おまけ・牧師のぐち(続日記)牧師だって神さの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。(8月19日~25日)
おまけ・牧師のぐち(続日記)牧師だって神さの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。
土)掲示板の下のパンフレットを作った後、「土着の思想」(半沢弘著 紀伊国屋新書)を読む。今、私が問うている気持ちに寄添ってくれる文章に出会う。「今ふりかえって見れば、戦時下かなり冷静に『戦争凝視』の地点に立って得ていたのは・・・・・・・私のキリスト教徒としての眼であったように思われる」と言った直ぐに、「しかるに敗戦後復員してきて、アメリカ軍の占領下にある日本キリスト教会に接して以来、いつとはなしに私の内面からイエス・キリストの影は消え、信仰は指の間から砂のようにこぼれおちてしまっていた。学生として兵士として息詰まるような緊張感・充実感をもって立っていた戦時下の日々、そしてそれを支えていたキリスト信仰-それが敗戦とともに沫雪のように消失しさるとは一体どういうことなのか? 『信仰』とは『思想』とは私にとって、人間にとって一体何なのか、という疑問はそれ以来私の生涯の課題であった」。引退を前にして私自身、信仰は指の間から砂のようにこぼれおちていきそうな気持にあって『信仰』とは何かという事を深くと言い始めた。
日)教会学校、通常礼拝、3年ぶりの制限のないところで68名の子どもらの教会学校のデイキャンプ、夕礼拝と続く。デイキャンプのために朝から女性会を中心にカレーライスの食事作り、幼稚園の先生はキャンプの中心となって働いてくれる。教会、幼稚園ともに子どもに寄添いながら過ごす。テーマは「光の子どもとして歩む」ということで、ランタンを作る。コロナ禍は夕涼会として短時間の集まりだった。コロナ禍の最初の夏休み、外に出ていないのでどうにか外で子どもたちが出して欲しいという保護者の願いで、びくびくしながら、また覚悟を決めて行っていた時代からすれば、今年は隔世の感がある。
月)九州の墓参りに行く。兄がまだ健在で近くに住んでいるから、墓も維持は出来るが兄が倒れたらどうするかと思う。墓じまいをした所もあった。墓を守るために家を不動屋さんから情報をもらい購入、借りるかとなるが、いざ生活するとなると不安がいっぱいである。一時間に何本も出ていたバスも一時間に一本になって久しい。ため息。
火)熊本で4年ぶりのルーテル教会の宗教法人、学校法人、社会福祉法人、幼稚園・保育園連合会の研修と総会。姜尚中氏が現実、ミッションの関係を解き、では教会はどう進むのかという事を分かりやすく話してくれる。熊本城は2050年に修復が終わるという。そん時はこの世にいません。時は面白い。
水)法人会の総会、「コロナ禍の置かれた状況とこれからの課題と取り組み」について発題がある。聞きつつ、もう私が関わることはないだろうと思う。時は早く過ぎていく。気づくともうジ・エンドである。
木)一日、休み。家内孝行、付き合って窯元周り。散策中、暑さに閉口。これからの湯飲みを購入。21時以降の飛行機で九州を離れる。0時に東京の我が家。
金)園児は夏の暑さにも負けずにどろんこ大会ではしゃいでいる。元気が一番良い。