「受容」 3月20日礼拝
2 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。3 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。・・・・・6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。・・・・ 8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。9 天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。 イザヤ55:1~9
13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。 1コリントの信徒への手紙10:13
13:2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。13:3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 ルカによる福音書13:2~3
【説教要旨】 受容
ブラジル聖公会の大キャノン弓場司祭が、牧師は社会に生きているゆえに神学を深めるために社会の仕組みを誰よりも知らなければならないと言われていた。実際、かれは大学に入り直して社会学を勉強していた。江口武憲牧師も社会が政治と経済と結びつきここを生きていることを忘れて宣教は出来ないと言われていた。当たり前のことであるが、私たちは空気だけを吸って生きているのでなく、政治、経済ということが絡み合っている中で生きているのです。
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本日の聖書日課は第二イザヤという預言者の結びの言葉です。48年間バビロン捕囚末期から捕囚解放の時代を生きた預言者です。
捕囚以前に北王国は強国アッシリアに占領され混血政策を強いられました。サマリア人の誕生です。後に一般のユダヤ人はサマリア人を混血ゆえに軽蔑、差別し、付き合わず、旅行する時もサマリア人の住む土地を避け、捕囚帰還後の神殿再建からもサマリア人は遠ざけられました。民族の分裂を生みました。
南王国は、この後バビロンに国土は踏みにじられ主だった人々はバビロンに連れていかれ、苦労、苦難を味わいました。
民族の分裂、民族の強制移住をさせられ苦しい歴史を経験した民は、この経験の中から歴史を振り返り、自分たちがどこに立つかと言うことを深めていく中でユダヤ教が成立していくのです。旧約聖書の多くはこのとき編纂されていきました。
政治、経済が自分たちの人生を左右していくことをよく知っていました。政治、経済が弱いと近隣の大国によって振り回されるのです。しかし、「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。」と知るのです。それは真実ではない。虚構であると。
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。
まことに真実なるものは、「わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」とは、神の言葉であるというのです。神の言葉に聞き従うことである。魂はその豊かさを楽み、魂に命を得るというのです。
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「私たちは21世紀にはこれまでのどんな時代にも見られなかったほどの強力な虚構と全体主義な宗教を生み出すだろう。」と歴史学者ハラリ氏は21世紀を言っています。まさにプーチン大統領のロシアがウクライナを侵攻したのはそのことを私たちに突き付けました。
だからこそ、私たちは聖書の歴史から学ぶべきです。国の崩壊で苦難を経験したイスラエルの民は何よりも神を信じ、神の言葉に聞き、従うことこそ危機を乗り越えて力だとし、自分の血、肉としたのです。今の時代だから、「わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。」ということに耳を傾け、聞き従うことです。イエスさまが言われるように悔い改めです。
イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
悔い改める、それは個々の罪に制限しないで、人間の存在全体にかかわるもの、しかも『信仰者の全生涯』にわたって行うべきことであり、心の転換をいい、これまでの生き方を止めて、全く他なる心をもつこと、キリストに生きることです。キリストに生きるとは希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。ローマ5:5ということです。今までの生き方を止めて、世の虚構の力でなく、罪深き、弱き者に注がれるキリストの愛に自分が生かされているという真実の道を生きることこそ、わたしの道はあなたたちの道と異なるという道を生きることです。神の愛に受容された道こそ虚構と現実、宗教と科学を区別する力です。今、しばらく真実な道が閉ざされているような困難な道を歩むでしょうが、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。」という方と「み国が来ますように」と祈りつつ、共に歩み、神の国建設に励みましょう。
参照:『ホモ・デウス』ユヴァル・ノア・ハラリ 訳柴田裕之 河出書房新社
『教育改革者ルター』金子晴勇 教文館
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牧師室の小窓からのぞいてみると
