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風のように 9月19日 弱さを受け入れる

 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。 ・・・・9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」                                        マルコによる福音書9:31~ 37

【説教要旨】

東京の新型コロナウィルス感染者が徐々に減少していますが、冬には感染拡大6波が来ると専門家は言っています。一年半も続く中で、政治的、経済的、心的弱さに直面しましたし、私たちは弱さの中にいて、弱さに誰もが苦しんでいます。

教会もまた例外ではありません。 三密(密閉、密集、密接)を避けることで、感染を防ごうとしています。集まること(礼拝)、接すること(交わり)は教会にとって基本です。しかし、礼拝をしていない、活動を止めているというのが教会の現状です。そして、日本の教会は、もともと弱かったのですが、さらに弱さを露呈しました。 しかし、私は、弱さこそ本来の教会の姿だと思っています。今年の聖書日課、マルコ福音書は、十字架の神の子・イエスのもっとも弱さ現わした受難物語を柱として、生涯を編でいます。 受難物語を読んでみます。

そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしっ て言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。          マルコによる福音書15:29-34

イエスさまは、十字架において、力ある英雄として神の子の姿を示さず、 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた(ピリピ信徒への手紙2:6-8)

という姿をしめされました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という弱さをイエスは大声で叫ばれたのです。神の子を固守するのでなく徹底的に弱さの中におられたのです。弱さとおそれの中にイエスさまは向き合ってくださったのです。今、私たちは新型コロナウィルス感染で、弱さ、怖さと向き合う日々の中で、生活ばかりか、人生がこわばりどう歩んでよいかということに苦しんでいるのではなでしょうか。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。まさに弟子のように分からなく怖くこわばり尋ねることさえ出来ない。しかし、ここにイエスさまはおられるのです。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。        マタイによる福音書1:23

弱さを受け入れて「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んでよいのです。ここにこそ、一緒に弱さと怖さ に向かい合って叫んでくださっているイエス・キリストに出合います。

そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と今日の聖書物語は続きます。子供の一人を受け入れるとは弱さを受け入れることであり、私たちが助ける者だけでなく助けられる者であるということです。助けられる者であることを知るとはわたし(イエス・キリスト)を受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方(父なる神)を受け入れるのであるのです。

「強くあるために勇気を振り絞ろうとする。だが、そうやってつよがろうとしても勇気は湧いてこない。勇気は自分の『弱さ』と向き合いつつ、大切な人のことを思ったとき、どこからか湧出してくる。」(「弱さの力 」若松英輔著 亜紀書房)

大切な人、イエス・キリスト、神、神から聖霊の力が湧出してくるのです。私たちは小さなキリストされるのです。

そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』  そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』      マタイによる福音書25:34~ 40弱さにつながる、それは弱さに共感し、いつと分からずに人を助ける小さなキリストになっているのです。

 

牧師室の小窓からのぞいてみると 

法隆寺の宮大工・西岡常一さんが、法隆寺金堂解体、再建が出来たことを次のように言っている。 「その組み上げていくのについて、うちのじいさんから、棟梁たる者は人の心を組むということが大事や、心を組んではじめて木組みというものができるんやと、よういわれましたけれども、そういう古い建物をこわしてみて、なるほどこれは一つの中心があって、それにみんなが協調して、何十人かしらんけども一つの人の心になっているというふうに考えられますわな。その底に流れてあるものはなにかというと、やはり信仰心やないかと思いますわ。仏さんの御屋形を作りあげようという篤い篤い心でしょうな。」①

今、新型コロナウィルス感染をどう止めていくかという課題が世界にある。しかし、こういう時なのに残念にも、みんなが協調して、何十人かしらんけども一つの人の心になっていない。感染拡大を止める実現には信仰、止めようとする篤い、篤い心、とするなら私たちの責任は重い。

