1. HOME
  2. 風のように
  3. 風のように 9月26日 試練はいやですが、神の働きを見る

風のように 9月26日 試練はいやですが、神の働きを見る

9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。 9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。マルコによる福音書9:49~50

【説教要旨】

九州の海の側で育った私は海が遊び場でした。潮がひいた海辺で、海水を捨てられた空き缶に汲み、薪を集め、煮つめて塩を作って遊んでいました。塩は海からと取るものだと思っていましたが、ブラジルに行き岩塩というものに出会い、岩塩で肉を味付けすることを知りました。今も焼き肉のたれをつけて食べるよりも塩だけをつけて肉を食べる方が好きです。今日は塩の話です。

よくよく読んでみるとこの聖句は何をいっているか分かりづらい。

穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。レビ記2:13

穀物の神への献げ物は塩で味付けしなければいけませんでした。

「人は皆、火で塩味を付けられる。」というとき、人は神に献げられるものであるということです。私たちの人生は神へ献げる人生であるということです。神と共に歩むということです。それも律法の通り、塩で味付けられた相応しいものであるということです。しかし、私たちは神に自分を差し出せるほど相応しいものでしょうか。決してそうではありません。むしろ、逆です。しかし、塩づけられるためには「」 によるというのです。火に焼かれるということは浄められるということです。

あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。 Ⅰペテロ1:7

歴史的出来事の中でみるなら火は迫害です。信仰者にとって迫害は試練です。ルターは、試練を「福音はわたしから失われ、無関係になっているのではないか」という疑問が起き、福音との関係に生じると言うのです。イエス・キリストのみ言葉が、福音であり、恵みの言葉であったはずです。しかし、恵みの言葉としての福音が、火、迫害によって一見それとは思えないような現れかたをする、これが試練です。「福音はわたしから失われ、無関係になっているのではないか」という試練は、苦難を与えます。試練と苦難は同じです。試練、苦難をとおして、塩味を付けられ神の前にささげることの出来る者とされるのです。

塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。

「塩は良いものである。」といわれるとき、試練、苦難は良い物であるということです。私たちは、試練、苦難を逃れたいあまりにイエスのところに来ます。しかし、人間的には否定すべきものであり、望まない試練、苦難が良いものであるといわれるのです。

「ところが私たちは試練がないとすぐにも現状に不満を持ち、尊大になって勝手な要求を人生に押し付け、自己を知らず、神に問いかけもなさないで、自己の救いや他者への愛をないがしろにする。だからルターは『試練を何も持っていないことが最大の試練であり、神が怒りたまわないときこそ、神が最大に怒っていたもう』と逆説的に語っている。試練は私たちの人生に対する願望と正反対の事態としてわたしたちに襲いかかってくるが、このような経験をとおして初めて、人間のものではない神の教育が始まるのである。」(教育改革者ルター 金子晴勇 教文館)

試練、苦難をとおして、人間でない神の教育、神のわざが起きてくるのです。

だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。

自分自身の内に塩を持つ、試練をとおして起きてくる人間でない神のわざを持つことであり、それは試練と苦難を通られた十字架の主・イエス・キリストへの信仰です。主・イエス・キリストの十字架、苦難は、神の裁きの厳しさと、私たちを試練と苦難を乗り越えていく神の恵み、愛が現れる時です。苦しみを自分自身に強いて十字架に架かってくださった主・イエス・キリストを通し、私たちの内に神の愛で満たされていく神のわざを持つことです。

塩は生命の維持にとって不可欠なものです。弟子たちにも不可欠なものであり、私たちにも不可欠です。私たちが歩むべき道を歩ませるのはイエスの愛、神の愛への信頼、信仰とイエスの愛を自分自身の内に持ち続けることです。

それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。    マルコ8:34-35

塩、イエス・キリストの十字架の苦難に貫かれている神の愛を信じ、神の愛を自分自身の内に人間の命を超える神の永遠の命を得るのです。試練、苦しみの絶望的状況にあっても破滅することなく、私たちを根本的に変えてくださいます。

試練、苦しみは不安、絶望的破滅でなく、互いに平和に過ごすことの出来るものとされます。

今、私たちは新型コロナウィルス感染の拡大の中にあって、私たちの生き方を根本的に変えるところに立って試練と苦しみの中にいます。しかし、それは受難を通してみるとき恵みの時、神の愛が私たちの内にもたらされているときです。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 Ⅱコリント6:2」です。

「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。ローマ信徒の手紙12:12」と言われるように私たちは、祈りつつ、今日の一歩を互いに平和に過ごすものとされています。

