1. HOME
  2. 風のように
  3. 風のように:8月22日通信

風のように:8月22日通信

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりな さい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武 具を身に着けなさい。 エペソの信徒への手紙 6:10-11
そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」 と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだ れのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っ ておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信 じ、また知っています。」 ヨハネによる福音書6:67~69

【説教要旨】


新型コロナウィルス・デルタ株の感染は、私たちの身近迄迫り、爆発 的増加は医療崩壊寸前まで来ています。救急車のサイレンはひっきりなし聞こえてきます。そういう中で、教会は、礼拝出席、「自粛」から「無会衆」を原則という強い方針へ緊急に変更ました。また、初めてのZOOMでのオンライン礼拝も加えました。この一週間で礼拝、教会の活動は大きな大きな変化を余儀なくされました。今回のデルタ株は子どもも感染するということで、幼稚園を持つ教会としては気が気ではいられません。休園するのか夏休みを延長するのかまだ国、都、区の方針は正式に示されていません。コロナの多くの情報をインターネット、テレビなどを通して得て、知識を与えられています。しかし、情報、知識を得れば、不安が取り除かれるのかというと、むしろ、どうでしょうか。不安が増すばかりではないかと思います。大きな試練が続き、そして疲れを私たちは覚えます。

こういう苦難の試練の時だからこそ、祈り、落ち着き、神のみ言葉に 耳を傾けましょう。今年の教会の聖句は、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。ローマ信徒の手紙 12:12」と いう言葉です。これは、使徒パウロの勧めの言葉です。この根拠はパウロ自身が主に依り頼み、その偉大な力によって強くされ、悪魔の策略に対抗して立つことができ、神の武具を身に着けたという信仰の姿勢にあります。ルターが「私があなたを救うようにとあなたは願っている。悩まないでいなさい。あなたは、私を教えるのも、自分を教えるのもやめて、あなた自身を私に委ねなさい。私はあなたにとって十分な師になるだろう。私はあなたをある道へ導くと、そこであなたは私の心に適うように歩む。あなたは自分の思うようにいかないと、もう駄目だと思う。あなたの思いは自分を傷つけ、私を妨げる。あなたの知恵に従うのではなく、あなたの知恵をこえなければならないのに・・・・・無知に沈みなさい。そうすれば、あなたに私の知恵を与えよう。無知は正しい知恵である。どこへ行くのか知らないことは、どこへ行くかを正しく知っていることである。 主に依り頼み、その偉大な力によって強くされていくことです。ルターはヨハネによる福音書6章68節(シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」)の講解で次のようにいっています。この世で多くの障害や不愉快な事柄の中で、多くの悪魔や邪悪な人々に逆らってキリストと共に居続けようとする者は、人間の力とは異なる支えに依存している。神に頼り、それについて確信することができ、さらに、主キリストのために地獄の底のよどみをすべて自分に背負ってもよいというほどの激しい心から愛をもっているにちがいない。だが彼らは、自分が恵み深い神をもち、キリストは、この世のすべてやこの世のもつものより彼にとって慕わしいということのほかには、何の宝も支えも知らないのである」という信仰に私たちは導かれていきます。主により頼み、その偉大な力によって強くされていくことです。つまり、神の武具を身に着けることです。

さらに「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」という講解で、「人々は、他の様々な物事や芸術や書物などを、日夜追い回し、雑事や気苦労を限りなく続けている。・・・・・・・聖書ほど誰もが直ちに学び通せるものは、この世の学問や書物では手に入れられない。しかし、まことにそれは、彼らが考えているように読む言葉ではなく、思索したり、深く夢想したりするのでなく、それを生きる言葉であり、生きて行うように定められている言葉である」と書いています。この試練のときだから、「あなたがたも離れて行きたいか」とイエスさまの言葉は、それは「あなたがたも離れずにともに行こうという」 励ましの言葉でもあります。私たちはイエスさまのことばに「はい」と答えることが出来るように聖霊の力をいただくように祈りましょう。たゆまず祈るということです。フランシスコ教皇は、「どれほどの多くの人が祈り、犠牲をささげ、すべての人のために執り成していることでしょう。祈り、ひっそり行われる奉仕-それこそが、わたしたちを勝利に導く武器です」と言われています。「ここに立つ」。主への信頼とみ言葉に立つ。「無知に沈みなさい。 そうすれば、あなたに私の知恵を与えよう。無知は正しい知恵である。どこへ行くのか知らないことは、どこへ行くかを正しく知っていることである。」この厳しい新型コロナウィルス・デルタ株感染の拡大の中にあって、 自分がいつ感染するかも分からない、死が口を開けて待っているという状況にいます。祈りましょう、祈りつつ多くの私に入ってくる情報を、 知識を落ち着いて処理し、「たとえ明日が終わりであっても今日、りんごの苗を植える」という希望をもって私たちの今日なすべきことを淡々とおこなえるものとされます。どこへ行くのか知らないことは、どこへ行くかを正しく知っていることであると希望を神は与えてくださり、正しくどこへ私たちは行くかを示してください。しんどい、きつい 日々が始まります。永遠の命のみ言葉を持っています。大丈夫です。 さあ、ここから出ていきましょう。最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 エペソの信徒への手紙 6:10-11

