対が多く、命さえ失われていくこの国葬は、歴史的にどう判断されるのかと思うと暗くなる。

個人の死は悼むべきである。これを誰もが止める理由はない。止めてはいけない。

しかし、国葬は個人ではないことに政治家は気づいてほしかった。国論の大多数の声を無視しても、今更、止めることは出来ず、行わなければならないだろう。このことが悔まれる。

園長・瞑想?迷走記

新型コロナウィルス感染がおさまりつつあったが、年長さんは一泊二日の保育の信州・清里へのりんご狩りに出かけた。新型コロナウィルス感染以来、子どもたちは、行動を制限され、ソーシャルディスタンスということで、人と人との関係が奪われ日々で、濃いい関係が知らず、知らずに薄れた中で、寝食を共にして、濃いい関係を友達同士に結ばざるをえない環境にあった。

最初は個人の思いが、行動が優先して、いつもとは違う関係性の中で戸惑っていったが、次第次第にディスタンスよりも濃いい関係を結ぶ中で、表情が生き生きしてきた。この時は心から力いっぱい楽しんでいることが伝わってきた。後日、「とっても楽しかった」と子どもらは保護者に話したと聞いた。人と人との関係の中で楽しめたことはよかった。

小心者の園長は、ひたすらコロナウィルス感染が起こらないことばかり祈っていた。何も起きずホッとしている情けない園長である。

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日毎の糧

聖書:王が神の前にあってとこしえの王座につき/慈しみとまことに守られますように。 詩編61:8

ルターの言葉から 

    この世の権威は神が憐れみ深く、いかなる殺人も喜ばない、神の恩恵のしるしである。    『卓上語録』M.ルター著、植田兼義訳、教文館

慈しみと真実の政治

政治と宗教は、一つになり難い。むしろ、対立することがしばしばある。

あくまで政治は、神の前にあってどう統治していくかということである。人の主義や人の行為によってなされるほど危ういものはない。これが聖書のいうところだが、決して化け物の政治はこれに従わない。アメリカ大統領は、聖書を前にして宣誓するが、決してみ言葉通りに任務を遂行するとは限らない。その偽善が暴かれるばかりである。だから私たちはいつも不確かさの前に生きていることを忘れてはいけない。

では、神の前に生きるとは、どういうことか。新改訳、口語聖書の訳がそのことを伝えている。

「恵みとまこととを彼に授け、彼を保つようにしてください。」というように「恵みとまこと」を持って、政治を行うということである。

146:7 虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち、 146:8 主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し

146:9 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。詩篇146:7~9

これが、慈しみと真実を持った政治のありかたである。

祈り:神よ、政治が慈しみと真実をもって行われますように

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」30

神学校を支えて

 私学の大半が定員割れを起している中で、ルーテル学院大学は、苦労をしているのではないかと思う。学校は他の私学と同じように相当危機感を感じているのではないだろうか。それが、直接、私たちに伝わってこないし、危機に対する感じ方に普通の教会との温度差があるのではないだろうか。

2009年、私が教会幼稚園に着任して定員割れを克服し、定員を増やすほどになったが、2022年、3名の定員割れをした。他の園からすれば割れ幅は小さいが、危機であり、これを克服する手段を取ってきた。大きな原因は、社会の多様な変化があり、そこで少子化が始まった。新型コロナウィルス感染がさらに少子化に拍車を急激にかけた。また、待機児童解消で保育園が多く建てられていった。少子化に対して収容施設の過剰である。そのあおりをくったということである。

ルーテル学院大学、神学校も同じような立場にいるのではないかと心配している。では、私たち教育を担う学校はどう社会の変化と向き合い、どう社会がなるほどいうようなものを提供していくかを問われている。それは、私たちの教会が幼稚園の課題を教会の課題として取り組んでいるように、ルーテル学院大学の課題も教会の課題として取り組んでいくことが求められていると思う。おもしろい教会の宣教の課題が生れたと私は思っている。それをみんなで議論し、実行するとき教会は教会らしくなるのではないだろうか。

(大森日記))主日の準備だが、体調が今いちである。定年前の精神的なことであろうか。これは面白いと記録したいとひそかに思っている。)台風の影響で雨が激しい。この中を礼拝に来られた方に感謝。また遠くの親子連れの会員を車で送ってくださる配慮に感謝。)「敬老の日」、こちらも老に入ったと思うと感慨深い。園の休みは心に安堵感。)幼稚園が始まると精神的には緊張感。)午前中、大森で誕生会、午後、羽村幼稚園に行き、事務作業。これも気分転換になる。家内の誕生日、夕食を共にして祝う。ここまで来ました。)信徒さんと遠方会員などに週報など手紙を添えて発送。)幼稚園の休みはホッとする主日の準備、訪問が出来た。でもみなさん留守。会えずに残念。不思議だがお彼岸になると彼岸花が咲き出す。さて台風の備えをするか。