牧師室の小窓からのぞいてみると 

中国の不動産会社・恒大33兆円の負債未払いが起き倒産するのではないかということで世界の経済が揺れ動いている。 そこで我が家の会話。「なぜ共産主義の国でこんな倒産が起きるの」、「なぜ、共産主義の国で貧富格差があるの」。笑い話ではあるが、意外と私もどこかでそう思っている節がある。共産主義=富の平等と。そして共産党が支配する国は、共産主義の国と。しかし、中国は共産党が実権もっていてもそうではないのであるが、どこか脳の中で現実を見て分かっていても、自分の脳に刷り込まれた先入観が、現実を越えて自分を支配している。刷り込まれたことは現実がどうであっても、刷り込まれたことが正しいことになる自分に気付く。

新型コロナウィルス感染に関して一連の感染防御に対して反対を唱える人たちも、今、コロナで多くの人が死んでいっても、マスク着用、ワクチン接種を反対しているのは、コロナに対する違った知識を刷り込まれたからだろうか。

 園長・瞑想?迷走記          

 二学期が始まり、一ヶ月が過ぎました。気づいたことは子どもたち一人一人が大きく成長したことです。そして、成長は、色々なことに気付き始めたということです。知恵がついてきたこということでしょうか。

ほとんどの子どもが大きく成長していくなかで、まだ成長が遅い子どももいます。自分より小さなその子が気になり、子どもたちはと表現をします。そんななかで先生たちを困らす行動もしてきます。

小さな子ども、大きな子ども、違いはあるけどその違いは大切なことであると伝えていくにはどうすれば良いかと課題が先生方に投げかけられます。違い、それが普通なことであり、違いのあることが大切だということです。さて、みなさんはどう小さなこどもに違いの大切さを教えますか。違いがあって当たり前という心が子どもたちに届きますように。

日毎の糧-ルターからの言葉

聖書:ローマ8:1-11 詩篇8

あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。        8:15―16

「『アッバ、父よ』と呼ぶ」。パウロは神への信頼を、きわめて意義深い言葉で言い表している。つまり、恐れ の霊の内にあっては人は叫ぶことができず、ほとんどつぶやくことも口ごもることも出来ない。なぜなら、信頼は心と額と声を広く開放する。恐れは、経験が充分にしめしているとおり、確かに、こうしたすべてのものを縛りつけ、押し潰すからである。アバと言うこともせず、むしろ憎しみ、これを逃避し、あるいは敵や暴君に対するごとくにつぶやく。」                         「ローマ書講義上巻」ルター著 松尾喜代司訳  新教出版社 

アッバ、父よ

 私たちは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けた者だからです。                             だから『アッバ、父よ」と呼びかけを赦されて、神の子とされているのです。子が父を信頼して、「おとうさん」と心から安堵の気持ちをもって呼びかけ、恐れの霊の内にあっては人は叫ぶことができず、ほとんどつぶやくことも口ごもることも出来ないことから解き放たれます。ここにはもはや神の恵み深い心を疑わない主への信頼への強い力が、聖霊が働いているのみです。恐れから解放があり、平安と慰めがあります。

『アッバ、父よ』と呼べと主は私たちに語りかけてくださっています。厳しい状況に今、私たちはいますが、大声で『アッバ、父よ』と祈りを呼びかけていきましょう。

祈り)主を信頼して、祈りが大胆なるものとなりますように。

大森通信

宗教改革504年      1540年代 

死へ向けて⑫   

 ルターの遺体は、2月19日にアイスレーベンの聖アンドレアス教会に安置され、ユストゥス・ヨナスが追悼説教を行い、20日にミヒャエル・コエリウスが追悼説教を行った。22日にウィッテンベルクの城教会に着き、市教会牧師・ブーゲンハーゲンが、「 兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。Ⅰテサロニケ信徒への手紙4:13-14」のみ言葉をもって追悼説教を行った。大学を代表してメランヒトンが追悼の辞を述べた。城教会の説教壇の前に葬られた。この葬儀の流れは、ごく普通の流れである。

ルターの死顔は、フルテナーゲルによって描かれ、肖像からはルターが安らかに天に旅立ったことが想像されるに違いない。

 参考文献: 『マルチン・ルター-生涯と信仰』徳善義和 教文館

      『ルターと死の問題 死への備えと新しいいのち』 石居正己 LITHON

      『ルターから今を考える』小田部進一 日本基督教団出版局

(大森日記))牧師館の環境を整えるということで役員は苦労している。良い物件が見つかり見学に。もし、購入となると臨時総会で信徒の承認。事務手続きが大変。)祝日。気が休まる。庭を片づけていると気になることが目につく。)H幼稚園での事務作業。)70年史の完成への追い上げでS姉が労をとってくださる。きっと良き物が出来るだろう。70年記念礼拝式文の原稿を担当役員と打ち合わせ。いろいろとしていると夜更かしをして、主日の準備などをする。明日が幼稚園の休みだということもあるのだろう。)幼稚園が休みの日はホッとする。午前中、芝生を植えているとここで遊ぶ子供の姿が見えてくる。午後は休むことにした。夜中に起きてしまう。)礼拝説教の担当。職員会議。あっと時間が過ぎる。目の手術の方への祈り。)早朝から役員会資料作り。