1. HOME
  2. 風のように
  3. 平和を作り出す人は幸いである

平和を作り出す人は幸いである

主は多くの民の争いを裁きはるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。

  ミ カ4:3

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。           ヨハネによる福音書15:9~12

【説教要旨】

 少し以前までは、日本は平和ボケしていると言われました。明治の維新から第二次対戦まで日本は近代化のもとで日清、日露、第一次、日中、77年間どこかで戦争をしていましたが、戦後76年間、戦争を直接にすることなく平和に過ごせてきました。今回の首相の広島平和記念式典で、「核兵器のない世界の実現に向けて力を尽くす」という肝心の部分を読み飛ばすトラブルがあったのも、平和が当たり前のように生きている私の心がここにあらずということを代弁しているように私には思え深く反省させられました。

 ルターの「この世のまた外的な平和は、最高の神の賜物の一つである。しかしわれわれは、あまりにこの平和を濫用している。人は皆、神

に反して勝手気ままな生活をする。」という言葉に私たちは耳を傾けるべきだと思います。

 ルターが生きた中世後期は、戦争の時代であり、外的にはオスマン帝国の侵略という脅威がありました。さらに感染病であるペストが感染拡大し、社会の不安の中で罪ない人々が大衆の誹謗中傷によって魔女とされ、教皇さえこれを政治利用して殺害する時代でした。

 だからこそ「この世のまた外的な平和は、最高の神の賜物の一つである。」ということをルターは強く感じていたのではないでしょうか。、今、コロナ禍ウィルス感染拡大とインターネットを通じての誹謗中傷、世界が覇権主義になっていく時代に私たちも他国の脅威を感じるようになっており、このルターの言葉が実感出来るのではないでしょうか。

「しかしわれわれは、あまりにこの平和を濫用している。人は皆、神に反して勝手気ままな生活をする。」とルターは神から離れていく人間の罪を見抜きます。これが悪魔の支配です。私たちはこのことにまた気づかされます。平和は、最高の神の賜物の一つであるということを知りながらも、むしろ、新型コロナウィルスのパンデミックの中で、なかなか平和に世界が向かわない現実も事実です。だから、神は私たちに何を語りかけているか、何を望んでおられるかということを今、この時だからこそ真剣に問わなければなりません。

私たちは今、危険な状況にいるのです。私たちはもっと自覚的に平和は、最高の神の賜物の一つであるということを追求しなくては、「核兵器のない世界の実現に向けて力を尽くす」という肝心な言葉を飛ばしても不思議に思わず先に進んでしまうのです。

これが現実の世界であり、世の終わりさえ予見させることです。主のみ心が貫かれていない現実、事実があります。

この現実と事実の中で、イエスさまは私たちに何を語られているのでしょうか。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。

わたしの愛にとどまりなさい。

 私たちは神に愛されたものであるということです。それは私たちだけでなく、すべての人が神に愛されたものであるいうことです。たとえどのような状況にあっても全ての人々は神に愛された存在であるということ

を信仰において信じ切ることです。だからこそ、愛されたものとしてたとえ敵であっても憎しみを越えていく力を神さまから与えられていきます。

あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。マタイによる福音書5:43-45

とイエスさまは「わたしの愛にとどまりなさい」と私たちに勧めるのです。私たちが留まりえる場所、立つ場所はイエスさまの愛の場所であるというのです。

この世のまた外的な平和は、最高の神の賜物の一つである。しかしわれわれは、あまりにこの平和を濫用している。人は皆、神に反して勝手気ままな生活をするという悪の支配を荒れ野の試練と十字架において打ち破った神の愛にとどまることです。これが信仰の世界です。人は皆、神に反して勝手気ままな生活をする、自分勝手の自己中心の世界から、神中心へと私をむけるのです。それはまた社会への責任を私たちにむけます。

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。

隣人を愛する人へと私たちが向かわされるのです。神の愛を信じる者は、互いに愛するという世界をもつということです。

そして、同時にわたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさいということは、互いに愛することが出来ない平和でない世界がいつも私たちの回りにあるということであるし、いつ愛が、平和が崩れ去るかもしれないという脆さもあるということではないでしょうか。それが今という時であり、日々です。だから主イエスさまはこれがわたしの掟であると私たちに言われ、常にこの今という厳しい状況にあって、愛の実践と平和を実現するように努力をしなくてはならないのではないでしょうか。

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟であるのではないでしょうか。

 こういう時だからこそ、自己保存的になるのでなく、他者の為に生きる一人一人とされますように祈り続けていきましょう。