引用:「斑鳩の匠風のように宮大工三代」西岡常一、青山茂 徳間書店

        園長・瞑想?迷走記          

 一年半ぶりに園長会をオンラインで開いた。新型コロナ禍でどう幼稚園の教育・保育を保っていくかという話になった。それぞれの園が置かれている状況について話されたことは大いに参考になったと思う。 ここでは、ルーテルの信仰を中心としてみなが協調し、一つの心になろうという意志があって、コロナ禍にあっても前へ進もうという勇気が出てくる。コロナ禍にあって、協調し、一つ心にあって、どんな幼児教育をし、どんな幼稚園経営をするのかこれからもみんなで模索しつつ、それぞれの個性ある幼稚園を人々に提供できればと思うオンライン会議であった。いつか一つに集まれる時まで頑張ろう。

                       日毎の糧-ルターからの言葉

                      聖書:ローマ3:9-11 詩篇130

では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。ローマ3:9-11

パウロも「悟ることも、求めることもなければ、その人は不義である。それだから義人はひとりもいない」を先に出したのである。義でないということは、どういうことかを説明するために、人が悟ることも、神を求めることもないからである、と言うわけである。

推論   彼がここで語っている、この悟りとは、信仰そのものであり、すなわち、目に見えなくて、信ずべきものの認識である。これは隠されたものの悟りである。人間が自分からは知ることができないものにかかわるからである。

『ルター著作集第2集8 ローマ書講義上』  徳善義和訳 聖文舎

「求めよ」

 「神を探し求める者もいない。」とパウロがいう時、それは「神を探し求める者」が私たちであるということではないでしょうか。

ルターは、「神をもつことではなくて、神を求めることに尽きるからである」といっているように、信仰心とはもつものでなく、求め続ける心ではないでしょうか。これがまた悟りであると思います。

わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。                           フィリピ信徒への手紙3:12

祈り)主・イエス・キリスト、私たちが生涯をかけてあなたを求めるものとして変えてください。

大森通信

宗教改革504年      1540年代 

死へ向けて⑪

 (神の)乞食としてのルターの死は克明に、同僚であったユストゥス・ヨナス、ミヒャエル・コエリウス、ヨハネ・アアウリファベエルらによって証言されている。その死は私たちに大きな導きを与えてくれる。新型コロナウィルス感染で身近な人の死を体験するとき死は私たちの身近にある。

ルターは死に怯えて免罪符の購入に走った信徒を牧会するために書いた「95箇条の提題」に次のように記している。

一四、死に臨んでいる人たちの不完全な信仰や愛は、必ず大きな恐れを伴う。そして愛が小さければ小さいほど、恐れは大きいということになるだろう。

「長い経験ある説教者、牧師、神学者であったにも拘わらず、ルターは自分を習熟した者とは考えなかった。絶えず初心者のように十戒、・・・子どもように祈ったし、他の人の人生経験に敬意を払っている。そして何よりも神の前に空手で出て、自分の持つ何か信頼するのでなく、ひたすら神の恵みの賜物に依存しようとしたのである。」②とあるように信仰(信頼)と神の愛に委ね恐れのない終焉を迎えた。

引用考文献:①『ルター著作集第1集 1』 「贖宥の効力を明らかにするための討論」 緒方純雄訳 聖文舎 ②『ルターと死の問題 死への備えと新しいいのち』 石居正己 LITHON 参考文献:『マルチン・ルター-生涯と信仰』徳善義和 教文館

『ルターから今を考える』小田部進一 日本基督教団出版局

(大森日記))コロナ禍での教会学校で近所に住んでいる幼稚園の先生にお手伝いをいただく。今日も信徒さんらに助けられた。)生垣の剪定。誕生カードの発送。園長会。)早朝に「風のように」を準備。)早朝に仕事をすることが多くなる。精神的にもこれが良いのかもしれない。ある神学者は「夜は悪魔の時、朝はイエスさまがお入りになるとき」といっていた。)今日も5時から机に向かい説教を作る。会議、事務処理。「聖書の学び」、歴史の表に出ない、いつの時代にもいる名もない不幸な者たちの苦しい思いを無視せず記している。旧約聖書は心にどっしりと伝わってくる。)リンゴ狩の清里の旅が出来ずに半日の内容の濃いキャンプを抗原キットをして年長組体験。)台風からの雨。