旧約聖書は弱者を守るように神からの命令として律法を作り保護を義務づけた。それは、逆に弱者を守らないという現実があったからだ。イスラエル人はかっては弱者であり、苦労や苦難を味わった。しかし、その苦労や苦難が人間を決して精神的に成長させず、貧しくすることもあることを知っていたから律法を作った。
ロシアは第二次大戦で、ドイツ軍から街が包囲され餓死させられた苦労と苦難をした。しかし、今、彼らは非難したウクライナの民間人に容赦なくミサイル、爆弾を打ち込んでいる。苦しい歴史の経験から何かを学ぶ者もあれば、何も学ばない者もいる。今のロシアは後者にあたる。
いくら弱者を守る神の命令ある律法を作っても、軽視していたことに常に神は預言者を遣わし、激しい非難をし、忍耐強く諭し教育していった。ロシアもウクライナも同じキリスト教の正教会である。しかし、ロシア正教から何らの非難も、忍耐強い諭しも教育の行動も聞こえてこない。キリスト教とはこの程度かと問われている。
そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べという聖書の言葉を聞く。教会は、悔い改めの実を結ぶように平和を作り出すことに努力しないと塩の効き目が無くなった塩のように捨てられる。
園長・瞑想?迷走記
終了式、卒園式を終える。かといっても新型コロナウィルス感染者が止まらない中では、こういう行事の後は気が抜けない。取越し苦労かもしれないが、ひたすら何事も起きませんようにと祈るしかない。式が終わるや否や胃がキリキリしてくる。それはどこの幼稚園園長も同じではないだろうか。
やることをやるしかない、丁寧に、そして何よりも子どもたちのことを思って日々、準備をしていこう。長期預かり保育が始まる。胃がキリキリ。
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日毎の糧
聖書:ルカによる福音書21:34 詩編39
主よ、それなら/何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。 詩編39:8
あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。 ローマの信徒への手紙2:4
ルターの言葉から
あるいは、神の慈しみ、すなわち、それによって神があなたを不断に慈しみ、いつでも悪を赦してくださるところの愛、と忍耐、すなわち、それによって神があなたの多くの大きな悪を忍んでくださるところのもの、と寛容、すなわち、それによって神があなたの改善の延引を持ってくださるところのもの、の富、豊かさを、あたかもそれを必要としないごとくに、あなたは軽んじるのか。神はあなたに対して大いに豊かであって、あなたがもっと自由に、もっと長く罪を犯せるようでなく、もっと速やかに悔い改めるようにするものであり、神の慈しみがあなたを、罪をますことへではなく、悔い改めへと導くことをあなたはしらないのか。ところが、愚か者のように、われわれはむしろ逆の方向に誤り用いてしまう。 『ルター著作集第2集8 ローマ書講義上』 徳善義和訳 聖文舎
神の慈しみ
なぜ、人は自分を防御し、防御がエスカレートして相手を打ち負かそうと戦いにまで発展していくのだろうか。私が神の慈しみに生かされていることを信じきれないからではないだろうか。
しかし、こういう私に豊かな慈愛をもって寄り添って生かしてくださり、悔い改め、神への慈愛へと導いてくださっています。
主よ、それなら/何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。という祈りを続けていくものとなりましょう。
祈り:豊かな神の慈愛によって、常に悔い改める者となりますように。
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大森通信
「大森ルーテル教会70年史」15 束の間5 冬季オリンピックがパラリンピックをもって、終了した。そして、オリンピックがロシアのウクライナ侵略で、政治の洗礼を受けて、ロシア、ベラルーシは参加が出来なくなった。 1979年ソ連(現・ロシア)のアフガニスタン侵攻によって、1980年に行われたモスクワオリンピックは、西側諸国のボイコットによって、「スポーツと政治」の関係が問われる大会となった。そして、今回の北京冬期パラリンピックは、逆にロシアは参加が出来なくなった。再び、「スポーツと政治」の関係がクローズアップされ、解決に至らない。平和の実現にために開催されたオリンピックであるが、戦争によって中断されたり、ボイコットされたり、参加を拒否したり、いつも戦争と言う政治的影響を受けている。 教会の70年間、日本では東京オリンピックが2回、冬季オリンピックが札幌、長野で開催された。2021年のオリンピックは新型コロナウィルス感染のパンデミックの中で行われ物議を交わした。このときクローズアップされたのは、「スポーツと金」の関係であった。 オリンピックは時代を反映し、影響を受けて続いてきた。しかし、当初のスポーツによる平和の祭典の目標はまだ道半ばである。大森教会も時代を反映し、影響を受けながら当初の目標と課題を持ちつつ道半ばである。目標、課題、宣教!
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(大森日記)日)3・11東日本大震災を覚えて音楽礼拝、「この人を見よ」イエスさまも共に苦しんでおられ歩みを共にされる。訪問し、祈る時を与えられる。感謝。火)静岡に役員会、総会で出張。帰りに静岡に寄ると町が変わっている。水)モスクワから帰国されたM姉家族とお会いできる。まずは休息を!夜、激しい地震。3・11を思い出す。嫌な夜となる。木)今日で終了式。といっても年少は学級閉鎖で年中組さんだけ。きっといつかこういう日があったと言えるだろう。金)天気は持ち堪えて卒園式は無事終了。こういう行事の後は心配が尽きず胃がキリキリ。