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新しいことが起きる   4月3日礼拝

19:主はこう言われる。・・・・見よ、新しいことをわたしは行う。    イザヤ43:16~21

しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。            フィリピ信徒への手紙3:7-11

12:7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。 12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」                                 ヨハネによる福音書12:7~8

【説教要旨】  新しいことが起きる

4月は学校暦では、新学期で進級、入園、入学があり、新しいことが起きる月です。そして、一斉に桜の花が咲き、春を告げられ、新しいことが起きると私たちに期待をさせます。

しかし、今の私たちの状況は、3年目を迎えた新型コロナウィルス感染は、いっこうに収まる気配がありませんし、ロシアのウクライナ侵攻は、今まで私たちが味わったことのない新しいことが起きているということを私たちに感じさせています。

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21世紀の初めにあたり科学、技術革命が新しく起きています。しかし、技術の発展は、私たちの内なる声を聞きたがらず、むしろ声を制御して、技術を展開する方向に向かい、技術が人を支配し始める新しいことが起きるのではないでしょうか。

一方、神を必要としない人間至上主義にあって、私の内なる声を聞くという時、新しい技術を得た人間は、これを使い自分の欲望を追求し、最終的には私の内なる声、それは虚構であるのですが、虚構が虚構でなくなり、心の内にあるべき真実となって、独善的になっていくのです。特に人が厄介な欲望を抱いたとき、とんでもない新しいことが起きるのだと思います。それが、今回のロシア、プーチン大統領のウクライナ侵略が人間至上主義と科学、技術革新が結びついた新しいことです。だから、私たちは虚構が虚構でなく、あるべき真実、ウクライナはロシアのものであるというプーチン大統領の真実は、この真実を追求し、たとえどんな困難があっても、自分の真実を突き詰め、困難をものともせず新しいことに進む、核戦争さえ、つまり第三次世界大戦さえ辞さないということです。私たちがウクライナへのロシア侵略に抱く不安はこのことではないでしょうか。厄介な欲望です。その厄介な欲望をいだいていることに気付かない独裁者がいるという現実に私たちがいるということがさらに不安にしているのだと思います。

18世紀から始まった神中心から人間中心に変えることによって、神を主役から外し、人間中心主義になり、それに科学、技術が大発展し、さらに人間至上主義が世界を覆っている中で、今、厄介な時代を生きている私たちはどう生きたらよいか苦しんでいるのではないでしょうか。

人間至上主義の中で、聖書を読み、聴従といっても、きっと、こういう言葉が聞こえてくるのではないでしょうか。「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』ルカによる福音書23:39」

本日の聖書日課も第二イザヤという預言者の言葉です。48年間バビロン捕囚末期から捕囚解放の時代を生きた預言者です。

彼は捕囚末期を生きた預言者です。捕囚の日々は、捕らえた人々から、「お前が神の民と言うなら、自分自身を救って見よ」という声が、また自分自身の内なる声でもありました。しかし、彼はそうであっても神の声を聞くというのです。その声とは。「19 見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」

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私たちは未来を予測することは難しいし、出来ない。かってないほどの急速に変わっていく手に負えない激動の21世紀の初めを生きている中で、新たに信仰者である私たちの生き方を変え、新たな生活を作って行動するのは容易ではありません。

「18 初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。」とは、過去の追憶にふけり、それを嘆くなということであって、「見よ、新しいことをわたしは行う。」という神の業を信頼するということです。新しい神の業とは、イエス・キリストの十字架と復活です。主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさの内を生きることで、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいというのが私たちです。同時にキリストが生きた隣人と寄り添い、愛の業を生きたように私たちも生きることです。

データ至上主義の現代社会の中で、一つの示唆を福音書は私たちに示しています。「5 『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』」ということは、データ的には正しい、しかし、ここに捕らわれていたならば、今、ここで必要とされている人を助けることは出来ないのです。今、この物語に必要な人はイエスさまです。「7 イエスは言われた。『この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。』」。今、必要する人を助ける、これが「いと小さき者にしたるは,我(イエス・キリスト)にしたことである」ということです。データを第一としたら、新しい愛の業は起きづらくなります。第一は、「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」と言われる神です。第二イザヤは、人に笑われようとここからイスラエルの民を導いていきました。人間至上主義の時代にあって、人から笑われようとここに立つことは並大抵なことではないでしょう。されどここに立つ。そして、「あなたがたに新しい掟を与える。互いにし合いなさい。わたしがあなたがたをしたように、あなたがたも互いにし合いなさい。」、新しい掟を生きることです。

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科学、技術の大発展の中で、人間至上主義、データ至上主義へと向かう中で、神を中心と生きる私たちは化石かもしれない。しかし、何を言われようと、「神に愛され、同時に隣人を愛する」という信仰の歩みを共に歩んでいきましょう。

しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。という信仰の醍醐味を味わいましょう。

参照:『ホモ・デウス』ユヴァル・ノア・ハラリ 訳柴田裕之 河出書房新社

牧師室の小窓からのぞいてみると

今回のロシアのウクライナ侵略にあって、私たちが忘れてはいけないことは、砲弾の下で生死と向かい合い、厳しい日々の生活の内にいるウクライナの人々を自分で想像できることである。この想像力がきっと私たちを勇気づけ、私たちに何が出来るかという想像力を生み出し、実行できる。

現代人は多くの画をインターネットから入手は出来るが、想像力に欠けると思う。ぜひ、プーチン大統領には、この想像力を回復し、平和に導いていただきたい。

      園長・瞑想?迷走記

他の園の理事長として、経営をしている。これからというとき、新型コロナウィルス感染が始まり、対応に時間を取られている。さらに職員が濃厚接触者になり、園を運営していくには、冷や汗ものである。こういう状況にあったとき平時は出てこなかった課題が、見えてきて改善させられていく。確かに困難との出会いはマイナスのことばかりか、良いことでもあると体験している。この体験を経験化し、幼稚園運営に具体的に表現していくことも園長の仕事と自分に言っている。

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日毎の糧

聖書: 主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。・・・・・・ 17 あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いください。   詩編31:10,17

   多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。                                                  へブル信徒への手紙2:10

ルターの言葉から

 「もろもろの苦難によって」、すなわち、もろもろの苦難をもって、「全うすることがふさわしかった」であり、したがってその意味は、神がキリストを救いの完全な創立者とするため、さらにこの事を完成するためにもろもろの苦難を利用なさることはふさわしいことであったということである。なぜならもろもろの苦難がなければ、神がわれわれを感動させて、死と苦難を愛するところまで導いて行く模範の完全さが無いからである。              『ルター著作集第2集10 へブル書講解』  岸千年訳 聖文舎

 

もろもろの苦難によって

 だれでも苦難を負いたくはありません。多くの宗教は苦難から逃れる、救われることに意味を見出します。

しかし、キリスト教の信仰は苦難と十字架です。苦難を通して、神の愛を知り、感動させられるのです。しかし、苦難の中で、神を捉えることが、信仰においてもっとも困難で苦難なわざです。しかし、困難、苦難の中で、神に求めてこそ数々の苦しみを通して完全な者とされるのです。私たちは神に向かって祈りましょう。主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。・・・・・・ あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いくださいと。

祈り:苦難にあっても、神に救い求めていくものでありますように。

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大森通信

「人間に対する裏切り」

 ウクライナのロシアの爆撃は、東京大空襲、城南大空襲、他の街の空襲を思い出させた。 1945年4月15日の深夜から大田区全域にB29機、202機が飛来し大規模の空襲があった。小学校48校中34校が消失、本門寺は、総門、五重塔、輪蔵を除き消失、東京独逸学園も消失した。夥しい遺体が本門寺公園に埋葬され、死者841名を出した。消失した家屋は7万戸、22万戸とも言われている。山口兄宅も消失。「城南大空襲(前後計6回の空襲」である。(「今日の馬込文学」を参照)

 毒蝮三太夫さん(中延)は、体験談を語っている。「俺は跡取りっていうのとは違うけど、疎開せずに親といた。おやじが『死ぬときはみんな一緒だ』と思ったらしい。5月24日の城南大空襲のときは、火の海の中をおふくろと必死で逃げた。爆風が痛いし、煙で目も痛くてたまらない。途中で『こんなにつらいなら死んだほうがいいよ』って言ったら、おふくろが『バカ、死ぬために逃げてんじゃないよ。生きるために逃げてんだから頑張んな』って叱られた。やっぱりおふくろは強かったね」、「翌日、夜が明けて家に帰るときも、地面が熱いんだよ。歩いているうちに靴の底が焦げて穴があいてくる。そしたら、道端に子ども用の革靴が落ちてた。駆け寄って拾ったんだけど、ずっしり重いんだよね。中を見たら足首が入ってた。履いてた子どもは、爆風で飛ばされたんだろうな。俺は手を合わせて、その靴を履いたよ。いつもは厳しいおふくろだったけど、何も言わなかった。履くことが供養だと思ったのかもしれない」。そして、「爆撃(ウクライナ)の映像は、あの日の自分と重なって、見ていて何とも言えない気持ちになる。俺が怖いなって思うのは、戦争を体験していない政治家が戦争をやっちゃってるってこと。俺たちの世代が、戦争のときどんな目に遭ったか、戦争ってのはいかに残酷かをしゃべっていかなきゃいけないんだろうな」