牧師の小窓からのぞいみると


新型コロナウィルスルデルタ株が猛威を奮い自分たちの身近に感じられる所まで来ていて心を煩わせているのではなではないだろうか。特に医療の逼迫は私たちを不安にしている。先が見えず、今日、私が感染するのではないかという不安で 一杯になるのが当然である。が、ここは祈り、落ち着こう。あなたは自分の思うようにいかないと、もう駄目だと思う。 あなたの思いは自分を傷つけ、私を妨げる。あなたの知恵に従うのではなく、あなたの知恵をこえなければならないのに・・・・・無知に沈みなさい。そうすれば、あなたに私の知恵を与えよう。無知は正しい知恵である。どこへ行くのか知らないことは、どこへ行くかを正しく知っていることである。というルターの言葉は、私たちが今、生きるに際して何かを 教えてくれているのではないだろうかと思う。
落ち着こう。そして、自分が救われる存在であることを信頼するとき、「無知は正しい知恵である。どこへ行くのか知らないことは、どこへ行くかを正しく知っていることである。」と妙義 を与えられる。今は落ち着こう。祈ろう。

園長・瞑想・迷走期

休み中も通常通り開園している保育園にコロナ感染が起きている。 幼稚園も預かり保育をしている園が増えて、保育園と変わりなくなっている。いつ感染が起きても不思議でない。そんな不安の中で、子どもから子どもへ、子どもから親へと感染することが起きている。感染リスクはさらに高くなった。当然感染リスクを低くし、感染をしないようにすることだ。その上で何が出来るかと言うとこの感染の中で、成長している子どもたちを委縮させず活き活きと動くことが出来るようにすることである。今までとは違った方法で考えることである。答えのない問題との取り組みだが、答えがないから凄い挑戦だと思う。先生方に挑戦だという思いを共に持つのも園長の仕事だと思っている。

日毎の糧 -ルターからの言葉-

聖書:出エジプト記32:13-14 詩篇15
「13 どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、 『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に 授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

「主は救われる」


私があなたを救うようにとあなたは願っている。悩まないでいなさい。あなたは、私を教えるのも、自分を教えるのもやめて、あなた自身を私に委ねなさい。私はあなたにとって十分な師になるだろう。私はあなたをある道へ導くと、そこであなたは私の心に適うように歩む。あなたは自分の思うようにいかないと、もう駄目だと思う。あなたの思いは自分を傷つけ、私を妨げる。あなたの知恵に従うのではなく、あなたの知恵をこえなければならないのに・・・・・無知に沈みなさい。そうすれば、あなたに私の知恵を与えよう。無知は正しい知恵である。 どこへ行くのか知らないことは、どこへ行くかを正しく知って いることである。 『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館

モーセの率いられた民は、不安から知恵を使い、神から遠ざかりました。神は怒りました。モーセが神の怒りを鎮めるように執り成し、神は、私たちが救われることを願う神となりました。 私たちは救われる存在とこの場所この時を、生きています。私たちは、また、多くの人の神の執り成しで生きています。私たちは一人ではありません。私にくだされる神の災いも思いなおさせる執り成し、隣人の祈りがあります。安心して神に委ねて共に歩んでいきましょう。
祈り)友の祈りと執り成しによって今を生かされていることを感謝して安心して、歩める者となりますように。

大森通信

宗教改革504年 1540年代  「死へ向けて⑺」

1546 年2月18日夜中、ルターは、三度目の発作を起こした。狭心症だろうと推察できる。医師はその死の近いことを周りの人に知らせた。段々と弱っていったルターに古い学友のヨナスとコエリウスは、「先生、あなたは死に臨んで 主・イエス・キリストに信頼なさいますか。あなたがみ名によって教えられた教理を告白しようとなさいますか」と大きな声で尋ねた。ルターは、「そうだ」としっかりした声で答えた。ルターは眠ったように見えた。大きな息を吐いて、天に帰っていった。出生地、洗礼を受けたアイスレーベンで、 1546年2月18日午前2時45分に召天した。
死を前にして、告解、終油の塗油は行われなかったし、聖餐もなかった。私が注目したいのは「主・イエス・キリストに信頼する」ということに対して「そうだ」の一言で、信仰告白をしたということである。「我、ここに立つ」から始まったルターの信仰は、どこに立つかを告白し、最後までキリストによる栄誉を受けようと走りぬいた。
死を意識して生きている日々にあって、「あなたは死に臨んで主・イエス・キリストに信頼なさいますか。」という問いに「そうだ」と答えてこそ死を超えられるのではないか。

参考文献:『マルティン・ルターの生涯』フリデンタール 笠利尚、徳善義和、三浦義和訳 新潮社、『マルチン・ルターー生涯と信仰』徳善義和 教文館、
『ルターと死の問題 死への備えと新しいいのち』 石居正己 LITHON

大森・羽村日記

  • 日)教会学校、生憎の雨で夕涼み会の花火会は中止。正直、残念と良かったという複雑な気持ち。来る予定の子供たちにお土産を渡す用意、連絡。
  • 月)幼稚園は盆休みを終えて預かり保育。コロナ禍、神経を使う日々。いっそのこと全てを止めてくれと言いたいがそうはいかない。「何も起きませんように」が本音。車で羽村幼稚園に。土地区画 整理事業の方と話し合い。
  • 火)ドキドキの保育。
  • 木)コロナの感染の拡大 が止まらず、代議員と相談し、再度礼拝自粛のお知らせをする。さらに zoom で同時礼拝が出来るように準備。
  • 金)週報など発送、気になる方に 電話で近況を聞く。
  • 土)夏の残りの厳しい暑い朝。午後からはオンライ ンの地区会。主日の準備、室内を消毒して今日は終わり。祈り。